【帰命】
・・・よく見、よく聞き、ハッキリと言え・・・
〜8月号〜

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3つの問い
(大人の修行 その16)
次の何ヶ月かにわたって、今度は正身端坐の坐禅について課題を言及していきたいと思います。まず去年メールで問い合わせがあった3つの質問から始めようと思います。その質問というのは、

1.坐蒲の上でどう坐禅をし、またどうやって呼吸をすべきか。
2.坐禅以外のときは何をしたらよいか。どのように心を集中したらよいのだろうか。
3.足のカタイ人はどのように坐禅をしたらよいか。
ということでした。 つまりは、私たちはいかにして心と体で修行ができるのかということです。

それでは1つ目の質問からみることにしましょう。

問:「坐禅の間、呼吸を見る時(随息観)にはどのくらいそれに集中したらよいのだろうか?つまり、どれほどの注意を呼吸にはらうべきか。私の場合は、なにはともあれ呼吸に全神経を集中すると、眠りそうになってしまう。逆に、呼吸とある程度の距離をおいて観察し、同時に今ここで自分の周りに何が起こっているのかということにも気づいている時、雑念がわいてくる。それらの釣り合いが取れるというコツはあるのだろうか。」

答: 呼吸に関していえば、様々な見方があるといえます。

坐禅儀では、道元禅師は姿勢について事細かな説明をされたあと、簡潔に「かくのごとく身心をととのへて、欠氣一息あるべし。兀兀と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禪の法術なり。」とあります。 「欠氣一息あるべし」という言葉以外には呼吸についてはなにも触れていません。普勸坐禪儀においては 「鼻息微かに通じ」と、もう少し詳しく書かれています。

しかし私たちにはこれだけでは物足りないものです。

坐禅においてどう呼吸をすべきか。呼吸に集中すべきなのか。それとも他の事に集中しなければならないのか。どうすれば三昧に入ることはできるのか。非思量ということとははっきり言えばどういうことなのか。どうしてもこれらのことが知りたくなります。

道元禅師はこのことには触れていません。坐禅儀での彼の具体的な教えの中心となるのは身体の姿勢のみです。

それでは私たちの日ごろの坐禅と言えばどんなものでしょうか。痛みと眠たさ、怠さ、退屈、煩悩・妄想・無明、欲望と執着が迫り、イライラ、クヨクヨ、と心が落ち着かなかったり、また沈んだりすることは多いでしょう。

たいていはこれらの感情は2つに分類されます。ふらふらしたり眠くなったりすると、坐禅する元気もなくこれ以上続けられないという気分になります。一方、欲求や怒り、いろいろ考えたりすると、今は坐禅している場合などではないと坐蒲から飛び下りたくなります。道元禅師はこのことにあまり触れていないためか、瑩山禅師は坐禅用心記で以下のように記しています(現代語訳)。

「坐禅をしているときに、身体というものは熱くなったり冷たくなったり、不快をかんじたり快適であったりする。時々堅いような、ゆるいような、時々重いような、軽いような、時々はっと目覚めさせるようなものである。それは整えるべき呼吸が整っていないからである。呼吸の整え方は、以下のことに従えばよい。口を開け、呼吸をなすがままにする。長い息は長いまま、短い息は短いままに。そのうちに整うはずなのだから。それに従えば意識がはっきりとし、呼吸も整うものである。そのあとは息を鼻腔を通してなされるべきである。

心は沈んだり浮いたりしている。だらーっとしたりしゃきっとしたりもする。壁の向こう側にあるものが見えるような気がしたり、身体の中をレントゲン撮影で見えるような気分でいたり、仏・菩薩が見えるような気分になったり、仏典が解る気になったりする。このような精神異常なことは呼吸と精神の調和の逸脱によって起こりうることなのである。

このような時、腹に心を置いて坐禅すればよい。心が沈んだ時には頭のてっぺんに心を置く。悩んだり、落ち着かなければ鼻の頭や下腹に心を置く。もしくは左手のひらに心を置く。長時間坐禅すると、心を無理に静めようと思わなくても、自然と落ち着くだろう。」

瑩山禅師は呼吸についてより詳しく触れていますが、基本的には、始めに呼吸にしたがっていけばそのうち自然と整うと言っています。道元禅師は心の置き場所については触れていませんが、瑩山禅師は左手のひらに置けばよいとしています。しかし眠くなったときには意識を頭のてっぺんや鼻の頭などの上部に置こうとすべきであり、一方たえず湧き出る考えに悩んだときには下腹や足などの下部におくべきだと言っています。私が思うに、意識を持ち上げればエネルギーが湧き出て、はっとし、下ろせば落ち着かせるのではないかということです。呼吸に集中するということも同様に落ち着かせるひとつの手だといえると思います。 (続く)


風のことば
 10年の歳月が流れていた。初めて安泰寺を訪れてから。私は既に、頭髪に白いものが目立つ年に達してしまったが、ここから眺める風景は、全くといっていい程変わっていなかった。そして山懐に漂う静寂も以前と同質のものだ。ちょうど摺鉢の底に建てられているような伽藍から周囲を見渡せば、少しばかりの針葉樹を除いて、枝を伸ばした雑木が、山腹から稜線迄を隙間なく埋めている。ヒノキ、杉、松、銀杏、欅、樅、白樺、ミズナラ、合歓の木、柿や栗など、多種多様である。他にもどんな樹があるのか、一度足を踏み入れて確かめてみたいものだ。ところで山陰地方特有の気象条件と蒙る冬季は、吹雪や荒天がめずらしくないのだろうが、盛夏を迎えるこの時期にも、山颪や開けた西側の谷間から吹き上げてくる風があるのに気づいた。そうした風は樹々の幹や梢を揺るがして、葉擦れの音を誘い出す。耳を澄まして乱舞して流れ去る風の音を聞くのは心地よく楽しい。だが誰にとっても耐え難く、つらい風がある。無常という一瞬も止むことのない風は、我々の生滅を翻弄し、しらぬ間に虚空へと追い立てつづける。常に悔恨にあえでいる私は、およそ詩心などもたぬが、時折胸間をよぎる一節がある。
 「吹き来たる風がいふ。『ああ、お前はいったい何をしてきたのだと』」
(隈井)


翅蛙
人を嫌う。憎む。しかしどうしてもその相手と接触しなければならない時もある。人生そういう時もある。そういう時にどうするか。標的を無視する。恥をかかせる。人によって対処の仕方は違うと思うがその行為は第3者に伝わるものである。人は自分が思っている以上に自分のことを観察していたりするものだから。その結果。結局その行為は自分にはねかえるわけで、人は自分を哀れみ辱めるのではないかと思う。これは私が結構まぁまぁ最近に身近で起こったことなのであるが、その舞台はとある結婚式であった。花嫁は純白の衣装に身を包み、きれいに化粧をして瞳をきらきらさせていたに違いないが、そのオメデタイ場でその類の行動をとってしまった。まったくそれと関係のない人にも残念なことにその空気が伝わり、オメデトウという人々の目には祝福というよりも哀れみの色が出ていただろう。
(トモミ)



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