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ラジオ出演「人生の意味とは」&学道用心集講義、2017年11月24日

12月3日の午前8時30分~9時00分、NHKの[ラジオ第2]に出ます:宗教の時間「人生の意味とは」

毎月、京都府宮津市にある智源寺専門僧堂で講義をさせていただいています。
次回は12月18日(月)
今回は『学道用心集』の4回目の講義でした。資料です:
 
(一)菩提心を発すべき事
右、菩提心は、多名一心なり。竜樹祖師の曰く、唯、世間の生滅無常を観ずるの心も亦菩提心と名づくと。

(二)正法を見聞(けんもん)して必ず修習(しゅじゅう)すべき事
右、忠臣一言を献ずれば、數(しばしば)廻天の力あり。佛祖一語を施さば廻心せざる人莫(な)し。

(三)佛道は必ず行に依て證入すべき事
右、俗に曰く、學べば乃ち祿其の中(うち)に在りと。佛の言はく、行ずれば乃ち證、其の中に在りと。

(四)有所得の心(しん)を用つて佛法を修すべからざる事
右、仏法修行は、必ず先達(せんだつ)の真訣(しんけつ)を稟(うけ)て、私の用心を用いざるか。況や仏法は、有心(うしん)を以つて得可からず。無心を以て得べからず…

(五)参禅学道は正師を求む可き事 
右、古人云く、発心正しからざれば、萬行(ばんぎょう)空しく施すと。誠なる哉(かな)この言(げん)。
行道(ぎょうどう)は導師の正(しょう)と邪とに依る可(べ)きものか。機は良材の如く、師は工匠(こうしょう)に似たり。縦(たと)え良材たりと雖も、良工を得ずんば、奇麗(きれい)未だ彰(あら)われず。縦(たと)え曲木たりと雖も、若し好手に遇わば、妙功(みょうこう)忽ち現ず。師の正邪(しょうじゃ)に随って、悟(さとり)の真偽あり。之を以て暁(さと)る可(べ)し。
但し我が国昔より正師(しょうし)未だ在らず。何を以て之が然るを知るや。言(ごん)を見て察するなり。流れを酌んで源を討(たず)ぬるが如し。我が朝古来の諸師、書籍(しょじゃく)を篇集(へんじゅう)し、弟子(でし)に訓(おし)え人天(にんでん)に施(ほどこ)す、其の言(ごん)是れ青く、其の語未だ熟せず、未だ学地の頂(いただ)きに到らず、何ぞ證階の辺(ほと)りに及ばん。只だ文言(もんごん)を傳えて、名字を誦せしむ。日夜他の寶(たから)を数えて、自(みず)から半銭の分(ぶん)なし。
古(いにしえ)の責(せめ)之(ここ)に在り。或は人をして心外(しんげ)の正覚(しょうかく)を求め教(し)め、或いは人をして他土(たど)の往生(おうじょう)を願わ教(し)む。惑乱此(ここ)より起り、邪念此(これ)を職(もと)とす。縱(たと)え良薬を与うと雖も、銷(しょう)する方を教えずんば、病と作(な)ること、毒を服するよりも甚だし。我が朝(ちょう)、古(いにしえ)より良薬を与うる人なきが如く、薬毒を銷(しょう)するの師未だ在(あ)らず。是(ここ)を以て、生病除き難く、老死何ぞ免(まぬ)がれん。
皆これ師の咎(とが)なり、全く機の咎に非ざるなり。所以(ゆえ)は何(いか)ん。人の師たる者、人をして本(もと)を捨て、末を逐(お)わ教(し)むるの然ら令(し)むるなり。
自解(じげ)未だ立(りゆう)せざる以前、偏(ひと)えに己我(こが)の心を専(もつぱ)らにし、濫(みだり)りに他人をして邪境に堕(お)つることを招か(教)しむ。哀れむ可(べ)し、人の師たる者すら、未だ是れ邪惑なることを知らず、弟子何(なん)為(す)れぞ是非を覚了せんや。悲(かな)しむ可(べ)し辺鄙(へんぴ)の小邦、仏法未だ弘通(ぐつう)せず、正師(しょうし)未だ出世せず。若し無上の仏道を学ばんと欲せば、遙(はる)かに宋土の知識を訪(とむら)うべし。遥かに心外の活路を顧(かえり)みるべし。正師を得ずんば、学ばざるに如(し)かず。
夫れ正師とは、年老耆宿(ねんろうぎしゅく)を問わず、唯だ正法を明めて、正師の印證を得るものなり。文字を先とせず、解会を先とせず、格外の力量あり、過節の志気(しいき)あり、我見(我見)に拘(かか)わらず、情識に滞(とどこ)おらず、行解相応(ぎょうげそうおう)する、是れ乃ち正師なり。

