【帰命】
〜まっさらな自分 に立ち返る〜
〜9月号〜

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少欲・知足  (大人の修行・その5)

 「アンタにまで赤ちゃん返りされては困る!」
 6月のはじめに私の長女が産まれてから、よく妻にそう怒られてしまいます。赤ちゃんが産まれると、上の子が今まで成長して覚えたことまで忘れて精神的に「赤ちゃん」に戻ることを心理学で「赤ちゃん返り」というらしいですが、よく見られる現象だそうです。しかし、子供ではなく、その子供を育てるべき親まで「赤ちゃん返り」してしまうのは、本当に困ったものです。しかも、その親が毎月「大人の修行」と称して、「大人」の如何を論じているところまで来ますと、どこかが可笑しいですね。自分こそ大人になっていないから、人の幼稚さが気になるのでしょうか。幼稚なほど、大人ぶりたくなるのでしょうか。「大人の修行」は、我が身を省みることからはじまらなければならないことは、間違いないですね。

 先月は「修行」という言葉について考えましたが、その結論は「大人の修行」は「仏・菩薩として生きること」であり、この生きることが「修行」で、「仏・菩薩」は「大人」の意味だ、ということでした。「大人の修行」を「オトナの修行」と読んでも一向にかまいませんが、「大人」は仏教用語として、本当は「だいにん」と読みます。その意味はまさに「仏・菩薩」あるいは「摩訶薩(まかさつ)」です。一般には二十歳にさえなれば「大人」として認められますが、二十歳を過ぎても「菩薩・摩訶薩」になっていないのは、残念ながら常です。仏道を目指す人でさえ、そうです。オトナにはなっても、「だいにん」という、修行に置いての本当のオトナにはなっていません。では、本当の大人とは何でしょうか。

 道元禅師の書物の中に「八大人覚」というのがありますが、ちょうどこの「大人」のあり方を八つの方面から説明したものです。
 「八大人覚」は、まず「少欲」と「知足」からはじまります。
 京都のある禅宗の一派の本山で修行をしていたころ、欲を出してギリギリの時間まで托鉢をしたことがありました。結局、決まった時間まで僧堂に帰るためタクシーに乗らなければなりませんでしたが、せっかく托鉢でいただいた財銭をタクシー代に当てることになりました。我々四、五人の修行僧を運転士は厳しく問いつめました。
 「『ショウヨクチソク』という言葉をしらんのか!?」
 「はっ?」
 「『吾、唯だ足るを知る』とよくいうだろうが。」
 「うるさいな・・・」
 我々のリーダーはその問答に応じる力はとてもなかったようです。『ショウヨクチソク』とは、「八大人覚」の「少欲」と「知足」です。求めれば求めるほど苦労するだけだということと、いま自分に与えられた、この一瞬のかけがえのない命の素晴らしさに気付きさえすれば、他に求めることがなくなるということです。どんな時でも文句ばかり出るのは、「少欲・知足」の大人ではないからです。「少欲・知足」というのは、自分にもうすでに与えられている物以上、不必要なものまで求めないと言うことと同時に、今の自分にない何らかの精神的なもの、「心の落ち着き」とかいったものを追い求めないということでもあります。
 安泰寺では何年修行しても、小遣いは出ません。もちろん、年金を払う金もありません。年末に個人的に托鉢したお金で国民健康保険が払えるくらいです。一年中あれだけ苦労していれば、年収何百万は欲しいものですが、収入もなければ褒められすらしません。修行僧の頃はそれはそれで当たり前と自分でも納得しましたが、住職になっても、やはり収入も小遣いもゼロです。しかも、個人的な托鉢をするというような余裕も段々減ってきます。なのに、結婚もし、子供も産まれてきますから、歯ブラシ一本と下着3着ではやっていけなくなります。「大人」の自覚を忘れてしまえば、いくらでも文句が言いたくなりますが、自分の意志でここに来、ここで生活し、結婚もし子供も育てているのではないか、と自分に言い聞かせれば、なんだ、小遣いがなくても、空気は吸えるし、水が飲めるし、自分の田圃で育てた玄米までちゃんと食えるではないか、ということに気付きます。「学道は乃ち貧なるべし」といわれていますが、安泰寺の生活はまさにその「貧」に徹底しております。
 しかし、本当の学道の「貧」はなにも「物がない」ということではありません。むしろ「我がない」、「心が純粋」ということです。このホームページの坐禅の心構えにのっている「自分のコップに水が一杯になっていたのでは、水を注いでもこぼれてしまう。先ずコップを空にして即ち己見、己我を残らず振り捨てて正師の一言一句を余さず洩らさず受け入れる態度がなくてはならぬ。 」という言葉はまさにそのことを言い表しています。大人の修行はまず我見を振り捨てることからはじまらなければなりません。そうでなければ、「何年経てばいいのか、意味のない長い時間の経過に過ぎない」だけです。

