右、仏祖より以来(このかた)、直指(じきし)単傳(たんでん)、西乾(さいけん)四七、東地(とうち)六世(ろくせ)、絲毫(しごう)を添(そ)えず、一塵(じん)を破(やぶ)ること莫(な)し。
衣(え)は曹渓(そうけい)に及び、法は沙界(しゃかい)に周(あま)ねし。
時に如来の正法眼蔵、巨唐(きょとう)に盛んなり。其(そ)の法の體(てい)為(た)らくは、摸索(もさく)するも得ず、求覓(ぐみゃく)するも得ず。見處(けんじょ)に知(ち)を忘(ぼう)じ、得時(とくじ)に心を超(こ)ゆ。
面目(めんもく)を黄梅(おうばい)に失(しつ)し、臂腕(ひわん)を少室(しょうしつ)に断(だん)ず。
髄(ずい)を得、心(しん)を飜(ひるが)えして風流(ふうりゅう)を買ひ、拜(はい)を設(もう)け、歩(ほ)を退(しりぞ)いて便宜(べんぎ)に墮(お)つ。
然(しか)れども、心に於ても身に於ても、住(じゅう)するなく著(じゃく)する無(な)し。留(とどま)らず滞(とどこお)らず。
趙州(じょうしゅう)に僧問(と)う、狗子(くす)に還(かえ)つて仏性(ぶっしょう)ありや無なしやと。州云く、無(む)と。
無字の上に於いて、擬量(ぎりょう)し得てんや、擁滞(ようたい)し得てんや。全く巴鼻(はび)なし。
請う試みに手を撒(さっ)せよ。且(しば)らく手を撒して看よ。
身心は如何、行李(あんり)は如何ん、生死は如何ん、仏法は如何ん、世法は如何ん、山河(さんが)大地、人畜(にんちく)家屋(かおく)、畢竟(ひっきょう)如何ん。
看来(みきた)り看(み)去って、自然(じねん)に動静(どうじょう)の二相(にそう)了然(りょうねん)として生ぜず。
此の不生(ふしょう)の時、是れ頑然(がんねん)にあらず、人之れを證する無く、之れに迷うもの惟(こ)れ多し。
参禅の人、且(しば)らく半迷(はんめい) 〈*途(と)〉にして始めて得たり、全迷 (ぜんめい)〈*途(と)〉にして辞(じ)すること莫れ。祈祷(きとう)、祈祷。

自受用三昧
身心脱落
眼横鼻直
柔軟心