若し道心無きは、徒(いたずら)に辛苦を労して畢竟(ひっきょう)益(えき)無し。―『典座教訓』

修行阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師をうることもともかたし。
その導師は、男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麼人なるべし。古今人にあらず、野狐精(やこぜい)にして善知識ならん。
これ得髄(とくずい)の面目なり、導利なるべし。不昧因果なり、你我渠(にいがこ)なるべし。すでに導師に相逢(そうほう)せんよりこのかたは、万縁をなげすてて、寸陰をすごさず精進辦道すべし。有心にても修行し、無心にても修行し、半心にても修行すべし。しかあれば、頭然をはらひ、翹足を学すべし。かくのごとくすれば、訕謗(せんぼう)の魔党にをかされず、断臂得髄の祖、さらに他にあらず、脱落身心の師、すでに自なりき。髄をうること、法をつたふること、必定して至誠(しじょう)により、信心によるなり。誠信(じょうしん)ほかよりきたるあとなし、内よりいづる方なし。ただまさに法をおもくし、身をかろくするなり。世をのがれ、道をすみかとするなり。いささかも身をかへりみること、法よりおもきには、法つたはれず、道うることなし。―『正法眼蔵・礼拝得髄』

一 計功多少 量彼来処 : 一つには功の多少を計り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
(この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。)
二 忖己德行 全缺應供 : 二つには己が徳行(とくぎょう)の全欠を忖(はか)って供(く)に応ず。
(自分の行いが、この食を頂くに価するものであるかどうか反省します。)
三 防心離過 貪等為宗 : 三つには心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす。
(心を正しく保ち、あやまった行いを避けるために、貪など三つの過ちを持たないことを誓います。)
四 正事良薬 為療形枯 : 四つには正に良薬を事とすることは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。
(食とは良薬なのであり、身体をやしない、正しい健康を得るために頂くのです。)
五 為成道故 今受此食 :五つには 成道(じょうどう)の為の故に今この食(じき)を受く。
(今この食事を頂くのは、己の道を成し遂げるためです。)―『五観の偈』

五観の偈(ごかんのげ)は、主に禅宗において食事の前に唱えられる偈文。唐代の南山律宗の僧、道宣が著した『四分律行事鈔』中の観文を宋代に黄庭堅が僧俗のため約したもの。道元の著作『赴粥飯法』における引用によって日本で広く知られるようになった。僧侶の食事作法のひとつだが、道徳的普遍性の高い文章であるため禅に限らず多くの分野で引用されている。
宗派によって偈文の読み下しに若干の異同があり、臨済宗、黄檗宗では三句目を「三つには心を防ぎ過貪等を離るるを宗とす」と唱える。「貪等」とは三種の煩悩である「貪・瞋・癡」のいわゆる「三毒」を指す。これらはそれぞれ「貪欲」「怒りや憎しみ」「無知や愚かさ」を意味し、食においてはいたずらに美食や暴食する貪欲、食に嫌悪や不満を発する狭量、食の意義や作法を弁えない愚昧を戒める。(ウィキペディアより)

一 道心ありて名利をなげすてんひといるべし。いたづらにまことなからんものいるべからず…
一 堂中の衆は乳水のごとくに和合して、たがひに道業を一興すべし。いまはしばらく賓主なりとも、のちにはながく佛祖なるべし…
一 ありきをこのむべからず。たとひ切要には一月に一度をゆるす…
一 堂のうちにて、たとひ禪冊なりとも文字をみるべからず堂にしては究理辨道すべし。明窓下にむかふては古教照心すべし…
一 おほよそよるもひるもさらむところをば堂主にしらすべし。ほしいままにあそぶことなかれ…
一 他人の非に手かくべからずにくむこころにてひとの非をみるべからず…
一 大小の事、かならず堂主にふれてをこなふべし。堂主にふれずしてことををこなはんひとは、堂をいだすべし…
一 堂のうちならびにその近邊にてこゑをたかくしかしらをつどえて、ものいふべからず…
一 堂のうちにて行道すべからず。
一 堂のうちにて珠數もつべからず。手をたれていでいりすべからず。
一 堂のうちにて念誦看經すべからず…
一 堂のうちにてはなをたかくかみつばきたかくはくべからず…
一 堂の衆あやおりものをきるべからずかみぬのなどをきるべし…
一 さけにゑひて堂中にいるべからずわすれてあやまらんは禮拜懺悔すべし…
一 いさかひせんものは二人ともに下寮すべし…
……… 
一 一生安穩にして辨道無爲にあらむとねがふべし。
以前の數條は古佛の身心なりうやまひしたがふべし。        ―『重雲堂式』

