Monthly Archives: July 2017

信心銘味読会(4回目)、2017年7月21日

7月17日、三木市の国際交流協会で講演をさせていただきしました。
その様子は神戸新聞(クリック)で紹介されました。

以下は2017年7月21日、東京日本橋で行われた4回目の信心銘の味読会の動画です:

会場はスリランカ料理店「キャンディ」:
Kandyroyalfood.com
facebook.com/kandyroyalfood/
次回の講義(5回目)は8月17日(藤田一照担当)
次々回(6回目)は9月8日(ネルケ無方担当)
申し込み方法: 件名「法話会」でkandy(アッと)vkj.co.jpへお申し込み下さい。

今回の資料:

至道無難(しいどうぶなん)、唯嫌揀択(ゆいけんけんじゃく)、但だ憎愛莫ければ、洞然(とうねん)として明白(めいはく)なり。毫釐(ごうり)も差有れば、天地懸(はるか)に隔たる。現前を得んと欲せば、順逆を存すること莫かれ。違順(いじゅん)相爭う、是を心病と爲す。玄旨(げんし)を識らざれば、徒(いたず)らに念靜(ねんじょう)を労す。円(まどか)なること大虚(たいきょ)に同じ、欠ること無く餘ること無し。良(まこと)に取捨に由る、所以(ゆえ)に不如なり。
有縁を逐うこと莫れ、空忍に住すること勿かれ、一種平懷なれば、泯然(みんねん)として自(おのず)から盡く。動を止めて止に歸すれば、止更に彌(いよい)よ動ず。唯両辺に滞(とどこお)らば、寧ろ一種を知らんや、
一種通ぜざれば、両処に功を失す。有を遣(や)れば有に沒し、空に隨(したが)えば空に背く。多言多慮、転(うた)た相応せず、絶言絶慮、処として通ぜずということ無し。根に帰すれば旨(し)を得、照に隨えば宗を失す。須臾(しゅゆ)も返照すれば、前空に勝却(しょうきゃく)す。前空の転変は、皆妄見に由る。真を求むることを用いず、唯須らく見を息(や)むべし。
二見に住せず、慎しんで追尋すること勿れ。纔(わずか)に是非有れば、紛然として心を失す。二は一に由て有り、一も亦守ること莫れ。一心生ぜざれば、万法に咎無し。咎無ければ法無し、生ぜざれば心ならず。能は境に隨って滅し、境は能を逐うて沈す。境は能に由て境たり、能は境に由て能たり。両段を知らんと欲せば、元是れ一空、一空両に同じく、齊しく万象を含む、精粗を見ず、寧(なん)ぞ偏党あらんや。

信心銘の読み下しと現代語訳:
shomonji.or.jp/zazen/shinjinmei.pdf

ABCの宗教について:
A→ 垂直方向で上向き→ 私から絶対者(神・仏・空・天地一杯の命・云々…)へ
B→ 垂直方向で下向き→ 絶対者から私へ
C→ 水平方向で横向き→ 私より他者を

キリスト教A:
心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。―『マルコによる福音書』12:30
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。…〈中略〉…
だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。―『ルカによる福音書』9:23~24&14:26~27

キリスト教B:
愛は、神から出たものなのである。
すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。
神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。―『ヨハネの第一の手紙』4:7~12

キリスト教C:
自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。―『マルコによる福音書』12:31
愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。―『ヨハネの第一の手紙』4:7

仏教A:「自受用三昧」「仏道をならふといふは、自己をならふなり」
仏教B:「自己をならふといふは、自己をわするるなり」「身心脱落」「身をも心をも放ち忘れて…、仏の方よりおこなわれて…」
仏教C:「自未得度先度他」「おろかなる 吾れは仏に ならずとも 衆生を渡す 僧の身ならん」「雨ニモマケズ…」

自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。
迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。
諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。 しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。…〈中略〉…
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。―『正法眼蔵・現成公案』

生死の中に仏あれば、生死なし。またいはく、生死の中に仏なければ、生死にまどはず。…〈中略〉…
ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
仏となるにいとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のためにあはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとうこころなく、ねがふこころなくて、心におもうことなく、うれうることなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。―『正法眼蔵・生死』

非思量にたれあり、たれ我を保任す。―『正法眼蔵・坐禅箴』

示して云く、大慧禪師の云く學道は須く人の千萬貫の錢を債(お)ひけるが、一文をも持たざるに、乞責らるヽ時の心の如くすべし。若しこの心あれば、道を得ることやすしといへり。信心銘に云く、至道かたきことなし、唯だ揀擇を嫌ふと。揀擇の心だに放下しぬれば、直下に承當するなり。揀擇の心を放下すると云は、我をはなるヽなり。佛道を行じて代りに利益を得ん爲に、佛法を學すと思ふことなかれ。只佛法の爲に佛法を修行すべきなり。縱ひ千經萬論を學し得て、坐禪の床を坐破するとも、此の心なくんば佛祖の道を得べからず。只すべからく身心を放下して、佛法の中に置て、他に隨ひて舊(旧)見なければ、即ち直下に承當するなり。
―『随聞記5-18』

Dogen instructed,
Zen Master Daie said, “You must practice the Way with the attitude of a person owing a vast debt and being forced to return it despite being penniless. If you have this frame of mind, it is easy to attain the Way.”
In the Shinjinmei, we read; “The supreme Way is not difficult, just refuse to have preferences.” Only when you cast aside the mind of discrimination will you be able to accept it immediately. To cast aside discriminating mind is to depart from ego.
Do not think that you learn the buddha-dharma for the sake of some reward for practicing the Buddha-Way. Just practice the buddha-dharma for the sake of the buddha-dharma. Even if you study a thousand sutras and ten thousand commentaries on them, or even if you have sat zazen until your cushion is worn out, it is impossible to attain the Way of the buddhas and patriarchs if this attitude is lacking. Just casting body and mind into the buddha-dharma and, (practicing) along with others without holding onto previous views, you will be in accordance with the Way immediately.

佛祖の大道、かならず無上の行持あり。道環して斷絶せず、發心修行、菩提涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。このゆゑに、みづからの強爲にあらず、他の強爲にあらず、不曾染汚の行持なり。この行持の功徳、われを保任し、他を保任す。―『正法眼蔵・行持』

隔壁と語笑し、聲をあげて吟詠することなかれ。涕唾狼藉(ていだろうぜき)なることなかれ、怒氣卒暴なることなかれ。壁面に字をかくべからず、廁籌(しちゅう)をもて地面を劃すことなかれ。―『正法眼蔵・洗浄』

若し彼の猿馬(えんば)をして、一旦、退歩返照せしめば、自然に打成一片ならん。
是れ乃ち物の所轉を被り、能く其の物を轉ずる手段なり。―『典座教訓』

所謂法、我を轉じ、我、法を轉ずるなり。我能く法を轉ずる時、我は強く法は弱きなり。法還つて我を轉ずる時、法は強く我は弱きなり。佛法從來此の兩節あり、正嫡に非ざれば未だ曽て之を知らず。―『学道用心集』

本堂の外回りと田んぼ回り、2017年7月16日

本格的な雨降り、2017年7月9日

いつもの本堂回り、昼と夕方、2017年7月6日