【帰命】
〜まっさらな自分 に立ち返る〜
〜3月号〜

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善いことをするというイヤらしさ

 「『善いことをする』という悪いこともある。」(澤木興道)

 澤木老師がここで言わんとしているのは、何も「善いこと」自体が悪いというのではなく、善いことをしていると、「オレはいいことをヤッタ」「だからオレはいいヤツだ」と思ってしまう自分が悪いのだ、と言うことだと思います。私たちは、人によく思われようとして善いことをしたり、あるいは「善いことをすると、自分も気持ちがイイ」といって善いことをしたり、また神様や仏様に喜んでもらおうとして善いことをしたりしますが、それらの「善いこと」は本当の意味での善いこととはいえません。

 私たちはなぜか、「ただ」善いことをするということをあまりしません。善いことをしたとしても、それはいつも無理を伴い、不自然に思われるではないでしょうか。いつも人を意識し誰かにほめられたいのですが、誰にもほめてもらえないときは少なくとも自分で自分をほめたくなります。この心理はボーイスカウトの「一日一善」から始まり、ロータリークラブやその他のボランティア、そして宗教の善行にもよく現れるではないかと思います。

 親鸞上人は「善人なほもつて往生をとぐ、況や悪人をや」(善い人ですら救われるのであれば、悪い人は特に救われているのだ)と言い放ちましたが、これはキリスト教の聖書にもよく見られるテーマです。
 善い人ほど救われにくいものはありません。なぜならば、「自分は善い人だ」という思いがなかなか抜けないからです。自分が善い人だ、と思ってしまうと、そもそも他に救われる必要などあるのかというウヌボレも生じてきます。ウヌボレルと、自分のエゴやプライドに執着し、自分自身を手放せなくなります。懺悔もできず、天地一杯の命の力に任せることもできません。

 それに対して、悪い人は悪いのですから、プライドもなければウヌボレもしません。ですから、悪い人は善い人より簡単に「ただわが身をも心をも、放ち忘れて、仏の家になげいれる」(正法眼蔵・生死)ことができます。

 それなら、善いことをするよりも悪いことをすべきなのか、悪い人間になった方がいいなのか、という人がいますが、もちろんそうではありません。人間は「善いことをしよう」と思っても、「悪いことをしよう」と思っても、同じく悪いのです。それは、「・・・ことをしよう」という人間の思い自体が悪いからです。何かをしよう、何かになろう、と思うと、もうすでに人間の「計らい」です。宗教とは、そういう人間の「計らい」を「止める」ことです。善いことをしようとして善いことをするのも、悪いことをしようとして悪いことをするのも、ただカッコウをつけているだけであって、本当の自分の姿ではありません。カッコウいいと思って悪いことをする人も世の中には少なくないと思いますが、カッコウをつけて善い人ぶっている人たちと同じくらいくだらない連中です。私たちがただ今ここ、自分になり、自分をすることはどうしてこんなに難しいのでしょうか。
(堂頭)
報恩接心の翌朝

       
・・・と思っている。(VOL II)

大阪はヒトとモノで溢れている。そういった意味では安泰寺はナニもない。ただ、雪と緑と曇り空。禅に熱心な参禅者に‘ツマラナインジャァナイィ?’と聞かれた。ふと考えた。ずっと大阪で過ごしてきた今までの自分を。刺激や変化を求めてた人生。ピアスをばしばし開けてみたり、外で一夜を明かしたり、背中に模様を入れたり。結婚してみたり、名字が変わったり。物理的に何かが変わったところで、結局ジブンは何も変わっていないんだと今更ながら気付いた。つまらない人生が、意味しているもの。それは、自分のつまらなさではないかと思う。つまらないつまらないと溜息をつき、人生を憂えるんじゃなくて、自分自身をかえりみる必要がある。と思って、真面目に家事に励む今日この頃。些細なことで幸せを見つけられるような人間になりたい。と思っている。
(トモミ)
犬様に見下される人間ども

禅と知性

 禅と知性の関係は何だろう。

 私は最近安泰寺という禅寺に住み初めたオーストラリアの男。仏教、とくに禅、について本を沢山読んだが、実際に寺の生活を体験するのはこれが初めて。
 仏教を哲学の科目として大学で勉強したとき禅に引き付けられた。そのころ私は堅固な合理主義者だったからすべての問題を解決するために論理と理性を信じた。若いときはいつも数学とチェスを楽しんで大学に入ってからデカルトとプラトンの合理的な哲学を学んだ。
 私は自分の人生を考えるときでさえ○×思考で十分だと思っていた。その理論と実践の矛盾の差がいつも私を困らせた。

 私はだんだん変わったけれど人間のくせというやつは強いものだ。私はまだ現実からかけ離れた概念や屁理屈に頼りすぎている。私の心の変化と関係している大きな出来事のひとつは、私の一番の親友が彼女と分けられて彼女は彼の別の友達と付き合い始めたことだ。みなが起こって友達同士の縁が切れた。「結局愛や羨みのような強い感情が理性よりも人間の生活をコントロールしているではないか」と、私も親友も思った。
 その後私は無の心を初めて経験した。本を読むことが刺激的だけど普通はその刺激が次第に消えていく。一番大切なのは体験。私には静けさや無心について読むことが良かったけど完全に感じることが素晴らしかった。本ものは、いつも経験の方だよ。

 最近初めて接心に参加したが痛みや知性や無心について沢山を習った。長い間、半跏趺坐で坐れば痛いだけど知性が止まれば静けさがあって悪く見えない。痛みを意識するほど痛みは痛くなる。

 私が解決をまだ全部えていない。実はまだ解決からすごく遠いだ。静けさと直感の価値や人間の他の特別な部分や知性の限界を理解し始めた。
(JOEL)
室内温度マイナス3度。
美しい花模様はうれしいが・・・。


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