 次号でもう少し「大人」のあり方を考えたいと思います。
(堂頭)
       


 オーストラリアから来た聖観さんは同じ水のコップを違った方向から眺めて、違う味をくみ取っているでしょうか。いや、むしろ違うコップから同じ水を味わっているかもしれません。ただし、彼のいう水とコップは沢木老師の比例と違う、心と形の比例です。

水の味

  「何もならぬ」修行をするために、なぜ海を渡ってはるばる日本のこの山寺まで来たのか。どうせ「ただすわる」のであれば、オーストラリアの出勤ラッシュの時、車の中で「ただすわれば」いいではないか。昔の自分ならば、こういう疑問もわいてきたのだろう。
 しかし、今はただ「帰命」に何か文書でも書けといわれたからこんなことを書いている。本音を言わせてもらえば、「何で今、安泰寺にいるのか」という質問自体は現実から浮いていると思う。自分がここにいるか、ここにいないか、そのどちらかが現実であり、それ以外のすべては頭の中の思いの泡に過ぎない。ここに来る前に、何らかの期待があったかどうかは、もうすでに覚えていない。期待するものがあったとしても、作務で流した汗と共にどこかへぶっ飛んでしまったのだろう。私は滞在期間が短いので、安泰寺の生活について多くは語れないが、すごく自然で充実した感じがする。
 オーストラリアにいる私の禅の師匠はいつか禅修行をコップの水に例えたことがある。コップがあるからこそ、水は水のママでいられる。こぼされることもなければ、形を守るために凍結しなければならないということもない。安泰寺で修行してよかったことは、安泰寺の「コップ」の形が、私が今まで知っていた「コップ」の形と多少違うという点である。お経を読むことは少なく、鐘や木板の鳴らし方も違うし、食事の作法も違う。たまに違った形の「コップ」から飲んで、水の変わらない味に気付くことはいいことだ。安泰寺で形式はあまり重んじられず、それより自給自足のための作務に重点がおかれている。しかし、その基盤には同じ「禅」があるはず。その「禅」に帰すべく、私は5週間安泰寺でお世話になるつもりだが、私を受け入れてくれた堂頭と大衆に感謝している。
 合掌
(聖観)



安泰寺の水に親しむ聖観さん

       

クリちゃん

接心が終われば次の接心嫌だなーと思う。明日の作務が薪切りだったら嫌だなーと思 う。明日から典座だったら嫌だなーと思う。洗濯物はたまる一方。洗濯機に放置して カビが生えたこともある。部屋はぐちゃぐちゃ。草木の種やイネが畳の上に落ちてい ても、平気でその上に寝転がっていた。しかし臨月に入る少し前からそういう生活か ら離れて一人でご飯の用意をして、食べて、掃除して、洗濯して、と専業主婦の生活 に変わった。いつも部屋をきれいにと神経を尖らせている。接心ストレスからも逃れ られ産まれてくるベイビーと蜜の生活だと息巻いていたもつかの間。今度はどうしよ うもない寂しさに襲われ始める。1人で部屋でぼけーっとしていて孤独だなーと涙ぐ む。時間的な余裕が出てくると色々色々考えて自分の人生について考えたりする。こ れで本当に良かったんだろうか...と。ムスメが虫に刺されないようにと1日何回も 掃除機をかけて、洗濯をして、小さなかぼちゃに申し訳程度に毛の生えたムスメの頭 を抱えて乳を出す。どこに行くこともなく、誰と何をするわけでもないこの生活は私 が大阪にいたころの生活からは考えられないほどの変貌であり、たまにとてつもない 孤独感に襲われる。ないものねだりの人生だなーと思う。分かっているのにないもの がほしくていつもホシーホシーと空をつかんでジャンプしている感じだと思う。そん な私を尻目にだんだん人間らしくなってきたムスメはただ無心に乳を吸い、笑みをこ ぼす。彼女の目はただただ澄んでいる。が彼女もナイモノをねだっているのだろう か。あるとすれば歯かなーと考えたりする昼下がりであった。
(トモミ)
       

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