信心銘味読会(8回目)、2017年11月22日

資料:
(1)至道無難、唯嫌揀択、但だ憎愛莫ければ、洞然(とうねん)として明白(めいはく)なり。毫釐(ごうり)も差有れば、天地懸(はるか)に隔たる。現前を得んと欲せば、順逆を存すること莫かれ。違順(いじゅん)相爭う、是を心病と爲す。玄旨(げんし)を識らざれば、徒(いたず)らに念靜(ねんじょう)を労す。円(まどか)なること大虚(たいきょ)に同じ、欠ること無く餘ること無し。良(まこと)に取捨に由る、所以(ゆえ)に不如なり。
(2)有縁を逐うこと莫れ、空忍に住すること勿かれ、一種平懷なれば、泯然(みんねん)として自から盡く。動を止めて止に歸すれば、止更に彌(いよい)よ動ず。唯両辺に滞らば、寧ろ一種を知らんや、一種通ぜざれば、両処に功を失す。有を遣(や)れば有に沒し、空に隨(したが)えば空に背く。多言多慮、転(うた)た相応せず、絶言絶慮、処として通ぜずということ無し。根に帰すれば旨(し)を得、照に隨えば宗を失す。須臾(しゅゆ)も返照すれば、前空に勝却す。前空の転変は、皆妄見に由る。真を求むることを用いず、唯須らく見を息むべし。
(3)二見に住せず、慎しんで追尋すること勿れ。纔(わずか)に是非有れば、紛然として心を失す。二は一に由て有り、一も亦守ること莫れ。一心生ぜざれば、万法に咎無し。咎無ければ法無し、生ぜざれば心ならず。能は境に隨って滅し、境は能を逐うて沈す。境は能に由て境たり、能は境に由て能たり。両段を知らんと欲せば、元是れ一空、一空両に同じく、齊しく万象を含む、精粗を見ず、寧(なん)ぞ偏党あらんや。
(4)大道體寬にして、難無(な)く易(い)無し、小見は狐疑(こぎ)す、轉(うたた)急なれば轉遲(おそ)し。之(これ)を執(しゅう)すれば度を失して、必ず邪路に入る、之を放てば自然なり、体に去住無し。性に任ずれば道に合(かな)う、逍遙として惱を絶す。繋念は眞に乖(そむ)き、昏沈(こんちん)は不好なり。不好なれば神を勞す、何ぞ疎親することを用いん。一乘に趣かんと欲せば、六塵を悪(にく)むこと勿れ。六塵を惡まざれば、還て正覚に同じ。
(5)智者は無爲なり、愚人は自縛す。法に異法無し、妄(みだ)りに自から愛著す。心を将(もっ)て心を用う、豈大錯(たいしゃく)に非(あら)ざらんや。迷えば寂乱(じゃくらん)を生じ、悟れば好悪(こうお)無し。一切の二辺、妄りに自から斟酌す。夢幻空華、何ぞ把捉(はしゃく)に労せん。得失是非、一時に放却せよ。眼若し睡らざれば、諸夢自(おのず)から除く。心若し異ならざれば、万法一如なり。一如体玄なり、兀爾(こつじ)として縁を忘ず。萬法斉しく観ずれば、帰復(きぶく)自然なり。其(そ)の所以を泯じて、方比すべからず。
(6)動を止むるに動無く、止を動ずるに止無し。両既に成らず、一何ぞ爾(しか)ること有らん。究境窮極(くきょうきゅうきょく)、軌則を存せず。契心(かいしん)平等なれば、所作倶に息(や)む。狐疑淨盡(こぎじょうじん)して、正信調直(ちょうじき)なり。一切留らず、記憶す可きこと無し。虚明自照(こめいじしょう)、心力を労せざれ。非思量の処、識情測り難し。真如法界、他無く自無し。急に相応せんと要せば、唯不二と言う。不二なれば皆同じ、包容せずと言うこと無し。十方の智者、皆此宗に入る。
(7)宗は促延(そくえん)に非ず、一念万年(いちねんばんねん)。在と不在と無く、十方目前。極小は大に同じく、境界を忘絶(もうぜつ)す。極大は小に同じく、辺表(へんぴょう)を見ず。有即ち是無、無即ち是有。若し是の如くならずんば、必ず守ることを須(もち)いざれ。一即一切、一切即一。但能く是くの如くならば、何ぞ不畢(ふひつ)を慮(おもんばか)らん。信心不二、不二信心、言語道断(ごんごどうだん)、去来今(きょらいこん)に非ず。

