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典座教訓(3回目の輪講・ムリロの当番)、2018年1月19日

 雪峰(せっぽう)、洞山に在って典座と作(な)る。一日、米を淘(と)ぐ次(つい)で、洞山問う。「砂を淘り去って米か、米を淘り去って砂か」。峰云く、「砂米一時に去る」。洞山云く、「大衆箇(こ)の什麼(なに)をか喫す」。峰盆(はち)覆却(ふくきゃく)す。山云く、「子(なんじ)佗(た)後、別に人に見(まみ)え去ること在らん」と。
 上古(じょうこ)有道の高士、自ら手すから精(くわ)しく至り、之れを修すること此(かく)の如し。後來の晩進之れを怠慢すべけんや。
 先來(せんらい)云う、「典座は絆(ばん)を以て道心と爲す」と。米砂誤まりて淘り去ること有るが如きは、自ら手ずから檢點(けんてん)せよ。
 清規に云く、造食(ぞうじき)の時、須(すべか)らく親しく自ら照顧(しょうこ)して、自然(じねん)に精潔なるべしと。
 其の淘米の白水(はくすい)を取りて、亦た虚(むなし)く棄てざれ。古來漉白水嚢(ろうはくすいのう)を置いて、粥米(しゅくべい)の水を辨ず。
 鍋(か)に納(い)れ了(おわ)れば、心を留めて護持し、老鼠(ろうそ)等をして觸誤(しょくご)し、竝びに諸色の閑人(かんじん)をして見觸せしむること莫れ。
 粥時の菜を調ふる次に、今日齋時に飯羮等に用うる所の盤桶(ばんつう)並に什物調度(じゅうもつちょうど)を打併(たびゃう)して、精誠浄潔(せいせいじょうけつ)に洗灌(せんかん)し、彼此(ひし)高處(こうじょ)に安ずべきは高處に安じ、低處に安ずべきは低處に安ぜよ。高處は高平に、低處は低平。
 キョウ(木+夾)杓(きょうしゃく)等の類、一切の物色(もつしき)、一等に打併して、眞心(しんしん)に物を鑑(かん)し、輕手(けいしゅ)に取放(しゅほう)す。
 然して後に明日の齋料(さいりょう)を理會(りえ)せよ。先ず米裏に蟲有らんを擇べ。緑豆(りょくず)・糠塵(こうじん)・砂石等、精誠に擇べ。
 米を擇び菜を擇ぶ等の時、行者(あんじゃ)諷經(ぶぎん)して竈公(そうこう)に囘向(えこう)す。
 次に菜羮(さいこう)を擇び物料(もつりょう)を調辨(ちょうべん)す。
 庫司に隨いて打得(たとく)する所の物料は、多少を論ぜず、麁(鹿+鹿+鹿)細(そさい)を管せず、唯だ是れ精誠に辨備するのみ。切に忌(い)む。色を作して口に料物の多少を説くことを。
 竟日(ひねもす)通夜(よもすがら)、物來りて心(むね)に在り、心(むね)歸して物に在り。一等に佗の與(ため)に精勤辨道す。

When Xuefeng resided at Dongshan [monastery], he served as cook. One day when he was sifting rice [master] Dongshan asked him, “Are you sifting the sand and removing the rice, or sifting the rice and removing the sand?” Xuefeng said, “Sand and rice are simultaneously removed.” Dongshan asked, “What will the great assembly eat?” Xuefeng overturned the bowl. Dongshan said, “In the future you will go and be scrutinized by someone else.”
In the past, eminent men in possession of the way practiced in this way [as cooks], working energetically with their own hands. In this latter day, how can we who are so late getting started [in our
practice] be negligent about this? The ancients said that cooks regard tying up their sleeves [for manual work] as the way-seeking mind. Lest there be any mistakes in the sifting out of rice and sand, you should examine it with your own hands. The Rules of Purity say, “When preparing meals, one should reflect intimately on one’s own self; [the food] will then of itself be pure and refined.”
Keep the white water with which you have washed the rice; do not wastefully discard it. In ancient times they used a cloth bag to strain the white water and used it to boil the rice when making gruel.
Having put [the rice] into the cooking pot, pay attention and guard it. Do not allow mice and the like to touch it by mistake, nor any covetous idlers to examine or touch it.
When cooking the vegetable side dishes for the morning gruel, also prepare the platters and tubs used for rice, soup, […]

