会場はスリランカ料理店「キャンディ」:
Kandyroyalfood.com
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次回の講義(7回目)は10月12日(藤田一照担当)
次々回(8回目)は11月22日(ネルケ無方担当)
申し込み方法: 件名「法話会」でkandy(アッと)vkj.co.jpへお申し込み下さい。

前半の資料:
(1)至道無難、唯嫌揀択、但だ憎愛莫ければ、洞然(とうねん)として明白(めいはく)なり。毫釐(ごうり)も差有れば、天地懸(はるか)に隔たる。現前を得んと欲せば、順逆を存すること莫かれ。違順(いじゅん)相爭う、是を心病と爲す。玄旨(げんし)を識らざれば、徒(いたず)らに念靜(ねんじょう)を労す。円(まどか)なること大虚(たいきょ)に同じ、欠ること無く餘ること無し。良(まこと)に取捨に由る、所以(ゆえ)に不如なり。
(2)有縁を逐うこと莫れ、空忍に住すること勿かれ、一種平懷なれば、泯然(みんねん)として自(おのず)から盡く。動を止めて止に歸すれば、止更に彌(いよい)よ動ず。唯両辺に滞(とどこお)らば、寧ろ一種を知らんや、一種通ぜざれば、両処に功を失す。有を遣(や)れば有に沒し、空に隨(したが)えば空に背く。多言多慮、転(うた)た相応せず、絶言絶慮、処として通ぜずということ無し。根に帰すれば旨(し)を得、照に隨えば宗を失す。須臾(しゅゆ)も返照すれば、前空に勝却(しょうきゃく)す。前空の転変は、皆妄見に由る。真を求むることを用いず、唯須らく見を息(や)むべし。
(3)二見に住せず、慎しんで追尋すること勿れ。纔(わずか)に是非有れば、紛然として心を失す。二は一に由て有り、一も亦守ること莫れ。一心生ぜざれば、万法に咎無し。咎無ければ法無し、生ぜざれば心ならず。能は境に隨って滅し、境は能を逐うて沈す。境は能に由て境たり、能は境に由て能たり。両段を知らんと欲せば、元是れ一空、一空両に同じく、齊しく万象を含む、精粗を見ず、寧(なん)ぞ偏党あらんや。
(4)大道體寬にして、難(なん)無(な)く易(い)無し、小見は狐疑(こぎ)す、轉(うたた)急なれば轉遲(おそ)し。之(これ)を執(しゅう)すれば度を失して、必ず邪路に入る、之を放てば自然なり、体に去住無し。性に任ずれば道に合(かな)う、逍遙として惱を絶す。繋念は眞に乖(そむ)き、昏沈(こんちん)は不好なり。不好なれば神を勞す、何ぞ疎親することを用いん。一乘に趣かんと欲せば、六塵を悪(にく)むこと勿れ。六塵を惡まざれば、還て正覚に同じ。
(5)智者は無爲なり、愚人は自縛す。法に異法無し、妄(みだ)りに自から愛著す。心を将(もっ)て心を用う、豈大錯(たいしゃく)に非(あら)ざらんや。迷えば寂乱(じゃくらん)を生じ、悟れば好悪(こうお)無し。一切の二辺、妄りに自から斟酌(しんしゃく)す。夢幻空華(むげんくうげ)、何ぞ把捉(はしゃく)に労せん。得失是非、一時に放却せよ。
眼若し睡らざれば、諸夢自(おのず)から除く。心若し異ならざれば、万法一如なり。一如体玄なり、兀爾(こつじ)として縁を忘ず。萬法斉しく観ずれば、帰復(きぶく)自然(じねん)なり。其(そ)の所以(ゆえん)を泯(みん)じて、方比すべからず。

摩訶般若波羅蜜多心経―心の大いなる手放しのレシピ

観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
―観自在という菩薩(本来の自己)が、完全な思いの手放し(般若波羅蜜多)を実践しているまさにその時、はっきりと見てとった: 五蘊(色・受・想・行・識)がすべて空であることを。だから彼(=本来の私)は一切の悩み苦しみを超えていて、自由である。

舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。
―菩薩は言った:「舎利子(そのことにまだ気づかないでいるもう一人の私)よ、あなたが生きているという事実(色)の他には、真実(空)はない。空という真実以外には、事実の世界もない。事実はそのまま真実、真実はそのまま事実である。同じことはそのまま、見るもの聞くもの(受)についても、思うこと(想)についても、反応すること(行)についても、また、あなたが生きている命そのもの(識)についても、いえるのだ」

舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
―「舎利子(=もう一人の私)よ、あなたが生きている『空』という真実はいつ、どこから現れたわけではなく、いつどこかへ消えるわけでもない。この真実には『俗』や『聖』といった区別もない。この真実が増えたり、減ったりもしない」

是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。
―「空の本質は『無』である。大いなる空に広がる『無』の色・声・香・味・触・法を頂戴する、この『無』の眼・耳・鼻・舌・身・意があり、それをわが命として生かす『無』の色・受・想・行・識があるのだ」

無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智・亦無得。
―「あなたが見ている世界も『無』なら、あなたの意識も『無』だ。無明から始まり、老死で終わる十二因縁も『無』だ。苦しみの自覚から、苦しみからの解放に至る道まで、すべては『無』だ。この『無』の知恵もまた『無』であり、『無』の知恵を得ることも『無』だ」

以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
―「得るものも得られるものも『無』がゆえに、菩薩たちはただ自分を手放す『般若波羅蜜多』をひたすらに実践している。自分を手放せば、心は自由になる。心が自由になれば、不安は消える。不安が消えれば、今ここに落ち着いて、毎日の生活の中で涅槃を見つけるのだ」

三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
―「すべての仏たちも同じように、自分を手放している。この手放しこそが、阿耨多羅三藐三菩提と言われる最高の悟りの内容である」

故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。
―「さて、今から力強い掛け声を聞かそう。私の声に合わせて、あなたも仏・菩薩の仲間として、自分を手放してみよ。自分を忘れてこそ、初めて苦しみから自由になれるのだ」
故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
―掛け声はこうだ:「ぎゃーてい、ぎゃーてい、はーらーぎゃてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじーそわか」

般若心経―これは、心の手放しのレシピだ。

「この発言はうそだ!」と私は言う。私の発言は本当なのか? うそなのか?
「私はどうしようもない凡夫だ」というその人は、どうしようもない凡夫なのか?
「俺は悟っている。自我を忘却し、自他一如の境地にいる。お前には自我がある。悟りの「さ」の字もない、妄想分別にまみれた凡夫なのだ」という人は本当に悟っているのか?
「悟れば一切の区別を乗り越える。まだ区別にとらわれている間、悟ることはできない」という人はどうか?
執着を捨てて涅槃に入ることは仏教の目的だ。涅槃に入りたいという目的は、執着ではないのか?
「思い(アタマ)の手放し」という思い(アタマ)を、いかに手放せるか?
「すべては無常だ」と仏教は説く。この真実も無常なのか?
「自己矛盾語」 (英語: heterological word )という単語は自己矛盾語なのか?
ある床屋は、自分で髭を剃らない人全員の髭を剃り、それ以外の人の髭は剃らない。ところが、床屋自身の髭は誰が剃るのか?
ある医師は「自分の病気を自分で治せる人を、私は治療しない。それ以外の人を、すべてこの私が治療する」と宣言した。そのとき医師は病気になった。彼の病気を誰が直すのか?

