安泰寺 – 2018 – 1月

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狐と猫―百丈野狐・南泉斬猫の公案を巡って(ネルケ無方@安泰寺)、2018年1月31日

【正法眼蔵随聞記1-6】
 或時、奘問て云く、如何是不昧因果底道理(如何か是れ不昧因果底の道理)。
 師云く、不動因果なり。
 云く、なんとしてか脱落せん。
 師云く、因果歴然なり。
 云く、かくの如くならば因果を引起すや、果因を引起すや。
 師云く、總てかくの如くならば、かの南泉の猫兒を斬るがごとき、大衆既に道ひ得ず、便ち猫兒を斬却しおはりぬ。後に趙州、頭に草鞋を戴きて出たりし、亦一段の儀式なり。
 亦云く、我れ若し南泉なりせば、即ち云べし、道ひ得たりとも便ち斬却せん、道ひ得ずとも便ち斬却せん、何人か猫兒をあらそふ、何人か猫兒を救ふと。大衆に代て云ん、既に道ひ得ず、和尚猫兒を斬却せよと。亦大衆に代て云ん、和尚只一刀兩段を知て一刀一段を知らずと。
 奘云く、如何是一刀一段。
 師云く、猫兒是。
 亦云く、大衆不對の時、我れ南泉ならば、大衆既に道不得と、云て便ち猫兒を放下してまじ。古人の云く、大用現前して軌則を存ぜずと。
 亦云く、今の斬猫は是便ち佛法の大用現前なり、或は一轉語なり。若し一轉語にあらずば山河大地妙淨明心と云べからず。亦即心是佛とも云べからず。便ち此一轉語の言下にて猫兒即佛身と見よ。亦此詞を聽て學人も頓に悟入すべし。
 亦云く、此斬猫兒即是佛行なり。喚で何とか云べき。
 云く、喚で斬猫と云べし。
 奘云く、是れ罪相なりや否や。
 云く、罪相なり。
 奘云く、なにとしてか脱落せん。
 云く、別別無見なり。
 云く、別解脱戒とはかくの如を云か。
 云く、然り。
 亦云く、たヾしかくの如きの料簡、たとひ好事なるとも無らんにはしかじ。
 奘問て云く、犯戒の語は受戒己後の所犯を云か、唯亦未受己前の罪相をも犯戒と云べきか。如何ん。
 師答て云く、犯戒の名は受後の所犯を云べし。未受己前所作の罪相をば只罪相罪業と云て犯戒と云べからず。
 問て云く、四十八輕戒の中に未受戒の所犯を犯と名くと見ゆ。如何ん。
 答て云く、然らず。彼は未受戒の者、今ま受戒せんとする時、所造のつみを懺悔するに、今の戒にのぞめて、前に十戒等を授かりて犯し、後ち亦輕戒を犯ずるをも犯戒と云なり。以前所造の罪を犯戒と云にはあらず。
 問て云く、今受戒せんとする時、まへに造りし所の罪を懺悔せんが爲に、未受戒の者に十重四十八輕戒を敎へて讀誦せしむべしと見へたり。亦下の文に、未受戒の前にして説戒すべからずと。此の二處の相違如何。
 答て云く、受戒と誦戒とは別なり、懺悔のために戒經を誦するは猶是念經なり。故に末受者戒經を誦せんとす。彼が爲に經を説かんこと咎あるべからず。下の文に、利養の爲のゆゑに未受戒の前にして是を説ことを制するなり。今受戒の者に懺悔せしめん爲には最も是を敎ゆべし。
 問て云く、受戒の時は七逆の受戒を許さず。先の戒の中には逆罪も懺悔すべしと見ゆ。如何ん。
 答て云く、實に懺悔すべし。受戒の時、許さヾることは、且く抑止門とて抑ゆる義なり。亦上の文は、破戒なりとも還得受せば淸淨なるべし。懺悔すれば淸淨なり。未受に同からず。
 問て云く、七逆すでに懺悔を許さば、亦受戒すべきか。如何ん。
 答て云く、然あり。故僧正自ら所立の義なり。既に懺悔を許す、亦是受戒すべし。逆罪なりとも、くひて受戒せば授くべし。況や菩薩はたとひ自身は破戒の罪を受とも、他の爲には受戒せしむべきなり。

