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キリスト教、仏教、そして私・その16

道元と親鸞・悪人正機説と迷いと悟りのカラクリ

回は仏教Aと仏教Bと仏教Cを対比しながら、同じ仏教の中にいかに違うアプローチの仏教が説明しました。今回はとくに道元禅師と親鸞聖人に焦点を当て、違いよりも共通点で見つけ出したいと思います。

禅と比較した場合、一見浄土教が大らかにも見えますが、実はその逆です。少なくともドグマに関しては、浄土教ほど厳しい仏教はないかもしれません。いっぽうの禅では修行の必要性を強調しながら「不立文字」といい、経典をそれほど大事にしません。各々の禅僧も言論の自由といえば聞こえはいいですが、いいたい放題です。私がたとえ本の中でどんな道元禅師の悪口をいったところで、宗門からクレームをつけられるところもまずありません。それは、禅では本を読まないからでしょう。禅の世界では師匠のいうことは絶対ですが、宗門は仏法の伝授に口を挟むことはありません。いっぽう親鸞聖人は「自分は一人も弟子を持っていない」と宣言しました。浄土真宗において師弟関係は皆無に等しいですが、小池龍之介氏の例でも分かるように宗門はドグマについてこだわっているようです。個人を救うのは阿弥陀仏のみですから、この阿弥陀仏の教えが正しく伝わっているかどうかをチェックするのは宗門です。

私は毎年五月、何人かの弟子を連れて先輩のお寺の田植えを手伝っています。そこは鳥取の山間部にある曹洞宗のお寺ですが、本堂には阿弥陀仏も祭られています。それを見た一人のドイツ人の弟子は驚いて聞きました。

「どうしたアミーダ・ブッダ?禅は自力の宗教でしょう」

それに対して、その安泰寺OBはこう答えました。

「別にいいじゃない?十字架だって、僕はかまわないよ」

禅から見れば、そんなものです。いくら禅と浄土教、仏教とキリスト教が違うといっても、そのものになりきればいいというのが禅の考えです。それをなかなか受け入れられないのは、一神教(あるいは「一仏教」?)です。

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一九世紀の有名な浄土真宗の仏教学者、曽我量深はこういいます。

「如来は我なり、されど我は如来に非ず。如来、我となりて我を救いたもう」

救いのベクトルは阿弥陀仏から私に向けられていて、そのベクトルの方向を変えては絶対に生けません。そのため、仏教Bでは中心的な「回 向」の考えも、浄土教にはありません。理由は仏教Aとは全く違いますが、仏教Cも回向をナンセンスだと考えています。自分をすっくのは、自分の力でもな く、人の力でもなく、もっぱら阿弥陀仏という絶対者です。

世界の仏教はもちろんのこと同じ日本仏教でも、信仰の形にしろ、実践のスタイルにしろまちまちです。釈尊に見習って、自らが坐禅をして ブッダになる禅の道もあれば、阿弥陀さんの本願を頼んで、念仏を唱える浄土教のアプローチもあります。私はここまで自力で悟りを求める仏教と、他力の救い を求める仏教ががまるで妥協しえない対極のように描いてきましたが、禅も念仏も実はそれほどかけ離れてはいません。

浄土教はすでにインドに発祥しましたが、それが宗派として独立したのは日本だけのようです。中国・韓国・台湾やベトナムといった大乗仏 教の諸国には、いまや禅宗しか残っていません。ところが、そこにも念仏はさかんに行われています。そうです、日本以外のアジアの禅僧は坐禅ももちろんしま すが、「南無阿弥陀仏」も称えています。日本の禅僧は手紙の最後には「合掌」や「九拝」と書いたりしますが、中国では「南無阿弥陀仏」が末文の挨拶にも なっているのです。また、禅の師匠が、弟子にこういう公案を与えることもあるそうです。

「《南無阿弥陀仏》と称えているのは、誰か?」

この公案は、実に深いです。普通に考えれば、念仏を唱えているのは《私》です。私が念仏を唱えていれば、阿弥陀さんが私を救ってくれる のです。ところが、そういう考え方では、本当の念仏ではありません。本当の念仏は阿弥陀さんとの取引ではなく、おのずと口からあふれ出る、阿弥陀さんのほ うから称えさせている念仏なのです。親鸞聖人も、その『正像末和讃』には次のことを書いています。

弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるにより(自然法爾章)
(「南無阿弥陀仏」と称えているのは、行者のはからいではない。阿弥陀仏のお誓い自体によってそう向かわされて、そうさせられているのだ)

では、先の公案の正解は「阿弥陀仏」なのでしょうか。いいえ、そういってしまえば「阿弥陀仏とは、誰のことか」と問い返されるでしょう。そこで思い出すのが、親鸞聖人の思想に非常に近い、道元禅師の次の言葉です。

ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる (正法眼蔵・生死)
(ただ、わが身をも、わが心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れれば、仏の側から全てが行われている。仏の働きに従っていくだけで、力をも入れず、心を費やさずして、生死を越えて仏になっているのだ》