典座教訓(1回目の輪講・恵光の当番)、2018年1月17日

 佛家に本(もと)より六知事有り。共に佛子爲(た)りて、同(とも)に佛事を作(な)す。
 就中(なかんづく)典座の一職(いっしき)は、是れ衆僧(しゅぞう)の辨食(べんじき)を掌(つかさど)る。
 『禪苑清規(ぜんねんしんぎ)』に云(いわ)く、「衆僧を供養するが故に典座有り」と。
 古(いにしえ)より道心の師僧、発心の高士(こうし)充て来(きた)の職なり。蓋(けだ)し一色の辨道の猶(ごと)きか。
 若し道心無きは、徒(いたずら)に辛苦を労して畢竟(ひっきょう)益(えき)無し。
 『禪苑清規』に云く。「須(すべから)く道心を運(めぐ)らして、時に随って改変し、大衆をして受用安樂ならしむべし」と。
 昔日(そのかみ)、イ山(いさん)。洞山(どうざん)等之を勤め、其の余の諸大祖師も、曽(かつ)て経来れり。所以(ゆえ)に世俗の食厨子(じきずし)、及び饌夫(せんぷ)等に同じからざる者か。
 山僧在宋の時、暇日、前資勤旧(ぜんしごんきゅう)等に咨問するに、彼等聊(いささ)か見聞(けんもん)を挙(こ)して、山僧の為に説く。此の説似(せつじ)は、古来有道の佛祖の遺す所の骨髄なり。大抵須らく『禪苑清規』を熟見すべし。然して後に須らく勤旧子細之の説を聞くべし。
 所謂(いわゆる)、当職(とうしき)一日夜を経す。先ず斎時罷(さいじは)、都寺(つうす)、監寺(かんす)等の辺(あたり)に就いて、翌日の斎粥の物料を打(た)す。所謂米菜等なり。
 打得し了(お)わらば、之を護惜(ごしゃく)すること眼晴(がんせい)の如くせよ。保寧(ほねい)の勇(ゆう)禪師曰(いわ)く、「眼晴なる常住物を護惜せよ」と。
 之を敬重(きょうじゅう)すること御饌草料(ぎょせんそうりょう)の如くせよ。
 生物熟物(しょうもつじゅくもつ)、倶(とも)に此の意を存せよ。

学道用心集&帰山&本堂回り&関西でも「何でもない禅」、2018年1月16日

2018年1月2日(火)より、ポレポレ東中野にてお正月公開される映画『Zen for Nothing~何でもない禅』は、ついに大阪上映も決定されました。2/10(土)~3/2(金)、第七藝術劇場でご覧になれます。2/11(日)の上映の後、住職のネルケ無方は映画館でトークに参加します。

資料:
手巾(しゅきん・ハンカチ)
百尺竿頭進一歩
正法・像法・末法

「当世学道する人、多分法を聞く時、先ず領解(りょうげ)する由を知られんと思ひ、答の言(こと)ばのよからん様(やう)を思ふほどに、聞くことばが耳を過すなり。総じて詮(せん)ずる処、道心なく吾我を存ずるゆへなり。只須(すべから)く先ず吾我を忘れて、人の云はんことを能く聞得(ききえ)て後に静(しづか)に案じて、難もあり不審もあらば追(おつ)ても難じ、心得たらば重(かさね)て師に呈すべし。当座に領ずる由を呈せんとするは法を能(よく)も聞得ざるなり」
(今頃の修行僧は多くの場合、法を聞くときにすぐに自分がいかによく理解しているかを知らせようとするから、肝心な話は耳に入らない。しょせん道心がなく、自分のエゴを捨てていないのだ。まずそのエゴを忘れて、人の話をよく聞くこと。聞いたことを後で静かに考えて、疑問があり腑に落ちないものがあれば、その疑問を次の機会で表現すべきだ。また、理解したならば、後で自分の理解を表現しなさい。その場でよく分かったような顔をするということは、話が分かっていないからだ)

 「亦身をも惜しまず難行苦行(なんぎょうくぎょう)すれども、心(こころ)仏道に入らずして我が心に差(たが)ふことをば仏道なれどもせじと思ふは、心を捨(すて)ざるなり」
(身をも惜しまないで難行・苦行に励んだとしても、心を仏道のほうに投げ入れないで、自分の意見と反対なものは受け入れないと思ったならば、まだ心を捨てたとはいえない)

 「真実の得道と云(いふ)は、従来の身心(しんじん)を放下(はうげ)して只(ただ)直下(ぢきげ)に他に随ひゆけば、即ち(すなはち)まことの道人となるなり」
(本当に道を得るということは、従来の身をも心をも手放すことである。ただ目の前にある師匠(他)に従っていく者こそ、道人といえるのだ)

 「参師聞法の時に、能々(よくよく)極めて聞き重て聞て決定(けつぢやう)すべし。問ふべきを問はず、云ふべきを云ずして過しなば、必ず我れが損なるべし。師は必ず弟子の問を待て言を発するなり。心得たることをもいくたびも問て決定すべきなり」
(師匠の下に参じて法を聞くときには、本当に腑に落ちるまで何回も何回もよく聞くべきである。問うことを問わないで、いうことをいわなければ、損するのは自分自身。弟子の問いがなければ、師匠も説法できないわけだ。だから理解したつもりのことも、本当に腑に落ちるまでに、何回も何回も聞け)(いずれも『正法眼蔵随聞記』のお言葉)
 