「主がモーセに命じられたようにミデアンびとと戦って、その男子をみな殺した。…[中略]…またイスラエルの人々はミデアンの女たちとその子供たちを捕虜にし、その家畜と、羊の群れと、貨財とをことごとく奪い取り、そのすまいのある町々と、その部落とを、ことごとく火で焼いた」(民数記31:7~10)

「あなたがたは女たちをみな生かしておいたのか。…[中略]…子供たちのうちの男の子をみな殺し、また男と寝て、男を知った女をみな殺しなさい。ただし、まだ男と寝ず、男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい」(民数記31:15~18)

「祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした」(ヨシュア記6:20~21)

「ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。ただし、その町の家畜および、ぶんどり品はイスラエルびとが自分たちの戦利品として取った。主がヨシュアに命じられた言葉にしたがったのである」(ヨシュア記8:26~27)

示して云く、大慧禪師、ある時尻に腫物出ぬれば、醫師此を見て大事の物なりと云ふ。慧の云く、大事の物ならば死ぬべきや否や。醫師云く、ほとんどあやふかるべし。慧の云く、若し死ぬべくんば彌よ坐禪すべしと云て、猶を強て坐しければ、其の腫物うみつぶれて別の事なかりき。古人の心かくのごとし。病をうけては彌よ坐禪せしなり。今の人病なふして坐禪ゆるくすべからず。病は心に隨て轉ずるかと覺ゆ。世間にしやくりする人に、虚言してわびつべき事を云つげぬれば、それをわびしつべき事に思ひ、心に入て陳ぜんとするほどに、忘れて其のしやくり留りぬ。我もそのかみ入宋の時、船中にて痢病せしに、惡風出來て船中さはぎける時、やまふ忘れて止りぬ。是を以て思ふに學道勤勞して他事を忘るれば、病も起るなじきかと覺るなり。(正法眼蔵随聞記5-16)

律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。(マタイによる福音書23-2~4)

大体いかなる師匠といえど凡夫であることには間違いはなく、完全者であるはずはないのであって、そんなこと初めから知ってかかるべきです。大切なことはこの「不完全者である師匠に、いかに完全なつき方をするか」を自己において修行することです。結局師につくということは、師をタタキ台として自己につくのです。(内山興正『発心して今から坊さんになりたい人へ』)

髄をうること、法をつたふること、必定して至誠(しじよう)により、信心によるなり。誠信(じようしん)ほかよりきたるあとなし、内よりいづる方なし。ただまさに法をおもくし、身をかろくするなり。世をのがれ、道をすみかとするなり。いささかも身をかへりみること、法よりおもきには、法つたはれず、道うることなし。―『正法眼蔵・礼拝得髄』

白隠禅師坐禅和讃:衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ たとえば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず…

色 即 是 空、     空 即 是 色。
私は命に生かされて生き、 この命を私が生かせて生きている。
色 → 有・一切・万法・氷・衆生・生死・私・自ら  ・する     
空 → 無・一 ・自己・水・仏 ・涅槃・命・自ずから・させていただく

1998年のANTAIJI&本堂回り、2017年11月19日

先代住職、宮浦信雄老師のころの安泰寺:

それより数年前の画像:1995年の安泰寺

11月24日、NHKのBS2に出演します。:よみがえる雪舟の名画

2013年の安泰寺、1月2日から映画館でご覧になれます:

silentvoice.or.jp/works/zenfornothing/

映画『Zen for Nothing』〜何でもない禅〜 の予告編 & 安泰寺の秋の作務、2017年11月10日

内山興正老師の御提唱

安泰寺の六代目住職、内山興正老師の多くの御提唱をYoutubeにアップしました:

youtube.com/user/sendaba/videos

安泰寺を引退した後に、京都・大阪や信州で提唱された「正法眼蔵」が中心ですが、最初の方にはこちらのお話をおすすめ致します:

「Zen for Nothing」2018年1月2日からロードショー決定!