ば、り。
〜 2005年 10月 〜
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逆立ちしている大道さん

どうしてこんなに
忙しいのだろうか?


正しい坐り方 10


(大人の修行・その30)

 禅の叢林において、生きるために働いているのか、働くために生きているのか、ということはそもそも問題外です。働くこと自体が生きることの表現でなければならないからです。我々が日々こなしている自給自足の作務は決して生きるための単なる手段に成り下がってはなりません。働くことに対する西洋人と日本人の態度が違うには先月述べたとおりです。そして、両方にそれぞれの落とし穴があります。日本人は労働時間こそ長いですが、その中身はあまりないよう見受けられ兼ねません。日本人はとにかく何かをこそこそと忙しそうにやっていないと落ちつかないみたいです。しかし、そのほとんどが見せ掛けにすぎないのではないでしょうか。つまり、何かしているようで実は何もしていないのです。それなら、最初から何もせずノンビリしていればいいはずですが、「何もすることがない」という虚空を日本人は一番恐れているようですし、また人から「あいつは何もしていない」と思われるのも恥ずかしいでしょう。ですから、より効率的に仕事を片づけて、より早く家庭で余暇を楽しもうという工夫はあまりなされていません。

 これは火中の蓮の2月号でも触れた日本人と西洋人の性質的な違いと関係していると思います。日本人の中にはよくいえば柔軟、悪くいえば弛んでいる人が多くいます。 西洋人は逆に硬く、緊張型の人はほとんどです。そのために、坐禅の指導を行った場合、日本では気合いや精神を緊張させることが強調され、西洋では逆にリラックスすることが進められています。西島和夫老師は坐禅における交感神経と副交感神経のバランスに脚光を浴びさせています。我々の自律神経は普段、交感神経か副交感神経のいずれがより活発に働いています。私が思うには、西洋人はどちらかと言えば交感神経の働きが活発で、坐禅においてもたえず歯を食いしばりがちです。日本人はむしろダラッとして、すぐ腰が抜けて居眠りしてしまいます。これは副交感神経の作用ではないでしょうか。

 仕事においても、西洋人は仕事をなるべく早く片づけようとし、効率的かつ集中的に取り組んでいます。日本人にははやく家に帰りたいと焦りがないため、目的意識が薄くだらだらと時間つぶしをしています。西洋の社会で治安が悪く、人は人のオオカミと言われ、隣人が敵視されるのもまた交感神経の影響があると思います。日本ではほとんど恨み憎しみに出会うことはありません。サッカーマッチの後でファン同士がけが人が出るまで殴り合うのはヨーロッパなら日常茶飯ですが、日本では考えられない風景です。アメリカのように、街頭で殺し合うということも当然ありません。広島にも原爆を落とした人たちが憎くて仕方ない、という声すら聞こえないほど日本は平和な国です。日本人は相手を許すという以前に、相手を的として意識することはまずありません。これもまた副交感神経のおかげでしょう。

 この違いは宗教観の中にも現れてきます。仏教は愛と憎しみをあまりテーマにしません。確かに、貪・瞋・痴という三毒の中には「瞋(しん・いかり)」が含まれていますが、その「いかり」よりむしろ「貪(とん・むさぼり)」が問題にされているため、「愛」も「憎しみ」の対蹠語としてではなく、「愛着」として否定的な意味で使われことが多いようです。もっぱら「愛」を強調しているキリスト教と違い、仏教の戒律は肉食も飲酒も結婚も許しません。日本ではこれらの戒律が甘く見られているのも周知の通りですが、キリスト教の「隣人を愛せよ」・「敵を愛せよ」といった命題はそこにありません。ここにも隣人を敵視する交感神経型の西洋人とセルフ・コントロールのあまり効かない、物質的誘惑に弱い副交感神経型の日本人の違いが反映されているのではないかと思います。貪りに関して、日本人より西洋人は大人に見えますし、いかりに関しては、日本人の方が大人です。副交感型の日本人は自我意識も自己集中力も弱いが、調和と肉体的満足を求めます。西洋人は「身体より頭を」優先させ、セルフ・コントロールは効いていますが、我が日本人よりはるかに強いです。手段と目的を分けてもっぱら効率を追い求めるのも西洋人です。