典座教訓(9回目の輪講・正覚の当番)、2018年1月29日

 同年7月、山僧天童に掛錫(かしゃく)す。時に彼の典座來りて得相見して云く、「解夏了(かいげりょう)に典座を退き、郷に歸り去らんとす。適(たまた)ま兄弟(ひんでい)の老子が在りと説くを箇裏に聞く。如何ぞ來りて相見せざらんや」と。山僧喜踊(きゆう)感激して、佗を接して説話(せった)するの次で前日舶裏に在りし文字辨道の因縁を説き出す。
 典座云く、「文字を學ぶ者は、文字の故を知らんことを爲(ほっ)す。辨道を務る者は、辨道の故を(冖+月)(うけが)わんことを要す」と。
 山僧佗に問う、「如何にあらんか是れ文字」。座云く、「一二三四五」。
 又問う、「如何にあらんか是れ辨道」。座云く、「(彳+扁)界會て藏さず」と。
 其の餘の説話(せった)、多般(たはん)有りと雖も、今緑せざる所なり。
 山僧聊(いささ)か文字を知り、辨道を了するは、及ち彼の典座の大恩なり。
 向來一段の事、先師全公に説似す。公甚だ隨喜するのみ。
 山僧後に雪竇の頌有り僧に示して「一字七字三五字。萬像窮め來るに據(よ)りどころ爲(あら)ず。夜深(ふ)け月白うして滄溟に下り、驪珠(りじゅ)を捜り得るは多許(そこばく)か有る」と云を看る。
 前年彼の典座の云ふ所と、今日雪竇の示す所と、自ら相ひ符合す。彌(いよいよ)知る彼の典座は是れ眞の道人なることを。
 然あれば則ち從來看る所の文字は、是れ一二三四五なり。今日看る所の文字も、亦た六七八九十なり。
 後來の兄弟(ひんでい)、這頭從り那頭を看了し、那頭從り這頭を看了す。恁(かくのごとき)功夫を作さば、便ち文字上の一味禪を了得し去らん。
 若し是の如くならずんば、諸方の五味禪の毒を被りて、僧食を排辨するに、未だ好手たることを得(う)べからざらん。
 誠に夫れ當職は先聞現證(せんもんげんしょう)。眼に在り耳に在り。文字有り道理有り。正的(しょうてき)と謂つべきか。
 縱(すで)に粥飯頭の名を忝(かたじけの)うせば、心術も亦た之に同ずべきなり。
 

典座教訓(8回目の輪講・恵光の当番)、2018年1月28日

 又嘉定(かてい)十六年、癸未(きび)、五月中。慶元の舶裏(はくり)に在りて、倭使頭説話(せつた)次、一老僧有り來。年六十許歳(ばかり)。一直に便ち舶裏に到り、和客に問ふて倭椹(わじん)を討(たず)ね買う。
 山僧他を請(しょう)して茶を喫せしむ。佗の所在を問へば、便ち是れ阿育王山の典座なり。
 佗云く、「吾は是れ西蜀の人なり。郷を離るること四十年を得たり。今年是れ六十一歳。向來粗ぼ諸方の叢林を歴(へ)たり。先年權(か)りに孤雲裏に住し、育王を討ね得て掛搭(かた)し、胡亂に過ぐ。
 然あるに去年解夏(かいげ)了(りょう)。本寺の典座に充てらる。明日五日なれども、一供(く)渾(すべ)て好喫無し。麺汁を做(つく)らんと要するに、未だ椹(じん)の在らざる有り。仍(よっ)て特特として來る。椹を討ね買いて、十方の雲衲に供養せんとす」と。
 山僧佗に問ふ、「幾ばく時か彼(かしこ)を離れし」。座云く、「齋了(さいりょう)」。
 山僧云く、「育王這裏を去ること多少の路か有る」。座云く、「三十四五里」。山僧云く、「幾ばく時か寺裏に廻り去るや」。座云く、如今(いま)椹を買ひ了らば便ち行(さら)ん」。
 山僧云く、「今日期せずして相ひ會し、且つ舶裏に在て説話(せった)す。豈に好結縁(こうけつえん)に非ざらんや。道元典座禪師を供養せん」。
 座云く、「不可なり。明日の供養、吾れ若し管せずんば、便ち不是(ふぜ)にし了(おわ)らん」。
 山僧云く、「寺裏何ぞ同事の者齋粥を理會する無からんや。典座一位、不在なりとも、什麼(なん)の欠闕(かんけつ)か有らん」。
 座云く、「吾れ老年に此の職を掌(つかさど)る。及ち耄及(ぼうぎゅう)の辨道なり。何を以て佗に讓る可けんや。又た來る時未だ一夜宿の暇を請はず」。
 山僧又典座に問ふ、「座尊年、何ぞ坐禪辨道し、古人の話頭を看せざる。煩く典座に充て、只管に作務す、甚(なん)の好事か有る」と。
 座大笑して云く、「外国の好人、未だ辨道を了得せず。未だ文字を知得せざること在り」と。
 山僧佗の恁地(かくのごとき)の話を聞き、忽然として發慚驚心(ほつざんきょうしん)して、便ち佗に問ふ、「如何にあらんか是れ文字。如何にあらんか是れ辨道」と。
 座云く、「若も問處を蹉過せずんば、豈に其の人に非ざらんや」と。
 山僧當時(そのかみ)不會(ふえ)。
 座云く、若し未だ了得せずんば、佗時(たじ)後日、育王山に到れ。一番文字の道理を商量し去ること在らん」と。
 恁地(かくのごとく)話(かた)り了って、便ち座を起って云く、「日晏(く)れ了(な)ん忙(いそ)ぎ去(いな)ん」と。便ち歸り去れり。