この道より我を生かす道なし この道を歩く(武者小路実篤)

(七)佛法を修行し出離を欣求(ごんぐ)する人は須らく参禅すべき事
右、仏法は諸道に勝(すぐ)れたり。所以に人之(こ)れを求む。
如来の在世には全く二教なく、全く二師なし。大師釈尊、唯だ無上菩提を以つて、衆生を誘引するのみ。
迦葉、正法眼蔵を傳へてより以来(このかた)、西天二十八代、東土六代、乃至五家(ごけ)の諸祖、嫡々(てきてき)相承して、更に断絶なし。然れば則ち梁の普通中以後(いご)、始め僧徒(そうと)より、及び王臣に至るまで、抜群の者は、帰せずといふこと無し。誠に夫れ、勝(しょう)を愛すべき所以は、勝を愛すべきなればなり。葉公(しょうこう)の龍を愛するが如くなるべからざるか。
神丹以東の諸国、文字の教網(きょうもう)、海に布(し)き山に遍(あま)ねし。山に遍ねしと雖も雲心なく、海に布くと雖も波心(はしん)を枯(から)す。愚者(ぐしゃ)は之を嗜(たしな)む。譬えば魚目を撮(とっ)て以て珠(たま)と執(しゅう)するが如し。迷者(めいしゃ)は之を翫(もてあそ)ぶ。譬(たと)えば燕石(えんせき)を蔵(ぞう)して玉と崇(あが)むるが如し。多くは魔坑(まきょう)に堕(だ)して、屡(しばし)ば自身を損(そん)す。哀(かなし)む可し、辺鄙(へんぴ)の境(きょう)は邪風(じゃふう)扇(あお)ぎ易(やす)く、正法は通じ難し。然りと雖も、神丹の一国は、已(すで)に仏の正法に帰す。
我が朝(ちょう)、高麗(こうらい)等は、仏の正法未だ弘通(ぐづう)せず。何が為ぞ、何が為ぞ。高麗国は猶お正法の名を聞くも、我が朝は未だ嘗(かつ)て聞くことを得ず。前来入唐(にゅつとう)の諸師、皆な教網(きょうもう)に滞(とどこ)るが故なり。仏書を傳うと雖も、仏法を忘るるが如し。
其の益(えき)是れ何ぞ。其の功(こう)終に空し。是れ乃ち学道の故実を知らざる所以なり。哀(あわ)れむ可し、徒(いたず)らに労(ろう)して一生の人身(にんしん)を過すことを。
夫れ仏道を学ぶに、初め門に入る時、知識の教えを聞き、教えの如く修行す。此の時知る可き事あり。所謂(いわゆる)法(ほう)我(われ)を転じ、我法を転ずるなり。我(われ)能く法を転ずるの時は、我は強く法は弱きなり。法還(かえ)って我を転ずるの時は、法は強く我は弱きなり。仏法従来此の両節(りょうせつ)あり、正嫡(しょうてき)に非ずんば、未だ嘗(かつ)て之を知らず。衲僧(のうそう)に非ずんば、名(な)すら尚お聞くこと罕(まれ)なり。若し此の故実(こじつ)を知ずんば、学道未だ辨(べん)ぜず、正邪奚為(なんすれ)ぞ分別(ふんべつ)せん。
今、参禅学道の人、自(おのず)から此の故実を傳授(でんじゅ)す。所以(ゆえ)に誤(あやま)らざるなり。餘門(よもん)には無し。仏道を欣求するの人、参禅に非ずんば眞道(しんどう)を了知(りょうち)すべからず。

講義の中でほとんど触れることのできなかった「発心して今から坊さんになりたい人へ」(内山興正著)の全文はこちらで読めます:
antaiji.org/ja/services/english-to-you-2-kosho-uchiyama-roshi/

本堂回り&学道用心集&人生の意味&よみがえる雪舟&関西でも「何でもない禅」、2017年12月20日

2018年1月2日(火)より、ポレポレ東中野にてお正月公開される映画『Zen for Nothing~何でもない禅』は、ついに大阪上映も決定されました。2/10(土)~3/2(金)、第七藝術劇場でご覧になれます。

