【正法眼蔵随聞記1-6】
 或時、奘問て云く、如何是不昧因果底道理(如何か是れ不昧因果底の道理)。
 師云く、不動因果なり。
 云く、なんとしてか脱落せん。
 師云く、因果歴然なり。
 云く、かくの如くならば因果を引起すや、果因を引起すや。
 師云く、總てかくの如くならば、かの南泉の猫兒を斬るがごとき、大衆既に道ひ得ず、便ち猫兒を斬却しおはりぬ。後に趙州、頭に草鞋を戴きて出たりし、亦一段の儀式なり。
 亦云く、我れ若し南泉なりせば、即ち云べし、道ひ得たりとも便ち斬却せん、道ひ得ずとも便ち斬却せん、何人か猫兒をあらそふ、何人か猫兒を救ふと。大衆に代て云ん、既に道ひ得ず、和尚猫兒を斬却せよと。亦大衆に代て云ん、和尚只一刀兩段を知て一刀一段を知らずと。
 奘云く、如何是一刀一段。
 師云く、猫兒是。
 亦云く、大衆不對の時、我れ南泉ならば、大衆既に道不得と、云て便ち猫兒を放下してまじ。古人の云く、大用現前して軌則を存ぜずと。
 亦云く、今の斬猫は是便ち佛法の大用現前なり、或は一轉語なり。若し一轉語にあらずば山河大地妙淨明心と云べからず。亦即心是佛とも云べからず。便ち此一轉語の言下にて猫兒即佛身と見よ。亦此詞を聽て學人も頓に悟入すべし。
 亦云く、此斬猫兒即是佛行なり。喚で何とか云べき。
 云く、喚で斬猫と云べし。
 奘云く、是れ罪相なりや否や。
 云く、罪相なり。
 奘云く、なにとしてか脱落せん。
 云く、別別無見なり。
 云く、別解脱戒とはかくの如を云か。
 云く、然り。
 亦云く、たヾしかくの如きの料簡、たとひ好事なるとも無らんにはしかじ。
 奘問て云く、犯戒の語は受戒己後の所犯を云か、唯亦未受己前の罪相をも犯戒と云べきか。如何ん。
 師答て云く、犯戒の名は受後の所犯を云べし。未受己前所作の罪相をば只罪相罪業と云て犯戒と云べからず。
 問て云く、四十八輕戒の中に未受戒の所犯を犯と名くと見ゆ。如何ん。
 答て云く、然らず。彼は未受戒の者、今ま受戒せんとする時、所造のつみを懺悔するに、今の戒にのぞめて、前に十戒等を授かりて犯し、後ち亦輕戒を犯ずるをも犯戒と云なり。以前所造の罪を犯戒と云にはあらず。
 問て云く、今受戒せんとする時、まへに造りし所の罪を懺悔せんが爲に、未受戒の者に十重四十八輕戒を敎へて讀誦せしむべしと見へたり。亦下の文に、未受戒の前にして説戒すべからずと。此の二處の相違如何。
 答て云く、受戒と誦戒とは別なり、懺悔のために戒經を誦するは猶是念經なり。故に末受者戒經を誦せんとす。彼が爲に經を説かんこと咎あるべからず。下の文に、利養の爲のゆゑに未受戒の前にして是を説ことを制するなり。今受戒の者に懺悔せしめん爲には最も是を敎ゆべし。
 問て云く、受戒の時は七逆の受戒を許さず。先の戒の中には逆罪も懺悔すべしと見ゆ。如何ん。
 答て云く、實に懺悔すべし。受戒の時、許さヾることは、且く抑止門とて抑ゆる義なり。亦上の文は、破戒なりとも還得受せば淸淨なるべし。懺悔すれば淸淨なり。未受に同からず。
 問て云く、七逆すでに懺悔を許さば、亦受戒すべきか。如何ん。
 答て云く、然あり。故僧正自ら所立の義なり。既に懺悔を許す、亦是受戒すべし。逆罪なりとも、くひて受戒せば授くべし。況や菩薩はたとひ自身は破戒の罪を受とも、他の爲には受戒せしむべきなり。