あなたは何をしに来るのか

 安泰寺は真面目な求道者の集まる叢林です。優雅な遁世者の生活では、決してありません。癒しを期待していても、そういったものは皆無です。

 一日の二十四時間は修行です。修行とはすなわち、あなたが菩薩として生きることです。そのためには、なにも安泰寺のような厳しい環境で生活をする必要はないのです。世間でも、菩薩行の実践はできます。しかし、ここで集う修行者はいったん世間を離れて、三年以上は師匠について、また修行仲間に切磋琢磨されながら坐禅と作務に没頭します。そのために他の修行者との和合を狙うのは勿論ですが、人助けされたりはしないので、自分の修行を自分がしなければなりません。

 安泰寺の生活において、いちばん大事なことは、仏道を自分に引き寄せるのではなく、自分の身をも、自分の思いをも、すべて仏道の方へ投げ入れることです。そのためには先ず自分は何のために来ようとしているのか、ここで何をしようとしているのか、を本人がハッキリと自覚することです。

 あなたが今生きているこの瞬間の命のほかに期待するものが一つでもあれば、必ず失望するでしょう。

 安泰寺では年間を通して、一日一日を坐禅を中心として生活をしています。檀家を持たず、儀式や読経も最低限にとどめております。そのかわりに、自給自足に伴う農作業に労力を注いでいます。私たちの修行のモットーは「一日不作 一日不食」(一日なさざれば、一日食らわず)です。作務(労働)と食事は密接に関わり合って、私たちの働きは大いなる自然の命に基づき、またそれを育むものです。

 この生活は私たちが頭の中で描く理想を追い求めるものであってはならず、日々の生活の基本的な態度が行動として現れる修行でなければならないのです。だから夏は汗と泥にまみれ、雪の積もる厳しい冬にも耐えるという心の革命を自分たちが起こした、と実感できるのではないでしょうか。これは禁欲的な苦行ではなく、長い年月を必要とする純粋で本来あるべき禅の修行なのです。

 日常の作務では農作業がかなりの割合を占めます。安泰寺は50ヘクタールの土地を所有し、その土地で野菜やお米をつくっています。料理は薪を燃やして行います。薪は周りの山から集められた木を修行者が自分たちで割ります。しかし、自給自足はそれ自体が目標ではなく、単に坐禅の修行を支えるためのものです。坐禅をして、何にあるか? 坐禅をしても何にもなりません! 利益なしの坐禅、悟りと一つになるという坐禅をここでは実践しています。