6.54 私を理解する人は、私の命題を通り抜け―その上に立ち―それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ捨てねばならない。)私の諸命題を葬りさること。そのとき世界を正しく見るだろう。
7 語りえぬことについては、沈黙せねばならない。Whereof one cannot speak, thereof one must be silent. ―ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』

信心銘の読み下しと現代語訳:
shomonji.or.jp/zazen/shinjinmei.pdf

後半の資料:

示して云く、學道の人は吾我の爲に佛法を學することなかれ。只佛法の爲に佛法を學すべきなり。其の故實は我が身心を一物ものこざず放下して、佛法の大海に廻向すべきなり。其の後は一切の是非管ずることなく、我が心を存ずることなく、なし難く忍び難きことなりとも、佛法の爲につかはれて、しひて此れをなすべし。我が心に強てなしたきことなりとも、佛法の道理なるべからざる事は放捨すべきなり。―『正法眼蔵随聞記5-2』

道(どう)に向って修行すべき事
右、学道の丈夫(じょうぶ)は、先(ま)づ須(すべか)らく道(どう)に向うの正(しょう)と不正(ふしょう)とを知るべきなり。夫(そ)れ、釋雄調御(しゃくゆうちょうご)、菩提樹下(ぼだいじゅげ)に坐して、明星(みょうじょう)を見ることを得て、忽然(こつねん)として頓(とん)に無上乗(むじょうじょう)の道(どう)を悟る。其の悟る所の道は、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)等の能(よ)く及ぶ所に非ず。佛(ほとけ)能く自(みず)から悟りて、佛、佛に傳へて、今に断絶(だんぜつ)せず。其の悟を得る者は、豈(あ)に佛に非(あら)ざらんや。
所謂(いわゆる)道に向うとは、佛道の涯際(がいさい)を了ずるなり。佛道の様子(ようす)を明(あきら)むるなり。佛道は人人(にんにん)の脚踉下(きゃくこんか)なり。道に礙(さ)えられて当處(とうじょ)に明了(めいりょう)し、悟(ご)に礙(さ)えられて当人(とうにん)円成(えんじょう)す。是(こ)れに因りて縦(たと)え十分(ぶん)の會(え)を挙(こ)すと雖も、猶(な)お一半(ぱん)の悟に落(おつ)るか。是れ則ち道に向うの風流なり。
而今(にこん)、学道の人は、未だ道の通塞(つうそく)を辨ぜず、強いて見驗(けんげん)の有らんことを好む。錯(あやま)らざるは阿誰(たれ)ぞ。父を捨て逃逝(とうぜい)し、宝を捨てて令并(れいへい)す。長者(ちょうじゃ)の一子たりと雖も、久しく客作(かくさ)の賤人(せんにん)と作(な)る。良(まこと)に以(ゆえ)あり。
夫(そ)れ、學道の者は、道に礙えらるることを求む。道に礙えらるるとは、悟跡(ごしゃく)を忘(ぼう)ずるなり。佛道を修行する者は、先づ須(すべか)らく佛道を信ずべし。佛道を信ずる者は、須らく自己本(もと)道中に在りて、迷惑せず、妄想せず、顛倒(てんどう)せず、増減なく、誤謬(ごびゅう)なしということを信ずべし。是(かく)の如くの信を生じ、是の如くの道を明め、依(よ)って之を行ず、乃ち學道の本基(ほんき)なり。
其の風規(ふうき)たる、意根(いこん)を坐断して、知解(ちげ)の路に向わざらしむるなり。是れ乃ち初心を誘引(ゆういん)するの方便なり。其の後、身心を脱落し、迷悟を放下す、第二の様子なり。
大凡(おおよ)そ自己佛道に在りと信ずるの人、最も得難きなり。若し正しく道に在りと信ぜば、自然に大道の通塞(つうそく)を了じ、迷悟の職由(しょくゆう)を知らん。人試みに意根を坐断せよ、十が八九は、忽然(こつねん)として見道することを得ん。―『学道用心集』

設ひ發病して死すべくとも、猶只是れを修すべし。病ひ無ふして修せず、此の身をいたはり用ひてなんの用ぞ。病ひして死せば本意なり。…此の如く案じつヾけて、思ひ切て晝夜端坐せしに、一切に病ひ發らず。今各も一向に思ひきりて修して見よ。十人は十人ながら得道すべきなり。『随聞記1‐14』

坐禅ににらまれ、坐禅に叱られ、坐禅にジャマされ、坐禅に引きずられながら、泣き泣き暮らすということは、もっとも幸福なことではないか。―澤木興道『禅に聞け』