坐禅をするにしても、念仏を唱えるにしても、あるいは一日の二四時間のどの行為であっても、ただ無心にそのものになっていれば、自力も他力も存在しないはずです。

そのため、禅の世界では

「私が坐禅する」

という言い方をあまり好みません。そうではなく、

「坐禅が坐禅する」

ということでなければなりません。さらにすすんで、こういう言い方もできます。

「坐禅が私する」

この坐禅を如来の働きだと考えれば、それは先の曽我量深の「如来は我なり、されど我は如来に非ず。如来、我となりて我を救いたもう」という言葉に限りなく近いと思います。

本来の禅の立場から見れば「如来は我なり」というベクトルとは逆に、「我は如来なり」というベクトルがあってもいいはずですが、それで は誇大妄想が起りやすいので「自分は悟った」「自分はブッダになった」という言い方を禅の世界ではあまり耳にしません。いや、たまにはそういう話を聞くこ ともありますが、そういう言い方をする人がいれば悟っていない証拠と見なしてもよいのです。

その理由を明確するためには、すこし禅で言う「悟り」と「迷い」のからくりについて説明したいと思います。

禅は悟りの宗教といわれています。「転迷開悟【てんめいかいご】」という言葉が示すように、迷いを離れて悟りを開くことが禅の目的とさ れています。意味では仏教Aの色合いを強く浴びています。しかし、「離れたい」からといって、迷いというものはそう簡単にやめられるものでしょうか。自慢 ではありませんが、私じしんは悟りよりも迷いについて詳しいと思います。「迷える者」というのが、いつの間にか私のトレードマークになってしまいました。 それでもいい、と私は開き直っています。なぜなら、道元禅師は迷いと悟りのカラクリを『正法眼蔵』の第一巻「現成公案」の中で次のようにで説明していま す。

自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。

私の尺度を持って、あらゆる物事(万法)について「ああだ、こうだ」いうのは迷い。あらゆる物事がみずからすすんで、私を生かせてくれ ているという気づきが悟り……かなりフリーですが、意訳すれば、そういうことになると思います。この言葉に続いて、道元禅師は付け加えています。

迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。

仏といわれる、あらゆる目覚めた人たちは、自らの迷いにこそ目覚めた。迷える衆生は、彼らが追い求めている悟りについてこそ大いに迷っ ているのだ……私は、そういうふうに解釈しています。ここで大事なことは、仏は迷いの世界からきれいさっぱりおさらばをしているのではないということで す。迷いに気づいてこそ、ブッダと言えます。

「悟り」という言葉を聞くと、なんらかつかみどころのない、すばらしい精神体験を想像している人も少なくないでしょう。欧米で「悟り」 のことを「エンライテンメント」というのも、それと関係していると思います。大きな光に照らされて、煩悩の雲が吹き飛ばされて、迷いの闇が消えてしまうよ うなイメージです。

「悟れば、全ての問題は解決する」
「悟れば、二度と悩まないだろう」
「悟れば、永遠の幸せが手に入る」

しかし、その思いこそ《迷い》だと道元は言います。悟りがないというわけではありませんが、そのベクトルの向きが反対です。悟りは、迷 いの自覚です。迷いがなければ、悟りもないので、迷いは悟りの原料といってもいいかもしれません。逆に言えば、悟りがあるからこそ、迷いに気づかされるの です。ここで大事なことは、ブッダたちが《迷いの世界》からきれいさっぱりおさらばをしないということです。ブッダは衆生とともにいますから、道元禅師の その考えは仏教Aよりも仏教Bに近いかもしれません。さらに、仏教Cの精神も、そこにはあります。浄土真宗では次の俳句が詠まれているそうです。

松影【まつかげ】の暗きは月の光かな

松影、それは私の暗い部分でしょう。「迷い」という言葉に置き換えてもいいと思います。月という悟りに照らされてこそ、この影が見えてくるのです。月が明るくないときは、自分の欠点もぼんやりしてしまいますが、悟れば悟るほど、自らの迷いがはっきりしてきます。

それならば、道元禅師の「現成公案」の中で続く言葉もうなずけます。

さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。

諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。 しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。

悟りの上でさらに悟るものもいるが、本当に悟った人(仏)が「私は仏だ!」と思うはずがありません。だからこそ本物の仏であり、仏を実 証しているのです。問題は、「迷中又迷の漢」の解釈です。迷いの真ん中で、さらに迷う人はどんな人でしょうか。私は、それも「悟上に得悟する漢」とおなじ く、本物の求道者だと思っています。やや強引な解釈に聞こえるかもしれませんが、実は道元禅師が『学道用心集』の中でこんな二つの言葉も残しています。

知るべし行を迷中に立てて、証を覚前に獲ることを。
参学の人、且く半迷にして始めて得たり、全迷にして辞すること莫れ。

迷いの中にこそ行を立てて、気づく前に仏を実証すること。仏道を学ぼうとする人は、迷路に入り込んだときにはじめて得るものがある。完全に迷ったときには、さらに先へ進め。