資料:
(六)参禅に知る可(べ)き事
右、参禅学道は一生の大事なり、忽(ゆるが)せにす可(べ)からず。豈(あ)に卒爾(そつじ)ならんや。
古人、臂(ひじ)を断ち指を斬(き)る、神丹(しんだん)の勝躅(しょうちょく)なり。昔、仏(ほとけ)家を捨て国を捨(す)つ、行道の遺蹤(ゆいしょう)なり。今人(こんじん)云く、行じ易(やす)きの行を行ずべしと。此(こ)の言(ごん)尤(もっと)も非なり、太(はなは)だ仏道に合(かな)わず。若し事(こと)を専(もっぱ)らにして以つて行に擬(ぎ)せば、偃臥(えんが)も猶(な)お懶(ものう)し。一事に懶(ものう)ければ万事に懶し。易(やすき)を好むの人は、自(おの)ずから道器に非(あら)ざることを知る。
況や今世(こんぜ)流布(るふ)の法は、此れ乃ち釋迦大師、無量劫来(こうらい)、難行苦行して、然して後乃ち此の法を得たり。本源既に爾(しか)り。流派(りゅうは)豈に易(やす)かる可けんや。道を好むの士は易行(いぎょう)に志すこと莫(なか)れ。
若し易行を求むれば、定(さだ)んで実地(じっち)に達せず、必ず宝所(ほうじょ)に到らざる者か。古人、大力量(だいりきりょう)を具(ぐ)するすら、尚おし言わく、行じ難しと。識(し)るべし仏道の深大(じんだい)なることを。若し仏道本より行じ易き者ならば、古来大力量の士、難行難解(なんげ)と言う可からず。
今人を以つて古人に比するに、九牛(きゅうぎゅう)の一毛(もう)にも及ばず。而るに此の少根薄識(はくしき)を以つて、縦ひ力を励まして、難行能行に擬するも、猶お古人の易行易解(いげ)にも及ぶ可からず。
今人の好む所の易解易行の法とは、其れ是れ何ぞや。已(すで)に世法に非ず、又仏法に非ず、未だ天魔波旬(はじゅん)の行(ぎょう)にも及ばず、未だ外道二乗の行にも及ばず、凡夫迷妄(めいもう)の甚だしきと云う可きか。縦ひ出離に擬すと雖も、還って是れ無窮(むきゅう)の輪廻なり。
其(そ)の骨を折り髄を砕(くだ)くを観るに、亦た難からずや、心操を調ふの事尤も難し。長斎梵行も、亦た難からずや、身行を調うるの事尤も難し。若し粉骨(ふんこつ)貴ぶべくんば、之を忍ぶ者昔より多しと雖も、得法の者惟(こ)れ少なし。斎行の者貴ぶ可くんば、古より多しと雖も、悟道の者惟(こ)れ少なし。是れ乃ち心を調うること甚だ難(かた)きが故なり。聡明(そうめい)を先と為(せ)ず、学解(がくげ)を先と為ず、心意識を先と為ず、念想観を先と為ず、向来都(すべ)て之を用いずして、身心を調へて以つて仏道に入るなり。
釋迦老師の云わく、観音流(ながれ)を入(かえ)して所知(しょち)を亡ずと、即(すなわ)ちこの意なり。
動静の二相、了然(りょうねん)として生ぜず、即(すなわ)ちこの調(ちょう)なり。若し聡明(そうめい)博解(はくげ)を以つて、仏道に入る可くんば、神秀上座其の人なり。若し庸体(ようたい)卑賤(ひせん)を以つて、仏道を嫌うべくんば、曹渓の高祖豈に敢(あ)えてせんや。仏道を伝へ得(う)るの法は、聡明博解の外(ほか)に在ること、是(ここ)に於いて明かなり。探(さぐ)って尋(たず)ぬ可く、顧(かえり)みて参ず可し。又年老耄及(ねんろうぼうきゅう)を嫌わず。又た幼稚壮齢(そうれい)を嫌わず。趙州は六旬余にして始めて参ず、然りと雖も祖席の英雄たり。鄭娘(ていじょう)は十二歳にして久学す、能く又た叢林の抜萃(ばっすい)なり。
仏法の威(い)は、加(か)と不加(ふか)とに見(あら)はれ、参と不参とに分かる。或いは教家(きょうけ)の久習(くじゅう)、或いは世典(せてん)の旧才(くさい)も、皆な禅門を訪(と)うべし。其の例是れ多し。南岳の慧思は多才の人なり、尚お達磨に参ず、永嘉の玄覚は秀逸(しゅういつ)の士なり、已(すで)に大鑑に参ず。
法を明らめ、道を得ること、参師の力(ちから)為(た)る可し。但だ宗師に参問するの時、師の説を聞いて、己見(こけん)に同(どう)ずること勿(な)かれ。若し己見に同ずれば、師の法を得ざるなり。
参師問法の時、身心を浄(きよ)らかにし、眼耳(げんに)を静かにして、唯だ師の法を聴受(ちょうじゅ)し、更に余念(よねん)を交(まじ)えざれ。身心一如にして、水を器に瀉(そそ)ぐが如し。若し能く是の如くならば、方(まさ)に師の法を得るなり。
今、愚魯(ぐろ)の輩(やから)、或いは文籍(もんじゃく)を記(き)し、或いは先聞(せんもん)を蘊(つつ)み、以つて師の説に同ず。此の時唯だ己見古語のみありて、師の言(げん)未だ契(かな)わず。或いは一類あり、己見を先と為して、経卷を披(ひら)き、一両語を記持して、以つて仏法と為す。後に明師宗匠に参じて、法を聞くの時、若し己見に同ぜば是と為し、若し旧意に合(かな)はずんば非と為す。邪を捨(すつ)る方(ほう)を知らず、豈に正に帰するの道に登(のぼ)らんや。縦え塵沙劫(じんじゃごう)も尚お迷者(めいじゃ)たらん、尤も哀(あわれ)むべし、之れを悲しまざらんや。
参学識(し)るべし、仏道は、思量、分別、卜度(ぼくたく)、観想、知覚、慧解(えげ)の外に在ることを。
若し此れ等の際に在らば、生来常に此れ等の中に在りて、常に此れ等を翫(もてあ)そぶ、何が故ぞ今に仏道を覚せざるや。
学道は、思量分別等の事を用いる可からず。常に思量等を帯(お)ぶる、吾が身を以つて検点(けんてん)せば、是(ここ)に於いて明鑑(めいかん)なる者なり。其の所入(しょにゅう)の門は、得法の宗匠(しゅうしょう)のみありて之を悉(つまび)らかにす。文字(もんじ)法師(ほっし)の及ぶ所に非ざるのみ。
天福甲午清明(てんぷくこうごせいめい)の日書す。