典座教訓(7回目の輪講・ミカエルの当番)、2018年1月27日

 施主院に入て財を捨し齋を設けば、亦た當に諸の知事一等に商量すべし。是れ叢林の舊例(きゅうれい)なり。
 囘物(えもつ)俵散は、同く共に商量せよ。權を侵(おか)し職を亂することを得ず。
 齋粥如法に辨じ了らば、案上に安置し、典座袈裟を搭け坐具を展べ、先づ僧堂を望んで、焚香九拜し、拜し了て、及ち食を發すべし。
 一日夜を經し、齋粥を調辨し、虚しく光陰を度ること無れ。
 實の排備有らば、擧動施爲、自ら聖胎長養の業と成り、退歩飜身、便ち是れ大衆安樂の道なり。
 而今(いま)我が日本國、佛法の名字、聞くこと己(すで)に久しし。然あれども僧食(そうじき)如法作(にょほうさ)の言、先人記せず。先徳教えず。況んや僧食九拜の禮、未だ夢にだも見ざること在り。國人僧食の事を謂ふ。僧家作食(さじき)法の事は、宛も禽獸の食法の如しと。實に憐みを生ずべし。實に悲しみを生ずべし。
 如何んぞや。
 山僧天童に在りし時、本府の用(ゆう)典座職に充てりき。予因(ちなみ)に齋罷(さいは)に東廊を過ぎ、超然齋に赴くの路次、典座佛殿前に在りて苔を晒す。手に竹杖を携へ、頭に片笠無し。天日熱し、地甎熱す。汗流れて徘徊すれども、力を勵め苔を晒す。稍(やや)苦辛を見る。背骨弓の如く、龍眉(ほうび)鶴に似たり。
 山僧近前して、便ち典座の法壽を問ふ。座云く、「六十八歳」。
 山僧云く、如何ぞ行者人工(にんく)を使わざる」。座云く、「佗は是れ吾にあらず」。
 山僧云く、「老人(ろうにん)家(け)如法なり。天日且つ恁(かくのごとく)熱す。如何ぞ恁地なる」。座云く、「更に何(いず)れの時をか待たん」と。
 山僧更(すなわ)ち休す。
 廊を歩する脚下、潛(ひそか)に此の職の機要爲ることを覺ふ。

When a patron comes into the monastery and donates money to hold a feast, the various the stewards should all be consulted; this is the precedent established in monasteries of old. With regard to the distribution of the merit-making donations, they also consult together. Do not create a disturbance in the hierarchy by infringing on anyone’s authority.
When the midday meal or morning gruel has been properly prepared and placed on the table, the cook dons his kesa, spreads his sitting cloth, faces the sangha hall [where the monks eat], burns incense and makes nine prostrations. Upon finishing his prostrations, he sends the food [to the sangha hall].
Throughout the day, as you prepare the meals, do not pass the time in vain. If your preparations are true, then your movements and activities will naturally become the deeds of nurturing the womb of the sage. The way to put the great assembly at ease is to step back and transform yourself.
It has been a long time now since the name “buddha-dharma” came to be heard in our country, Japan. However, our predecessors did not record, and the former worthies did not teach, anything about the proper procedure for monks’ meals, and they never even dreamed of the rite of making nine prostrations before the monks’ meals. People in this country say that the way in which the monks eat and the way in which monasteries prepare food are just like the feeding methods of [domestic] birds and beasts. This is truly pathetic, truly deplorable. How could it be?
When this mountain monk [I, Dôgen] was at Tiantong Monastery, the […]

