2018年1月2日(火)より、ポレポレ東中野にてお正月公開される映画『Zen for Nothing~何でもない禅』は、ついに大阪上映も決定されました。2/10(土)~3/2(金)、第七藝術劇場でご覧になれます。2/11(日)の上映の後、住職のネルケ無方は映画館でトークに参加します。

資料:
手巾(しゅきん・ハンカチ)
百尺竿頭進一歩
正法・像法・末法

「当世学道する人、多分法を聞く時、先ず領解(りょうげ)する由を知られんと思ひ、答の言(こと)ばのよからん様(やう)を思ふほどに、聞くことばが耳を過すなり。総じて詮(せん)ずる処、道心なく吾我を存ずるゆへなり。只須(すべから)く先ず吾我を忘れて、人の云はんことを能く聞得(ききえ)て後に静(しづか)に案じて、難もあり不審もあらば追(おつ)ても難じ、心得たらば重(かさね)て師に呈すべし。当座に領ずる由を呈せんとするは法を能(よく)も聞得ざるなり」
(今頃の修行僧は多くの場合、法を聞くときにすぐに自分がいかによく理解しているかを知らせようとするから、肝心な話は耳に入らない。しょせん道心がなく、自分のエゴを捨てていないのだ。まずそのエゴを忘れて、人の話をよく聞くこと。聞いたことを後で静かに考えて、疑問があり腑に落ちないものがあれば、その疑問を次の機会で表現すべきだ。また、理解したならば、後で自分の理解を表現しなさい。その場でよく分かったような顔をするということは、話が分かっていないからだ)

 「亦身をも惜しまず難行苦行(なんぎょうくぎょう)すれども、心(こころ)仏道に入らずして我が心に差(たが)ふことをば仏道なれどもせじと思ふは、心を捨(すて)ざるなり」
(身をも惜しまないで難行・苦行に励んだとしても、心を仏道のほうに投げ入れないで、自分の意見と反対なものは受け入れないと思ったならば、まだ心を捨てたとはいえない)

 「真実の得道と云(いふ)は、従来の身心(しんじん)を放下(はうげ)して只(ただ)直下(ぢきげ)に他に随ひゆけば、即ち(すなはち)まことの道人となるなり」
(本当に道を得るということは、従来の身をも心をも手放すことである。ただ目の前にある師匠(他)に従っていく者こそ、道人といえるのだ)

 「参師聞法の時に、能々(よくよく)極めて聞き重て聞て決定(けつぢやう)すべし。問ふべきを問はず、云ふべきを云ずして過しなば、必ず我れが損なるべし。師は必ず弟子の問を待て言を発するなり。心得たることをもいくたびも問て決定すべきなり」
(師匠の下に参じて法を聞くときには、本当に腑に落ちるまで何回も何回もよく聞くべきである。問うことを問わないで、いうことをいわなければ、損するのは自分自身。弟子の問いがなければ、師匠も説法できないわけだ。だから理解したつもりのことも、本当に腑に落ちるまでに、何回も何回も聞け)(いずれも『正法眼蔵随聞記』のお言葉)
 
この道より我を生かす道なし この道を歩く(武者小路実篤)

(七)佛法を修行し出離を欣求(ごんぐ)する人は須らく参禅すべき事
右、仏法は諸道に勝(すぐ)れたり。所以に人之(こ)れを求む。
如来の在世には全く二教なく、全く二師なし。大師釈尊、唯だ無上菩提を以つて、衆生を誘引するのみ。
迦葉、正法眼蔵を傳へてより以来(このかた)、西天二十八代、東土六代、乃至五家(ごけ)の諸祖、嫡々(てきてき)相承して、更に断絶なし。然れば則ち梁の普通中以後(いご)、始め僧徒(そうと)より、及び王臣に至るまで、抜群の者は、帰せずといふこと無し。誠に夫れ、勝(しょう)を愛すべき所以は、勝を愛すべきなればなり。葉公(しょうこう)の龍を愛するが如くなるべからざるか。
神丹以東の諸国、文字の教網(きょうもう)、海に布(し)き山に遍(あま)ねし。山に遍ねしと雖も雲心なく、海に布くと雖も波心(はしん)を枯(から)す。愚者(ぐしゃ)は之を嗜(たしな)む。譬えば魚目を撮(とっ)て以て珠(たま)と執(しゅう)するが如し。迷者(めいしゃ)は之を翫(もてあそ)ぶ。譬(たと)えば燕石(えんせき)を蔵(ぞう)して玉と崇(あが)むるが如し。多くは魔坑(まきょう)に堕(だ)して、屡(しばし)ば自身を損(そん)す。哀(かなし)む可し、辺鄙(へんぴ)の境(きょう)は邪風(じゃふう)扇(あお)ぎ易(やす)く、正法は通じ難し。然りと雖も、神丹の一国は、已(すで)に仏の正法に帰す。
我が朝(ちょう)、高麗(こうらい)等は、仏の正法未だ弘通(ぐづう)せず。何が為ぞ、何が為ぞ。高麗国は猶お正法の名を聞くも、我が朝は未だ嘗(かつ)て聞くことを得ず。前来入唐(にゅつとう)の諸師、皆な教網(きょうもう)に滞(とどこ)るが故なり。仏書を傳うと雖も、仏法を忘るるが如し。
其の益(えき)是れ何ぞ。其の功(こう)終に空し。是れ乃ち学道の故実を知らざる所以なり。哀(あわ)れむ可し、徒(いたず)らに労(ろう)して一生の人身(にんしん)を過すことを。
夫れ仏道を学ぶに、初め門に入る時、知識の教えを聞き、教えの如く修行す。此の時知る可き事あり。所謂(いわゆる)法(ほう)我(われ)を転じ、我法を転ずるなり。我(われ)能く法を転ずるの時は、我は強く法は弱きなり。法還(かえ)って我を転ずるの時は、法は強く我は弱きなり。仏法従来此の両節(りょうせつ)あり、正嫡(しょうてき)に非ずんば、未だ嘗(かつ)て之を知らず。衲僧(のうそう)に非ずんば、名(な)すら尚お聞くこと罕(まれ)なり。若し此の故実(こじつ)を知ずんば、学道未だ辨(べん)ぜず、正邪奚為(なんすれ)ぞ分別(ふんべつ)せん。
今、参禅学道の人、自(おのず)から此の故実を傳授(でんじゅ)す。所以(ゆえ)に誤(あやま)らざるなり。餘門(よもん)には無し。仏道を欣求するの人、参禅に非ずんば眞道(しんどう)を了知(りょうち)すべからず。

講義の中でほとんど触れることのできなかった「発心して今から坊さんになりたい人へ」(内山興正著)の全文はこちらで読めます:
antaiji.org/ja/services/english-to-you-2-kosho-uchiyama-roshi/