私は「迷中又迷」という言葉をこういうふうに受け止めているので、道元禅師に励まされてる気がするのです。

「大丈夫だ、安心して悩め。これからはさらに、迷ってもらおう」

「現成公案」のこのくだりの《迷い》《悟り》と《仏》の関係を考えると、親鸞聖人の「悪人正機説」の《悪》《善》と《往生》にそのまま対応している気がします。ある意味で、日本で有名な親鸞の「悪人正機説」に非常に近いと思います。

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、『悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや』。」 (歎異抄・第3章)

親鸞聖人のものとして伝えられているこの言葉はあまりにも有名です。「悪人でさえ極楽にいけるのだから、善人の往生はなおさら確実だ」 というのが世間の常識ですが、浄土真宗の救いのカラクリはその逆です。善い人でさえ救われるのであれば、悪い人の救いはなおさら確実だという、まさに仏教 Cの精神です。キリスト教の「放蕩息子」の物語のメッセージにも似ています。

どうしようもない自分に気づいて、この自分を救ってくれると約束した阿弥陀にお任せすることを説いているため、自らの努力で成仏を目指すことは浄土真宗では嫌われているようです。
しかし、その言葉を私が誤解したことがあります。

「なるほど浄土真宗の考えでは、人々は阿弥陀さんの他力によって救われる。阿弥陀さんは弱い人から優先して救うから、自力でも何とかいける『善人』より先に『悪人』を救うわけだ。そのため『悪人正機』というのか」

そう解釈したのは、わたし一人ではないようっです。親鸞聖人が生きていた時代ですでに、「ならば、すすんで悪いことをしようではない か!」といった人たちがいたようです。善人より悪人が救われやすいというのなら、悪いことをしたもの勝ちです。しかし、その誤った解釈を浄土真宗では「本 願ぼこり」といい、否定しています。

親鸞聖人の言う《善人》とはそもそも、「いい人」ではなく、自覚のない人のことです。つまり、自分のことをかってに「いい人」だと思い 込んでいるとんでもない誤解をしている人のことです。しかしそういう人でも、阿弥陀仏は救ってくれると親鸞聖人はいいます。よって、「私はよくない人」と いう自覚を持っている人は、なおさら救われやすいはずです。そういうふうに読めば、「悪人正機説」には何の不思議もありません。月に照らされて、自分の影 に気づくことで救われるのです。その《月の光》は仏教C的に言えば、阿弥陀さんの他力ですが、道元禅師の言葉で言えば迷いを自覚させる悟りの力です。

道元は末法思想こそ批判し続けていたが、突き詰めていけば、親鸞とはさほど違いがないと私は思います。

仏教には大まかに分けて「ABCの仏教」があるということを説明しました。これはもちろん、現在アジアにあるテーラワーダ仏教、大乗仏教とチベット仏教のことではありません。仏教Aの精

神に一番近いのはテーラワーダ仏教でしょうが、禅の中にも「自分がブッダにならなければ……」といいう主張もあれば、テーラワーダの中 にも他者をいつくしむ、仏教B的な要素はあるでしょう。また、チベット仏教というのは仏教のABCのそれぞれの要素を含む、非常に複雑な現象なので、今回 の本の中で詳しく検討する余裕はありません。仏教の世界の中で一番純粋化されているのは、仏教Cとしての日本の浄土真宗かもしれません。そのため、逆にキ リスト教にも非常に近いドグマをもっています。しかし、禅と浄土教の溝は越えられないものではないと私は思います。それならば、仏教とキリスト教のギャッ プも越えられるかもしれません。あるいは、相互に励ましあい、競り合うことは可能でしょう。

キリスト教では二〇世紀に入ってから「エキュメニズム」といわれる世界教会一致運動が起りました。次章で詳しく説明しますが、キリスト 教の長い歴史の中でいく度も分裂が起こり、さまざまなドグマが主張されてきました。その結果として、同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントがお り、東欧には正教会があります。それらの分裂を越え、同じキリスト教としていっしょにミサをし、同じ神に祈ろうというのが「エキュメニズム」です。

二〇〇三年の五月にドイツで初めて「エキュメニカル・チャーチ・デー(世界教会一致の日)」が五日間にわたって開かれました。世界中か ら四十万にもの参加者が集まり、信仰について語り合いました。その時にはなんと、ダライ・ラマも講演にまぬかれました。普段はロック・コンサートなどに使 われている大きなステージの上で、ダライ・ラマは数分にも及ぶスタンディング・オベーションで迎えられました。

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残念ながら、仏教では各国の教団はもとより、日本では各宗派すら一致運動を起こすどころか、ほとんど交流すらしていません。そのため、現実社会が抱えて いる問題の解決提案も、今の日本仏教からはとうていできない気がします。それ以前にはまず仏教界自体の反省と団結が必要になりそうです。もちろん、キリス ト教に問題がないわけではありません。バチカンの組織をはじめ、問題は山ほどあるのです。しかし仏教と違い、そこには問題意識もあります。問題意識をなく して、問題解決がありえません。

(ネルケ無方、2013年6月15日)