本堂回り、2018年1月26日

本堂回り(朝&午後)、2018年1月24日

典座教訓(5回目の輪講・イオアナの当番)、2018年1月23日

勵志至心(しいしん)に、浄潔(じょうけつ)なること古人に勝(まさ)れ、審細(しんさい)なること先老に超えんことを庶幾(こいねがふ)べし。
 其の運心(うんしん)道用(どうゆう)の體(てい)たらくは、古先(こせん)は縱(たと)ひ三錢を得るときは、而(すなわ)ち(艸+甫)菜羮を作るも、今ま吾(わ)れ同く三錢を得るときは、而(すなわ)ち頭乳羮を作らんと。
 此の事難(なん)爲(に)なり。所以(ゆえ)は何(いか)ん。今古殊異(しゅい)にして、天地懸隔(けんかく)なり。豈(あ)に肩を齋(ひと)しくすることを得る者ならんや。
 然れども審細(しんさい)に辨肯(冖+月)するの時は、古人を下視(あし)するの理、定(さだ)んで之れ有り。
 此の理、必然なるすらを、猶(な)お未だ明了ならざるは、思議(しぎ)紛飛(ふんぴ)して、其の野馬(やば)の如く、情念奔馳(ほんち)して、林猿(りんえん)に同じきを卒由(もつて)なり。
 若(も)し彼の猿馬(えんば)をして、一旦(たん)退歩返照(たいほへんしょう)せしめば、自然(じねん)に打成一片(だじょういっぺん)ならん。是れ及(すなわ)ち物の所轉(しょてん)を被(こうむ)るとも、能(よ)く其の物を轉ずるの手段なり。
 此の如く調和浄潔にして、一眼兩眼を失すること勿(なか)れ。
 一莖菜を拈じて丈六の金身と作し。丈六の金身を請して一莖菜を作す。
 神通及び變化、佛事及び利生する者なり。
 已に調ひ調へ了て已に辨じ、辨じ得て那邊(なへん)を看し這邊(しゃへん)に安(お)け。
 鳴(みょう)鼓(く)鳴(みょう)鐘(しょう)には、衆に隨い參(さん)に隨い、朝暮の請參(しょうさん)、一も虧闕(きけつ)すること無れ。

With resolve and sincerity, one should aim to exceed the ancients in purity and surpass the former worthies in attentiveness. The way to put that aspiration into practice in one’s own person is, for example, to take the same three coins that one’s predecessors spent to make a soup of the crudest greens and use them to now to make a soup of the finest cream. This is difficult to do. Why is that? Because present and past are completely different, like the distance between heaven and earth. How could we ever be able to equal their stature? Nevertheless, when we work attentively, therein lies the principle that makes it possible to surpass our predecessors.
That you still do not grasp the certainty of this principle is because your thinking scatters, like wild horses, and your emotions run wild, like monkeys in a forest. If you can make those monkeys and horses, just once, take the backward step that turns the light and shines it inward, then naturally you will be completely integrated. This is the means by which we, who are [ordinarily] set into motion by things, become able to set things into motion.
Harmonizing and purifying yourself in this manner, do not lose either the one eye [of transcendent wisdom] or the two eyes [of discriminating consciousness]. Lifting a single piece of vegetable, make [yourself into] a six-foot body [i.e. a buddha] and ask that six-foot body to prepare a single piece of vegetable. Those are [the cook’s] spiritual penetrations and magical transformations, his buddha-work and benefiting of living beings.
Having prepared [everything] so that the preparations are finished, […]