 これはよく「凸」と「凹」の違いとして表現されていますし、また古くから東洋人は「陰」に向いているのに対し、西洋人は「陽」性が強いといわれています。栄養における陰と陽のバランスを目指す「マクロビオティック」という日本の食療法がありますが、これは欧米でもかなりの人気があります。しかし、欧米のマクロビオティックと日本のそれにいくつかの違いがあります。簡単にいいますと、日本のマクロビオティック料理は西洋人から見て「塩辛い」、つまり陽に傾いている。なのに、水分(陰)の補給を厳しく制限しているのもまた日本のマクロビオティックです。そのわけを日本人のに聞くと、「人間はどうせ陰の方に傾いているので、じゃっかん陽の分を多めに摂れば丁度よい」という返答がありました。これは日本人なら当てはまるかもしれませんが、「どうせ陽の方に傾いている」西洋人はどうでしょうか。彼らは塩分(陽)よりむしろ砂糖(陰)や水(陰)を求めているはずです。そしてアイスクリームを舐めケーキやチョコレートを貪っている西洋人男性に日本人は首を傾げていますが、これは西洋人ならではの陰陽のバランス(副交感神経と交感神経のバランス)の取り方かもしれません。

 それはともかくとして、西洋人は集中力が高く、効率を重んじているといいますと、ここで問題にしている仕事に対する態度が問われている時、西洋人の方が有利に思われかもしれませんが、私は決してそうとは思いません。むしろ、西洋人の仕事への取り組み方が病的だとすらいえます。日本人のように、働くことを生きることの一環としてではなく、あくまでも生きるための手段として捉えていないからです。ですから、世界一長く働いている日本人は西洋人の目に「働き蜂」として映りますが、それは西洋人の誤解です。日本人が「働いている」時、中身が「遊び半分」であり、会社は社交的なふれあいの中に安心感を味わう場でもあります。ですから、サービス残業といわれるものも、仕事の延長というよりも人間関係の延長線上に行われています。たとえやるべき仕事がなくても、家庭にいるよりも会社にいた方が落ち着くものです。西洋人にはそれが理解できません。西洋では仕事は自分との戦いと同時に、人との戦いでもあり、会社は戦場です。

 これにもまた西洋人の宗教観が関係しています。キリスト教の場合、はじめに「神」があり、人間はその神の創造物です。そして、神が創造していた人間はそもそも「働く」ことを知りませんでした。「エデン」という地上の楽園でひねもす楽しむのが人間の本業でした。ところが、そこに大きな出来事が起きてしまいました。アダムはイブに勧められた、禁じられていた果物を食べてしまったのです。そして楽園から追放されて以降、汗を流しながら地を耕し生きる糧を得なければならない羽目になったのです。つまり、キリスト教的世界観において、仕事をすることは神から課せられた罰であり、罪人の生きる代償です。罪さえ犯さなければ、人類はずっと仕事せずに済んでいたのに・・・という思いが西洋人の無意識にあります。そしてキリスト教徒の唯一の救いは週一の祭日(サバト)です。神が世界を創造していた際、7日目に休んでいたと同じように、被創造物の人間にも7日に1日休むという権利というよりも厳しい義務があります。義務というのは、この日に休まないと、また罪を犯すということになってしまうということです。休むことによってのみ、人間が本来の「エデン」に一時的に帰られ、神に親しくできますが、明くる日に「働かなければ生きていけない」という厳しい現実によって、人間と神の間に再び遠い距離が置かれています。ですから、西洋人が効率よく働き、なるべく早く仕事を片づけようとするのは、単に「早く休みたい」という思いからではなく、「本来の自分・神に創造されたそもそもの状態」に戻りたいという思いも潜んでいるのではないかと思います。早く罰から解放され、本当の命を楽しみたいと言うことです。

 日本では「休む」という義務どころか、権利すら強調されていません。そもそもまつりごとのためにあった「祭日」も、今はその存在意義がほとんど忘れられているのではないでしょうか。休むことは恥ずかしいことだと思う日本人も少なくないでしょう。誇りに思うのは、仕事であり、休みなどではありません。この考えは西洋人とは反対です。ドイツには「寝る人は罪を犯さない」ということわざがありますが、仕事は罪になっても休むことは罪にならないということです。休むことは最も「聖」なものですから、休日を英語で「holyday(聖なる日)」と呼びます。そして、休む人の邪魔をすることは最も大きな罪の一つとされています。子供の頃に厳しくたたき込まれるのは、昼の12時から午後の2時の間に、人の家を訪ねたり電話をかけたりしないことです。昼寝しているかもしれないからです。仕事の邪魔をしても、無垢に寝ている人を起こすほど行儀の悪いことはない、というのが西洋人の考えです。年中無休、忙しく振り舞う日本人からみて、変な風習かもしれません。日本では仕事こそ「聖」なるものであって、休みではありません。そして通勤電車の中や禅堂の坐蒲の上、本当に何もしなくていい時にのみ、ぐっすりと眠ってしまうのです。