ラジオ出演「人生の意味とは」& 臘八接心中の雪、2017年12月8日

12月3日にNHKのラジオ第二で放送された「人生の意味とは」は、日曜日の午後6:30~午後7:00に再放送されます:
www2.nhk.or.jp/hensei/program
聞き逃した方は、こちらでもダウンロードできます:
http://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/a558241dc95bdf5ef338f1f7b98cfdde

さて、12月8日は真珠湾攻撃の日でもあり、ジョン・レノンの命日でもありますが、仏弟子にとってはまず何より「成道会」つまり釈尊が菩提樹下で悟られた日なのです。また、一年で最も長く最も寒い臘八接心もこの日の未明まで続きます。この臘八接心中に雪が積もりう始めることも多く、今年も12月8日に最後に車で参道が通れました。来年の3月26日まではカンジキでの上・下山になります。

ラジオ出演「人生の意味とは」&学道用心集講義、2017年11月24日

12月3日の午前8時30分~9時00分、NHKの[ラジオ第2]に出ます:宗教の時間「人生の意味とは」

毎月、京都府宮津市にある智源寺専門僧堂で講義をさせていただいています。
次回は12月18日(月)
今回は『学道用心集』の4回目の講義でした。資料です:
 
(一)菩提心を発すべき事
右、菩提心は、多名一心なり。竜樹祖師の曰く、唯、世間の生滅無常を観ずるの心も亦菩提心と名づくと。

(二)正法を見聞(けんもん)して必ず修習(しゅじゅう)すべき事
右、忠臣一言を献ずれば、數(しばしば)廻天の力あり。佛祖一語を施さば廻心せざる人莫(な)し。

(三)佛道は必ず行に依て證入すべき事
右、俗に曰く、學べば乃ち祿其の中(うち)に在りと。佛の言はく、行ずれば乃ち證、其の中に在りと。

(四)有所得の心(しん)を用つて佛法を修すべからざる事
右、仏法修行は、必ず先達(せんだつ)の真訣(しんけつ)を稟(うけ)て、私の用心を用いざるか。況や仏法は、有心(うしん)を以つて得可からず。無心を以て得べからず…