典座教訓(3回目の輪講・ムリロの当番)、2018年1月19日

 雪峰(せっぽう)、洞山に在って典座と作(な)る。一日、米を淘(と)ぐ次(つい)で、洞山問う。「砂を淘り去って米か、米を淘り去って砂か」。峰云く、「砂米一時に去る」。洞山云く、「大衆箇(こ)の什麼(なに)をか喫す」。峰盆(はち)覆却(ふくきゃく)す。山云く、「子(なんじ)佗(た)後、別に人に見(まみ)え去ること在らん」と。
 上古(じょうこ)有道の高士、自ら手すから精(くわ)しく至り、之れを修すること此(かく)の如し。後來の晩進之れを怠慢すべけんや。
 先來(せんらい)云う、「典座は絆(ばん)を以て道心と爲す」と。米砂誤まりて淘り去ること有るが如きは、自ら手ずから檢點(けんてん)せよ。
 清規に云く、造食(ぞうじき)の時、須(すべか)らく親しく自ら照顧(しょうこ)して、自然(じねん)に精潔なるべしと。
 其の淘米の白水(はくすい)を取りて、亦た虚(むなし)く棄てざれ。古來漉白水嚢(ろうはくすいのう)を置いて、粥米(しゅくべい)の水を辨ず。
 鍋(か)に納(い)れ了(おわ)れば、心を留めて護持し、老鼠(ろうそ)等をして觸誤(しょくご)し、竝びに諸色の閑人(かんじん)をして見觸せしむること莫れ。
 粥時の菜を調ふる次に、今日齋時に飯羮等に用うる所の盤桶(ばんつう)並に什物調度(じゅうもつちょうど)を打併(たびゃう)して、精誠浄潔(せいせいじょうけつ)に洗灌(せんかん)し、彼此(ひし)高處(こうじょ)に安ずべきは高處に安じ、低處に安ずべきは低處に安ぜよ。高處は高平に、低處は低平。
 キョウ(木+夾)杓(きょうしゃく)等の類、一切の物色(もつしき)、一等に打併して、眞心(しんしん)に物を鑑(かん)し、輕手(けいしゅ)に取放(しゅほう)す。
 然して後に明日の齋料(さいりょう)を理會(りえ)せよ。先ず米裏に蟲有らんを擇べ。緑豆(りょくず)・糠塵(こうじん)・砂石等、精誠に擇べ。
 米を擇び菜を擇ぶ等の時、行者(あんじゃ)諷經(ぶぎん)して竈公(そうこう)に囘向(えこう)す。
 次に菜羮(さいこう)を擇び物料(もつりょう)を調辨(ちょうべん)す。
 庫司に隨いて打得(たとく)する所の物料は、多少を論ぜず、麁(鹿+鹿+鹿)細(そさい)を管せず、唯だ是れ精誠に辨備するのみ。切に忌(い)む。色を作して口に料物の多少を説くことを。
 竟日(ひねもす)通夜(よもすがら)、物來りて心(むね)に在り、心(むね)歸して物に在り。一等に佗の與(ため)に精勤辨道す。

When Xuefeng resided at Dongshan [monastery], he served as cook. One day when he was sifting rice [master] Dongshan asked him, “Are you sifting the sand and removing the rice, or sifting the rice and removing the sand?” Xuefeng said, “Sand and rice are simultaneously removed.” Dongshan asked, “What will the great assembly eat?” Xuefeng overturned the bowl. Dongshan said, “In the future you will go and be scrutinized by someone else.”
In the past, eminent men in possession of the way practiced in this way [as cooks], working energetically with their own hands. In this latter day, how can we who are so late getting started [in our
practice] be negligent about this? The ancients said that cooks regard tying up their sleeves [for manual work] as the way-seeking mind. Lest there be any mistakes in the sifting out of rice and sand, you should examine it with your own hands. The Rules of Purity say, “When preparing meals, one should reflect intimately on one’s own self; [the food] will then of itself be pure and refined.”
Keep the white water with which you have washed the rice; do not wastefully discard it. In ancient times they used a cloth bag to strain the white water and used it to boil the rice when making gruel.
Having put [the rice] into the cooking pot, pay attention and guard it. Do not allow mice and the like to touch it by mistake, nor any covetous idlers to examine or touch it.
When cooking the vegetable side dishes for the morning gruel, also prepare the platters and tubs used for rice, soup, […]

