毎月、京都府宮津市にある智源寺専門僧堂で講義をさせていただいています。
次回は11月24日(金)
今回は『学道用心集』の三回目の講義でした:

有所得の心(しん)を用つて佛法を修すべからざる事
右、仏法修行は、必ず先達(せんだつ)の真訣(しんけつ)を稟(うけ)て、私の用心を用いざるか。
況や仏法は、有心(うしん)を以つて得可からず。無心を以て得べからず。但だ操行(そうぎょう)の心と道と符合(ふごう)せずんば、身心未だ嘗(かつ)て安寧(あんねい)ならず。身心未だ安寧ならずんば身心安楽ならず。身心安楽ならずんば、道を證するに荊棘(けいきょく)生ず。所謂(いわゆる)操行と道と合して、如何(いかん)が行履(あんり)せん。心取捨(しんしゅしゃ)せず、心名利(みょうり)無きなり。仏法修行は是れ人の為に修せず。今世人(こんぜにん)の如き、仏法修行の人、其の心と道と遠(とお)くして遠し。若し人(ひと)賞翫(しょうがん)すれば、縦(たと)え非道と知るも、乃ち之れを修行す。
若し恭敬(くぎょう)し讃歎(さんたん)せずんば、是れ正道(しょうどう)と知ると雖も、棄てて修せず。痛(いた)ましき哉(かな)。
汝等(なんじら)試みに心を静かにして観察せよ、此の心行(しんぎょう)、仏法とせんや、仏法に非ずとせんや。恥(は)ずべし恥ずべし。聖眼(しょうげん)の照す所なり。夫(そ)れ仏法修行の者は、尚お自身の為にせず、況や名聞利養(みょうもんりよう)の為に之を修せんや。但だ仏法の為に之を修すべきなり。
諸佛の慈悲、衆生を哀愍(あいみん)するは、自身の為にせず、他人の為にせず、唯だ仏法の常(つね)なり。見ずや、小虫畜類(しょちゅうちくるい)すら、其の子を養育するに、身心艱難(かんなん)、経営苦辛(けいえいくしん)し、畢竟(ひつきょう)長養すれども、父母に於いて終に益なきをや。然れども子を念(おも)うの慈悲あり。小物すら尚お然り、自(おの)ずから諸佛の衆生を念うに似たり。
諸佛の妙法は、唯だ慈悲の一條(いちじょう)のみにあらず、普(あま)ねく諸門に現ず。其の本(もと)皆(みな)然り。既に仏子(ぶつし)たり、葢(な)んぞ仏風(ぶつぷう)に慣(な)らわざらんや。行者(ぎょうじゃ)、自身の為に仏法を修すと念(おも)う可からず、名利の為に仏法を修す可らず、果報(かほう)を得んが為に仏法を修す可からず、霊験(れいげん)を得んが為に仏法を修す可からず、但だ仏法の為に仏法を修す、乃(すなわ)ち是れ道(どう)なり。

 君見ずや、絶学無為(ぜつがくむい)の閑道人、妄想を除かず真を求めず―『証道歌』

 無功徳・廓然無聖・不識 ―菩提達磨と梁武帝の問答

 山僧叢林を歴ること多からず。ただ是れ等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して人に瞞ぜられず。すなわち空手還郷す。ゆえに一毫も仏法無し。―『永平広録』

 はなてばてにみてり、一多のきわならんや、かたればくちにみつ、縦横きわまりなし。 ―『弁道話』

 …無智・亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃… ―『般若心経』

「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」―『創世記』3:17-19