(五)参禅学道は正師を求む可き事 
右、古人云く、発心正しからざれば、萬行(ばんぎょう)空しく施すと。誠なる哉(かな)この言(げん)。
行道(ぎょうどう)は導師の正(しょう)と邪とに依る可(べ)きものか。機は良材の如く、師は工匠(こうしょう)に似たり。縦(たと)え良材たりと雖も、良工を得ずんば、奇麗(きれい)未だ彰(あら)われず。縦(たと)え曲木たりと雖も、若し好手に遇わば、妙功(みょうこう)忽ち現ず。師の正邪(しょうじゃ)に随って、悟(さとり)の真偽あり。之を以て暁(さと)る可(べ)し。
但し我が国昔より正師(しょうし)未だ在らず。何を以て之が然るを知るや。言(ごん)を見て察するなり。流れを酌んで源を討(たず)ぬるが如し。我が朝古来の諸師、書籍(しょじゃく)を篇集(へんじゅう)し、弟子(でし)に訓(おし)え人天(にんでん)に施(ほどこ)す、其の言(ごん)是れ青く、其の語未だ熟せず、未だ学地の頂(いただ)きに到らず、何ぞ證階の辺(ほと)りに及ばん。只だ文言(もんごん)を傳えて、名字を誦せしむ。日夜他の寶(たから)を数えて、自(みず)から半銭の分(ぶん)なし。
古(いにしえ)の責(せめ)之(ここ)に在り。或は人をして心外(しんげ)の正覚(しょうかく)を求め教(し)め、或いは人をして他土(たど)の往生(おうじょう)を願わ教(し)む。惑乱此(ここ)より起り、邪念此(これ)を職(もと)とす。縱(たと)え良薬を与うと雖も、銷(しょう)する方を教えずんば、病と作(な)ること、毒を服するよりも甚だし。我が朝(ちょう)、古(いにしえ)より良薬を与うる人なきが如く、薬毒を銷(しょう)するの師未だ在(あ)らず。是(ここ)を以て、生病除き難く、老死何ぞ免(まぬ)がれん。
皆これ師の咎(とが)なり、全く機の咎に非ざるなり。所以(ゆえ)は何(いか)ん。人の師たる者、人をして本(もと)を捨て、末を逐(お)わ教(し)むるの然ら令(し)むるなり。
自解(じげ)未だ立(りゆう)せざる以前、偏(ひと)えに己我(こが)の心を専(もつぱ)らにし、濫(みだり)りに他人をして邪境に堕(お)つることを招か(教)しむ。哀れむ可(べ)し、人の師たる者すら、未だ是れ邪惑なることを知らず、弟子何(なん)為(す)れぞ是非を覚了せんや。悲(かな)しむ可(べ)し辺鄙(へんぴ)の小邦、仏法未だ弘通(ぐつう)せず、正師(しょうし)未だ出世せず。若し無上の仏道を学ばんと欲せば、遙(はる)かに宋土の知識を訪(とむら)うべし。遥かに心外の活路を顧(かえり)みるべし。正師を得ずんば、学ばざるに如(し)かず。
夫れ正師とは、年老耆宿(ねんろうぎしゅく)を問わず、唯だ正法を明めて、正師の印證を得るものなり。文字を先とせず、解会を先とせず、格外の力量あり、過節の志気(しいき)あり、我見(我見)に拘(かか)わらず、情識に滞(とどこ)おらず、行解相応(ぎょうげそうおう)する、是れ乃ち正師なり。

若し道心無きは、徒(いたずら)に辛苦を労して畢竟(ひっきょう)益(えき)無し。―『典座教訓』

修行阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師をうることもともかたし。
その導師は、男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麼人なるべし。古今人にあらず、野狐精(やこぜい)にして善知識ならん。
これ得髄(とくずい)の面目なり、導利なるべし。不昧因果なり、你我渠(にいがこ)なるべし。すでに導師に相逢(そうほう)せんよりこのかたは、万縁をなげすてて、寸陰をすごさず精進辦道すべし。有心にても修行し、無心にても修行し、半心にても修行すべし。しかあれば、頭然をはらひ、翹足を学すべし。かくのごとくすれば、訕謗(せんぼう)の魔党にをかされず、断臂得髄の祖、さらに他にあらず、脱落身心の師、すでに自なりき。髄をうること、法をつたふること、必定して至誠(しじょう)により、信心によるなり。誠信(じょうしん)ほかよりきたるあとなし、内よりいづる方なし。ただまさに法をおもくし、身をかろくするなり。世をのがれ、道をすみかとするなり。いささかも身をかへりみること、法よりおもきには、法つたはれず、道うることなし。―『正法眼蔵・礼拝得髄』

一 計功多少 量彼来処 : 一つには功の多少を計り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
(この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。)
二 忖己德行 全缺應供 : 二つには己が徳行(とくぎょう)の全欠を忖(はか)って供(く)に応ず。
(自分の行いが、この食を頂くに価するものであるかどうか反省します。)
三 防心離過 貪等為宗 : 三つには心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす。
(心を正しく保ち、あやまった行いを避けるために、貪など三つの過ちを持たないことを誓います。)
四 正事良薬 為療形枯 : 四つには正に良薬を事とすることは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。
(食とは良薬なのであり、身体をやしない、正しい健康を得るために頂くのです。)
五 為成道故 今受此食 :五つには 成道(じょうどう)の為の故に今この食(じき)を受く。
(今この食事を頂くのは、己の道を成し遂げるためです。)―『五観の偈』

五観の偈(ごかんのげ)は、主に禅宗において食事の前に唱えられる偈文。唐代の南山律宗の僧、道宣が著した『四分律行事鈔』中の観文を宋代に黄庭堅が僧俗のため約したもの。道元の著作『赴粥飯法』における引用によって日本で広く知られるようになった。僧侶の食事作法のひとつだが、道徳的普遍性の高い文章であるため禅に限らず多くの分野で引用されている。
宗派によって偈文の読み下しに若干の異同があり、臨済宗、黄檗宗では三句目を「三つには心を防ぎ過貪等を離るるを宗とす」と唱える。「貪等」とは三種の煩悩である「貪・瞋・癡」のいわゆる「三毒」を指す。これらはそれぞれ「貪欲」「怒りや憎しみ」「無知や愚かさ」を意味し、食においてはいたずらに美食や暴食する貪欲、食に嫌悪や不満を発する狭量、食の意義や作法を弁えない愚昧を戒める。(ウィキペディアより)