典座教訓(1回目の輪講・恵光の当番)、2018年1月17日

 佛家に本(もと)より六知事有り。共に佛子爲(た)りて、同(とも)に佛事を作(な)す。
 就中(なかんづく)典座の一職(いっしき)は、是れ衆僧(しゅぞう)の辨食(べんじき)を掌(つかさど)る。
 『禪苑清規(ぜんねんしんぎ)』に云(いわ)く、「衆僧を供養するが故に典座有り」と。
 古(いにしえ)より道心の師僧、発心の高士(こうし)充て来(きた)の職なり。蓋(けだ)し一色の辨道の猶(ごと)きか。
 若し道心無きは、徒(いたずら)に辛苦を労して畢竟(ひっきょう)益(えき)無し。
 『禪苑清規』に云く。「須(すべから)く道心を運(めぐ)らして、時に随って改変し、大衆をして受用安樂ならしむべし」と。
 昔日(そのかみ)、イ山(いさん)。洞山(どうざん)等之を勤め、其の余の諸大祖師も、曽(かつ)て経来れり。所以(ゆえ)に世俗の食厨子(じきずし)、及び饌夫(せんぷ)等に同じからざる者か。
 山僧在宋の時、暇日、前資勤旧(ぜんしごんきゅう)等に咨問するに、彼等聊(いささ)か見聞(けんもん)を挙(こ)して、山僧の為に説く。此の説似(せつじ)は、古来有道の佛祖の遺す所の骨髄なり。大抵須らく『禪苑清規』を熟見すべし。然して後に須らく勤旧子細之の説を聞くべし。
 所謂(いわゆる)、当職(とうしき)一日夜を経す。先ず斎時罷(さいじは)、都寺(つうす)、監寺(かんす)等の辺(あたり)に就いて、翌日の斎粥の物料を打(た)す。所謂米菜等なり。
 打得し了(お)わらば、之を護惜(ごしゃく)すること眼晴(がんせい)の如くせよ。保寧(ほねい)の勇(ゆう)禪師曰(いわ)く、「眼晴なる常住物を護惜せよ」と。
 之を敬重(きょうじゅう)すること御饌草料(ぎょせんそうりょう)の如くせよ。
 生物熟物(しょうもつじゅくもつ)、倶(とも)に此の意を存せよ。

学道用心集&帰山&本堂回り&関西でも「何でもない禅」、2018年1月16日

2018年1月2日(火)より、ポレポレ東中野にてお正月公開される映画『Zen for Nothing~何でもない禅』は、ついに大阪上映も決定されました。2/10(土)~3/2(金)、第七藝術劇場でご覧になれます。2/11(日)の上映の後、住職のネルケ無方は映画館でトークに参加します。

資料:
手巾(しゅきん・ハンカチ)
百尺竿頭進一歩
正法・像法・末法

「当世学道する人、多分法を聞く時、先ず領解(りょうげ)する由を知られんと思ひ、答の言(こと)ばのよからん様(やう)を思ふほどに、聞くことばが耳を過すなり。総じて詮(せん)ずる処、道心なく吾我を存ずるゆへなり。只須(すべから)く先ず吾我を忘れて、人の云はんことを能く聞得(ききえ)て後に静(しづか)に案じて、難もあり不審もあらば追(おつ)ても難じ、心得たらば重(かさね)て師に呈すべし。当座に領ずる由を呈せんとするは法を能(よく)も聞得ざるなり」
(今頃の修行僧は多くの場合、法を聞くときにすぐに自分がいかによく理解しているかを知らせようとするから、肝心な話は耳に入らない。しょせん道心がなく、自分のエゴを捨てていないのだ。まずそのエゴを忘れて、人の話をよく聞くこと。聞いたことを後で静かに考えて、疑問があり腑に落ちないものがあれば、その疑問を次の機会で表現すべきだ。また、理解したならば、後で自分の理解を表現しなさい。その場でよく分かったような顔をするということは、話が分かっていないからだ)

 「亦身をも惜しまず難行苦行(なんぎょうくぎょう)すれども、心(こころ)仏道に入らずして我が心に差(たが)ふことをば仏道なれどもせじと思ふは、心を捨(すて)ざるなり」
(身をも惜しまないで難行・苦行に励んだとしても、心を仏道のほうに投げ入れないで、自分の意見と反対なものは受け入れないと思ったならば、まだ心を捨てたとはいえない)

 「真実の得道と云(いふ)は、従来の身心(しんじん)を放下(はうげ)して只(ただ)直下(ぢきげ)に他に随ひゆけば、即ち(すなはち)まことの道人となるなり」
(本当に道を得るということは、従来の身をも心をも手放すことである。ただ目の前にある師匠(他)に従っていく者こそ、道人といえるのだ)