 西洋人は日本人から働くことの意義について、日本人は西洋人から休むことの意義について学ぶことはたくさんあると思います。もちろん、日本人自身も働く意義を再確認し、西洋人は休む意義を再確認する必要があります。
 「人はそもそも何のために働いているのか、何のために仕事しているのか、…さらに言えば、生きて働くその人生とはそも何なのか。…仕事とは、その人ならではのいのちの輝き出る場ではないのだろうか。人生そのものが、その人のいのちをいっぱいに輝かすために与えられた時と場ではないだろうか。仕事において、人生において、自らのいのちを輝かすことを通して、そのことで同時にまた人々のいのちをも輝かすことができるならば、それこそが生きていることの意味というものではないのだろうか」(麦倉達生「異文化理解へのアプローチ」より)。
 頭で分かっていても、実際に働くことを通して自らのいのちをも、人のいのちをも輝かせることは、洋の東西を問わず決してたやすいことではないでしょうが、我々のねらいはここになければなりません。  

 それでは、私たちはどうして、いつもこんなに 忙しいのでしょうか。どうしていつもステルスを感じているのでしょうか。どうして坐禅ができないと思うくらいに疲れたりしているのでしょうか。それは働くことを「いのちの輝き」として解釈していないからと思います。本当は仕事から解放されたいのに、生きている以上、しかたなく仕事をしなければならないという窮屈な義務感に疲れているだけではないでしょうか。それなら、仕事の量以前に、仕事に対する私たちの取り組み方が問題です。安泰寺のように、自分の汗と涙の結晶である作物を食べて生きている道場ですら、ややもすれば「何のために働いているのか」と歴然の理が見えなくなり、生活と修行が分離してしまいます。そうなってしまえば、いくら坐禅中に居眠りしていても、疲れはとれないはずです。
(続く・堂頭)





本当の問題は、オウムではない


オウム事件から10年(その8)

 「オウム真理教の教えは一見仏教的ですが、・・・決して仏教であるとは言えません。・・・インドの思想を底流にしながら様々な宗教の教えを取り込みつつ、日本人にも馴染みの深い仏教的な観念を現代風にアレンジしたもの、といえます。」

 曹洞宗の曹洞禅ネットでご覧になれます「Q&Aオウム真理教―曹洞宗の立場から―」はこういった言葉から始まります。

 曹洞宗という教団は都の貴族社会に支えられてきた臨済宗や黄檗宗と違い、中世に地方の百姓たちに広く伝われ、今や15万ヶ寺という寺の数でも、膨大な信者の数でも日本では最も大きな宗教団体を誇っています。それだからこそ、エリート志向の強い、こじんまりした臨黄教団と違い、心も広く以て宗門の内外の人たちに接しているかと思えば、そうではなく曹洞宗の立場は残念ながらオウム真理教の一方的な批判にとどまります。そこには、オウムに入団した若者を如何に救うかという慈悲心もなければ、自ら省みて「我々の問題」を問わんとする姿勢も見受けられません。

 しかし、自分の教団を棚上げするわけにはいきません。「Q&Aオウム真理教―曹洞宗の立場から―」の言葉と照らし合わせて、曹洞宗の実態を考えてみたいと思います。そもそも私がこの「オウムから10年」シリーズで問題にしようとしているのは、「オウム真理教」という一つの新興宗教ではなく、私たちの日常における信仰と行の中身です。 そして、その中身を見ますと、おそらく曹洞宗に限らず、日本の既成仏教全体は「一見仏教的ですが、・・・決して仏教であるとは言えません」。それならば、ここで問題にしているのは何もオウムに限られた問題ではなく、仏教徒なら誰しもが考えるべき問題のはずです。

 問題は、オウムが仏教であるかどうかというのではなく、そのオウムを断罪している私たちがはたして仏教徒といえるかどうか、ということです。そして、最も大事なことですが、そもそも仏教とは何かということが問われます。私が思うには、オウムのようなインチキ教団が流行るのも、金儲けを目的とした既成の商売ブッキョウ(従来の臨済宗・黄檗宗・曹洞宗もしかり)が存在し続けるのも、仏の教え(=仏教)がハッキリした形で、広く提唱されていないからです。仏法を発見し、それを最初に提唱されたのはいうまでもなく釈尊ですが、その釈尊の教え(法・ダルマ)と今日の坊主どもの実践が如何に乖離しているか!と叫びたくなるのはわたくし一人でしょうか。まずここでメスを入れ、「一見仏教的」なものでも仏教でないものをことごとく切り捨てなければならないと思います。
(続く・ネルケ無方)
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