一 道心ありて名利をなげすてんひといるべし。いたづらにまことなからんものいるべからず…
一 堂中の衆は乳水のごとくに和合して、たがひに道業を一興すべし。いまはしばらく賓主なりとも、のちにはながく佛祖なるべし…
一 ありきをこのむべからず。たとひ切要には一月に一度をゆるす…
一 堂のうちにて、たとひ禪冊なりとも文字をみるべからず堂にしては究理辨道すべし。明窓下にむかふては古教照心すべし…
一 おほよそよるもひるもさらむところをば堂主にしらすべし。ほしいままにあそぶことなかれ…
一 他人の非に手かくべからずにくむこころにてひとの非をみるべからず…
一 大小の事、かならず堂主にふれてをこなふべし。堂主にふれずしてことををこなはんひとは、堂をいだすべし…
一 堂のうちならびにその近邊にてこゑをたかくしかしらをつどえて、ものいふべからず…
一 堂のうちにて行道すべからず。
一 堂のうちにて珠數もつべからず。手をたれていでいりすべからず。
一 堂のうちにて念誦看經すべからず…
一 堂のうちにてはなをたかくかみつばきたかくはくべからず…
一 堂の衆あやおりものをきるべからずかみぬのなどをきるべし…
一 さけにゑひて堂中にいるべからずわすれてあやまらんは禮拜懺悔すべし…
一 いさかひせんものは二人ともに下寮すべし…
……… 
一 一生安穩にして辨道無爲にあらむとねがふべし。
以前の數條は古佛の身心なりうやまひしたがふべし。        ―『重雲堂式』

信心銘味読会(8回目)、2017年11月22日

資料:
(1)至道無難、唯嫌揀択、但だ憎愛莫ければ、洞然(とうねん)として明白(めいはく)なり。毫釐(ごうり)も差有れば、天地懸(はるか)に隔たる。現前を得んと欲せば、順逆を存すること莫かれ。違順(いじゅん)相爭う、是を心病と爲す。玄旨(げんし)を識らざれば、徒(いたず)らに念靜(ねんじょう)を労す。円(まどか)なること大虚(たいきょ)に同じ、欠ること無く餘ること無し。良(まこと)に取捨に由る、所以(ゆえ)に不如なり。
(2)有縁を逐うこと莫れ、空忍に住すること勿かれ、一種平懷なれば、泯然(みんねん)として自から盡く。動を止めて止に歸すれば、止更に彌(いよい)よ動ず。唯両辺に滞らば、寧ろ一種を知らんや、一種通ぜざれば、両処に功を失す。有を遣(や)れば有に沒し、空に隨(したが)えば空に背く。多言多慮、転(うた)た相応せず、絶言絶慮、処として通ぜずということ無し。根に帰すれば旨(し)を得、照に隨えば宗を失す。須臾(しゅゆ)も返照すれば、前空に勝却す。前空の転変は、皆妄見に由る。真を求むることを用いず、唯須らく見を息むべし。
(3)二見に住せず、慎しんで追尋すること勿れ。纔(わずか)に是非有れば、紛然として心を失す。二は一に由て有り、一も亦守ること莫れ。一心生ぜざれば、万法に咎無し。咎無ければ法無し、生ぜざれば心ならず。能は境に隨って滅し、境は能を逐うて沈す。境は能に由て境たり、能は境に由て能たり。両段を知らんと欲せば、元是れ一空、一空両に同じく、齊しく万象を含む、精粗を見ず、寧(なん)ぞ偏党あらんや。
(4)大道體寬にして、難無(な)く易(い)無し、小見は狐疑(こぎ)す、轉(うたた)急なれば轉遲(おそ)し。之(これ)を執(しゅう)すれば度を失して、必ず邪路に入る、之を放てば自然なり、体に去住無し。性に任ずれば道に合(かな)う、逍遙として惱を絶す。繋念は眞に乖(そむ)き、昏沈(こんちん)は不好なり。不好なれば神を勞す、何ぞ疎親することを用いん。一乘に趣かんと欲せば、六塵を悪(にく)むこと勿れ。六塵を惡まざれば、還て正覚に同じ。
(5)智者は無爲なり、愚人は自縛す。法に異法無し、妄(みだ)りに自から愛著す。心を将(もっ)て心を用う、豈大錯(たいしゃく)に非(あら)ざらんや。迷えば寂乱(じゃくらん)を生じ、悟れば好悪(こうお)無し。一切の二辺、妄りに自から斟酌す。夢幻空華、何ぞ把捉(はしゃく)に労せん。得失是非、一時に放却せよ。眼若し睡らざれば、諸夢自(おのず)から除く。心若し異ならざれば、万法一如なり。一如体玄なり、兀爾(こつじ)として縁を忘ず。萬法斉しく観ずれば、帰復(きぶく)自然なり。其(そ)の所以を泯じて、方比すべからず。
(6)動を止むるに動無く、止を動ずるに止無し。両既に成らず、一何ぞ爾(しか)ること有らん。究境窮極(くきょうきゅうきょく)、軌則を存せず。契心(かいしん)平等なれば、所作倶に息(や)む。狐疑淨盡(こぎじょうじん)して、正信調直(ちょうじき)なり。一切留らず、記憶す可きこと無し。虚明自照(こめいじしょう)、心力を労せざれ。非思量の処、識情測り難し。真如法界、他無く自無し。急に相応せんと要せば、唯不二と言う。不二なれば皆同じ、包容せずと言うこと無し。十方の智者、皆此宗に入る。
(7)宗は促延(そくえん)に非ず、一念万年(いちねんばんねん)。在と不在と無く、十方目前。極小は大に同じく、境界を忘絶(もうぜつ)す。極大は小に同じく、辺表(へんぴょう)を見ず。有即ち是無、無即ち是有。若し是の如くならずんば、必ず守ることを須(もち)いざれ。一即一切、一切即一。但能く是くの如くならば、何ぞ不畢(ふひつ)を慮(おもんばか)らん。信心不二、不二信心、言語道断(ごんごどうだん)、去来今(きょらいこん)に非ず。