 「参師聞法の時に、能々(よくよく)極めて聞き重て聞て決定(けつぢやう)すべし。問ふべきを問はず、云ふべきを云ずして過しなば、必ず我れが損なるべし。師は必ず弟子の問を待て言を発するなり。心得たることをもいくたびも問て決定すべきなり」
(師匠の下に参じて法を聞くときには、本当に腑に落ちるまで何回も何回もよく聞くべきである。問うことを問わないで、いうことをいわなければ、損するのは自分自身。弟子の問いがなければ、師匠も説法できないわけだ。だから理解したつもりのことも、本当に腑に落ちるまでに、何回も何回も聞け)(いずれも『正法眼蔵随聞記』のお言葉)
 
この道より我を生かす道なし この道を歩く(武者小路実篤)

(七)佛法を修行し出離を欣求(ごんぐ)する人は須らく参禅すべき事
右、仏法は諸道に勝(すぐ)れたり。所以に人之(こ)れを求む。
如来の在世には全く二教なく、全く二師なし。大師釈尊、唯だ無上菩提を以つて、衆生を誘引するのみ。
迦葉、正法眼蔵を傳へてより以来(このかた)、西天二十八代、東土六代、乃至五家(ごけ)の諸祖、嫡々(てきてき)相承して、更に断絶なし。然れば則ち梁の普通中以後(いご)、始め僧徒(そうと)より、及び王臣に至るまで、抜群の者は、帰せずといふこと無し。誠に夫れ、勝(しょう)を愛すべき所以は、勝を愛すべきなればなり。葉公(しょうこう)の龍を愛するが如くなるべからざるか。
神丹以東の諸国、文字の教網(きょうもう)、海に布(し)き山に遍(あま)ねし。山に遍ねしと雖も雲心なく、海に布くと雖も波心(はしん)を枯(から)す。愚者(ぐしゃ)は之を嗜(たしな)む。譬えば魚目を撮(とっ)て以て珠(たま)と執(しゅう)するが如し。迷者(めいしゃ)は之を翫(もてあそ)ぶ。譬(たと)えば燕石(えんせき)を蔵(ぞう)して玉と崇(あが)むるが如し。多くは魔坑(まきょう)に堕(だ)して、屡(しばし)ば自身を損(そん)す。哀(かなし)む可し、辺鄙(へんぴ)の境(きょう)は邪風(じゃふう)扇(あお)ぎ易(やす)く、正法は通じ難し。然りと雖も、神丹の一国は、已(すで)に仏の正法に帰す。
我が朝(ちょう)、高麗(こうらい)等は、仏の正法未だ弘通(ぐづう)せず。何が為ぞ、何が為ぞ。高麗国は猶お正法の名を聞くも、我が朝は未だ嘗(かつ)て聞くことを得ず。前来入唐(にゅつとう)の諸師、皆な教網(きょうもう)に滞(とどこ)るが故なり。仏書を傳うと雖も、仏法を忘るるが如し。
其の益(えき)是れ何ぞ。其の功(こう)終に空し。是れ乃ち学道の故実を知らざる所以なり。哀(あわ)れむ可し、徒(いたず)らに労(ろう)して一生の人身(にんしん)を過すことを。
夫れ仏道を学ぶに、初め門に入る時、知識の教えを聞き、教えの如く修行す。此の時知る可き事あり。所謂(いわゆる)法(ほう)我(われ)を転じ、我法を転ずるなり。我(われ)能く法を転ずるの時は、我は強く法は弱きなり。法還(かえ)って我を転ずるの時は、法は強く我は弱きなり。仏法従来此の両節(りょうせつ)あり、正嫡(しょうてき)に非ずんば、未だ嘗(かつ)て之を知らず。衲僧(のうそう)に非ずんば、名(な)すら尚お聞くこと罕(まれ)なり。若し此の故実(こじつ)を知ずんば、学道未だ辨(べん)ぜず、正邪奚為(なんすれ)ぞ分別(ふんべつ)せん。
今、参禅学道の人、自(おのず)から此の故実を傳授(でんじゅ)す。所以(ゆえ)に誤(あやま)らざるなり。餘門(よもん)には無し。仏道を欣求するの人、参禅に非ずんば眞道(しんどう)を了知(りょうち)すべからず。

講義の中でほとんど触れることのできなかった「発心して今から坊さんになりたい人へ」(内山興正著)の全文はこちらで読めます:
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