辨道話 講義(4) 二〇一八年七月二十五日

諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。
これただほとけ仏にさづけて、よこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化(ゆげ)するに、端坐参禅を正門とせり。
この法は、人人の分上に、ゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるには、うることなし。
はなてば、てにみてり、一多のきはならむや。かたれば、くちにみつ、縦横きはまりなし。
諸仏のつねに、このなかに住持たる、各各の方面に知覚をのこさず。
群生のとこしなへに、このなかに使用する、各各の知覚に方面あらはれず。
いまおしふる功夫辨道は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。
その超関脱落のとき、この節目(せつもく)にかかはらむや。
予(よ)、発心求法(ほっしんぐほう)よりこのかた、わが朝(ちょう)の遍方に知識をとぶらひき。ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華すみやかに九廻(くかい)をへたり。いささか臨済の家風をきく。全公は祖師 西和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝せり。あへて余輩のならぶべきにあらず。
予、かさねて大宋国におもむき、知識を両浙にとぶらひ、家風を五門にきく。つひに太白峰の浄禅師に参じて、一生参学の大事ここにをはりぬ。
それよりのち、大宋 紹定のはじめ、本郷にかへりし、すなはち弘法(ぐほう)求生(ぐしょう)をおもひとせり。なほ重担をかたにおけるがごとし。
しかあるに、弘通(ぐづう)のこころを放下せん、激揚のときをまつゆゑに、しばらく雲遊萍寄(うんゆうひょうき)して、まさに先哲の風をきこえんとす。ただし、おのづから名利にかかはらず、道念をさきとせん真実の参学あらんか。
いたづらに邪師にまどはされて、みだりに正解(しょうげ)をおほひ、むなしく自狂にゑふて、ひさしく迷郷にしづまん、なにによりてか般若の正種を長じ、得道の時をえん。貧道はいま雲遊萍寄をこととすれば、いづれの山川をかとぶらはん。
これをあはれむゆゑに、まのあたり大宋国にして禅林の風規を見聞し、知識の玄旨を稟持(ぼんじ)せしを、しるしあつめて、参学閑道の人にのこして、仏家の正法をしらしめんとす。これ真訣ならんかも。
いはく、
大師釈尊、霊山会上(りょうぜんえじょう)にして法を迦葉につけ、祖祖正伝して菩提達磨尊者にいたる。尊者みづから神丹国におもむき、法を慧可大師につけき。これ東地の仏法伝来のはじめなり。かくのごとく単伝して、おのづから六祖 大鑑禅師にいたる。このとき、真実の仏法まさに東漢に流演(るえん)して、節目にかかはらぬむねあらはれき。ときに六祖に二位の神足ありき。南嶽の懐譲と青原の行思シ)となり。ともに仏印(ぶっちん)を伝持して、おなじく人天の導師なり。その二派の流通(るづう)するに、よく五門ひらけたり。いはゆる法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗なり。見在(げんざい)、大宋には臨済宗のみ天下にあまねし。五家(ごけ)ことなれども、ただ一仏心印なり。
大宋国も後漢よりこのかた、教籍(きょうせき)あとをたれて一天にしけりといへども、雌雄(しゆう)いまださだめざりき。祖師西来ののち、直に葛藤の根源をきり、純一の仏法ひろまれり。わがくにも又しかあらん事をこひねがふべし。
いはく、仏法を住持せし諸祖ならびに諸仏、ともに自受用三昧に端坐依行するを、その開悟のまさしきみちとせり。
西天東地、さとりをえし人、その風にしたがへり。これ、師資(しし)ひそかに妙術を正伝し、真訣を稟持せしによりてなり。
宗門の正伝にいはく、「この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅさん)、看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ」
もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。 
ゆゑに、諸仏如来をしては本地の法楽をまし、覚道の荘厳をあらたにす。および十方法界、三途六道の群類、みなともに一時に身心明浄にして、大解脱地を証し、本来面目現ずるとき、諸法みな正覚を証会(しょうえ)し、万物ともに仏身を使用して、すみやかに証会の辺際を一超して、覚樹王に端坐して、一時に無等等の大法輪を転じ、究竟(くきょう)無為の深般若を開演す。
これらの等正覚、さらにかへりて したしくあひ冥資(みょうし)するみちかよふがゆえに、この坐禅人、確爾(かくじ)として身心脱落し、従来雑穢(ぞうえ)の知見思量を截断(せつだん)して、天真の仏法に証会し、あまねく微塵際(みじんさい)そこばくの諸仏如来の道場ごとに仏事を助発(じょほつ)し、ひろく仏向上の機にかうぶらしめて、よく仏向上の法を激揚す。
このとき、十方法界の土地、草木、牆壁(しょうへき)、瓦礫(がりゃく)、みな仏事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあづかるともがら、みな甚妙(じんみょう)不可思議の仏化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。
この水火を受用するたぐひ、みな本証の仏化を周旋(しゅうせん)するゆえに、これらのたぐひと共住(ぐじゅう)して同語するもの、またことごとくあいたがひに無窮の仏徳そなはり、展転広作(てんでんこうさ)して、無尽、無間断(むけんだん)、不可思議、不可称量の仏法を、遍法界の内外に流通するものなり。
しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏(こん)ぜざらしむることは、静中(じょうちゅう)の無造作にして直証なるをもてなり。もし、凡流(ぼんる)の おもひのごとく、修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはるは証則にあらず、証則には迷情およばざるがゆえに。
又、心境ともに静中の証入、悟出あれども、自受用の境界なるをもて、一塵をうごかさず、一相をやぶらず、広大の仏事、甚深微妙の仏化をなす。
この化道(けどう)のおよぶところの草木、土地ともに大光明をはなち、深妙法をとくこと、きはまるときなし。草木牆壁(そうもくしょうへき)はよく凡聖含霊(ぼんしょうがんれい)のために宣揚(せんよう)し、凡聖含霊はかへって草木牆壁のために演暢(えんちょう)す。
自覚、覚他の境界、もとより証相をそなへてかけたることなく、証則おこなはれておこたるときなからしむ。
ここをもて、わづかに一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥(みょう)し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽法界のなかに、去来現(こらいげん)に、常恒(じょうごう)の仏化道事をなすなり。
彼彼(ひひ)ともに一等の同修なり、同証なり。ただ坐上の修のみにあらず、空をうちてひびきをなすこと、撞(とう)の前後に妙声綿綿(みょうしょうめんめんん)たるものなり。
このきはのみにかぎらむや、百頭(はくとう)みな本面目に本修行をそなへて、はかりはかるべきにあらず。
しるべし、たとひ十方無量恒河沙数(むりょうごうがしゃすう)の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。