「主がモーセに命じられたようにミデアンびとと戦って、その男子をみな殺した。…[中略]…またイスラエルの人々はミデアンの女たちとその子供たちを捕虜にし、その家畜と、羊の群れと、貨財とをことごとく奪い取り、そのすまいのある町々と、その部落とを、ことごとく火で焼いた」(民数記31:7~10)

「あなたがたは女たちをみな生かしておいたのか。…[中略]…子供たちのうちの男の子をみな殺し、また男と寝て、男を知った女をみな殺しなさい。ただし、まだ男と寝ず、男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい」(民数記31:15~18)

「祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした」(ヨシュア記6:20~21)

「ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。ただし、その町の家畜および、ぶんどり品はイスラエルびとが自分たちの戦利品として取った。主がヨシュアに命じられた言葉にしたがったのである」(ヨシュア記8:26~27)

示して云く、大慧禪師、ある時尻に腫物出ぬれば、醫師此を見て大事の物なりと云ふ。慧の云く、大事の物ならば死ぬべきや否や。醫師云く、ほとんどあやふかるべし。慧の云く、若し死ぬべくんば彌よ坐禪すべしと云て、猶を強て坐しければ、其の腫物うみつぶれて別の事なかりき。古人の心かくのごとし。病をうけては彌よ坐禪せしなり。今の人病なふして坐禪ゆるくすべからず。病は心に隨て轉ずるかと覺ゆ。世間にしやくりする人に、虚言してわびつべき事を云つげぬれば、それをわびしつべき事に思ひ、心に入て陳ぜんとするほどに、忘れて其のしやくり留りぬ。我もそのかみ入宋の時、船中にて痢病せしに、惡風出來て船中さはぎける時、やまふ忘れて止りぬ。是を以て思ふに學道勤勞して他事を忘るれば、病も起るなじきかと覺るなり。(正法眼蔵随聞記5-16)

律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。(マタイによる福音書23-2~4)

大体いかなる師匠といえど凡夫であることには間違いはなく、完全者であるはずはないのであって、そんなこと初めから知ってかかるべきです。大切なことはこの「不完全者である師匠に、いかに完全なつき方をするか」を自己において修行することです。結局師につくということは、師をタタキ台として自己につくのです。(内山興正『発心して今から坊さんになりたい人へ』)

髄をうること、法をつたふること、必定して至誠(しじよう)により、信心によるなり。誠信(じようしん)ほかよりきたるあとなし、内よりいづる方なし。ただまさに法をおもくし、身をかろくするなり。世をのがれ、道をすみかとするなり。いささかも身をかへりみること、法よりおもきには、法つたはれず、道うることなし。―『正法眼蔵・礼拝得髄』

白隠禅師坐禅和讃:衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ たとえば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず…

色 即 是 空、     空 即 是 色。
私は命に生かされて生き、 この命を私が生かせて生きている。
色 → 有・一切・万法・氷・衆生・生死・私・自ら  ・する     
空 → 無・一 ・自己・水・仏 ・涅槃・命・自ずから・させていただく

1998年のANTAIJI&本堂回り、2017年11月19日

先代住職、宮浦信雄老師のころの安泰寺:

それより数年前の画像:1995年の安泰寺

11月24日、NHKのBS2に出演します。:よみがえる雪舟の名画

2013年の安泰寺、1月2日から映画館でご覧になれます:

silentvoice.or.jp/works/zenfornothing/

映画『Zen for Nothing』〜何でもない禅〜 の予告編 & 安泰寺の秋の作務、2017年11月10日

内山興正老師の御提唱

安泰寺の六代目住職、内山興正老師の多くの御提唱をYoutubeにアップしました:

youtube.com/user/sendaba/videos

安泰寺を引退した後に、京都・大阪や信州で提唱された「正法眼蔵」が中心ですが、最初の方にはこちらのお話をおすすめ致します: