【坐禅について】
坐禅をして何になるか
その答えはハッキリと、
坐禅をしても何もならない、ということです。
私たちは絶えず、何かを求めて生きています。それは金であったり、恋人であったり、
学校や会社での成功であったりします。最終的には現在の自分に欠けている「しあわせ」を
追いつづけているのでしょう。
しかし、一生懸命に「しあわせ」になろうとしている私たちは「今・ここ・この自分」の本当の有り方を見失って、自分をいつも留守にしているのではないでしょうか。
「しあわせ」になろうとしているうちに、「しあわせ」とはいったいなのか、ということも、今の自分
は実に幸せの中にいるのだ、という現実も分からなくなってしまいます。
いったん、求めることを止めなければなりません。
何かになろうとハカラって坐るのは坐禅ではありません。あらゆるハカライを止めにして坐らなければなりません。
道元禅師の正法眼蔵坐禅儀に
兀兀と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禪の法術なり。坐禪は習禪にはあらず、大安樂の法門なり。不染汚の修證なり。
とありますが、大安楽の法門といわれながら、いざ坐禅してみると、そんなどころではなく、痛みと眠たさ、怠さ、退屈、煩悩・妄想・無明、欲望と執着が迫り、イライラ、クヨクヨ、と心が落ち着かなかったり、また沈んだりすることは多いでしょう。それらの自分の思い・感情・気分をすべて手放します。
畢竟、本当に死ぬつもりで、坐禅のママで死んでもよいという気持ちで坐禅をしなければ、坐禅の道は開かれないのです。たとえ自分の命でさえ、手放せないものがひとつでも残ってしまえば、坐禅しているつもりでも時間を無駄にしているだけです。
ただ、「私」が坐禅して一生懸命がんばるのではなく、坐禅の姿勢に任せるだけでよいのです。「私」が坐禅しているうちは、本当は坐禅していないのです。坐禅の姿勢に任せきったときにはじめて坐禅が自ずから行われ、現成します。坐禅は「私」のためにある手段ではなく、逆に坐禅のために「私」を投げ捨てていかなければなりません。
そのとき、自分ではなく、坐禅が坐禅をします。と同時に、自分が始めて本当に自分になり、
「自分」をします。
坐禅についての資料
正法眼蔵坐禅儀
普勧坐禅儀
坐禅の仕方
坐禅の心構え