【流転】
〜2001年11月〜
第三号

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四苦八苦
 「生きること=楽しむこと」という人はいますが、人生のなか、いつも楽しくて仕方ないわけにはいけません。
 
 四苦八苦という仏教用語は日常の日本語でもよくつかわれます。この言葉のもともとの意味は「生」「老」「病」「死」という四苦プラス「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとくく)」「五陰盛苦(ごおんじょうく)」の四苦で、人間の存在をあわせて八つの「苦」に分けて考えたものです。

 「生老病死」、この世に生まれてきたのも、年をとるのも、病気して死ぬのも、みな同じ「苦」の違った側面に過ぎません。それから、遠くにいるものが恋しく見えるのに、近くにいるものが愛せないという、具体的現実的人間関係においての苦もあります。
 ナイものが欲しい、今現にアル自分の状態から逃れたい・・・現実は自分の望みどおりになりません。
 ですから、「一切皆苦」ともいいます。何も、いつも具体的な悩み苦しみを抱えているのではありません。苦しいこともあれば、楽しいこともありますが、どんなに美味しいものを食べても、いつまでも腹一杯マンゾクすることがないと同じように、どんなにイイ目にあっても、まだ注文が出ます。どうしても何かがモノタリナイ・・・

 それはかならずしも悪いことではないと思います。マンゾクしてしまえば、人間は動かなくなりますから。そういう意味において、人間は一生、満足してはいけません。「苦」を味わっていなかれば、かえって気力を失ってしまいます。
 しかし、この「苦」のカラクリに気づくか気づかないかで大分違ってくるはずです。人生はそのまま「苦」ですが、「苦」のなかで「足るを知る」ことが大事です。
 たとえいくら「楽」を追い求めて生きていても、「足るを知」らなければいつも不満がのこるはずです。かえって「楽」から遠ざかってしまいます。足るを知れば、どんな逆境の中でも、落ちついていられるはずです。それは「楽」の本当の意味ではないでしょうか。

 大阪城公園で生活してもうはや二ヶ月が過ぎました。
 毎朝の坐禅会には、思っていたほどたくさんの人は参加しません。一人で坐ることも珍しくありません。
 これから、外はだんだん寒くなり、人が増えるどころか、自分自身こそ冬を越せるほどの体力があるかどうか・・・雨の降る暗い朝には、ウッカリしてしまえば、全部投げてしまいたい気分になります。気にして、「苦」にしようと思えば、大きな悩み苦しみの材料になれます。
 しかし、「自分はいったい何をしようとしているのか」、自分の原点を振り返って見れば、なにも心配することなく、一人でも二人でも、大空の下でただ坐らせていただけるほど幸せなことはないはずです。
 見方によって、生きる姿勢によって、私の人生は地獄になり、極楽になります。

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