セシルは今


時には早く寝るのもいい
たとえそれが土曜日の夜でも
誰も食事に誘ってくれなくて
夕方まで電話のベルを気にしても
洗ったばかりの髪を櫛ながら
鏡の自分に強がってみても
胸の開いたドレスはまだ壁に掛かったまま
わざとスリッパをパタパタさせて
飲みたくもないコーヒーを入れてみても
マガジンを開いていても
いつもドアのノックを気にしている
ネオンの入った宵の街
窓を閉めカーテンを引いてみても
車の音のするたびにそっと開いてみる
静かな部屋の中に時計だけが動いている
そっと電話に手を伸ばしてみても
あての無いむなしさだけが手を止める


時には早くベットに入るのもいい
たとえそれが眠たいからではなくても
くやしさばかりが込み上げてきても
枕を涙が濡らしてもいい
天井を見つめ来ない男を嫉妬してもいい
街のざわめきを遠くに聞きながら
やるせない自分を思って身を震わせ
悶えるのもいい
酔わないでベットに入るのもいい
靴を揃えてストッキングもたたんで
糊の利いたリンネンが肌にゴワゴワする
楽しかった時を思い出してみても
けんかした時を思い出してみても
一人寝の寂しさを味わうのもいい
口紅を拭いて化粧を落とし
鏡に向かって語りかけるのもいい
忘れた自分がそこにあるから
何も言わない自分がそこにあるから
時の過ぎゆくのが遅く感じられても
ただその中にじっと潜んでいる


時には眠れぬ夜を過すのもいい
たとえそれが孤独に打ち拉がれていても
明かりを消して
闇の中にじっと目を凝らしてみても
大きく肩で息をついても
タバコの煙に窓ののネオンが映って
ゆっくりと棚引いている
今頃どうしているのだろう
薄情な男達は愉快に語っているだろう
ちやほやされた女達は得意げに踊っているだろう
それが何だ
口惜しさに体が震えて胸が高鳴っても
いない男の方にそっと手を伸ばしてみても
夜は何も言わない
一人の夜はただ黙っている
泣き崩れて声も無く疲れても
ただ時は過ぎてゆく狂いなく
本当の自分がそこにある
始めて分る自分が闇の中にいる


時にはベットで泣くのもいい
たとえそれが声にならなくとも
馬鹿な自分がおかしくなって
突然笑い出してそれが涙に変っても
一人で泣くのはいい
本当の涙がある
男に見せた事の無い涙がある
深い深い海の底にいるような
沈黙の中にあって
ただその静けさに身を委ねている
酒も男も昨夜の事もみんな嘘に思えても
今の静けさに呼吸をする
明日はまたいい日が来ると思っている
目を閉じてそっと爪を噛んでみても
涙で濡れた髪の毛を指でカールしてみても
ほてった乳房に冷たいシーツが心地よい
こんな夜があったろうか
時には早く寝るのもいい
時には眠れぬ夜を過ごすのもいい
時にはベットで泣くのもいい


時には早く目を覚ますのもいい
たとえ何をすることが無くても
まだ開けやらぬ時の中で
間の抜けたほととぎすの声にだまされても
有明の月の光に朝を間違えても
夢とうつつの中に朝は明けてゆく
静かに移りゆく時の中で
呼吸をする自分だけがそこにいる
冴え渡った頭の中にそよ風が吹いている
何もかも新しい新しい世界がある
星が一つまた一つ消えていっても
コバルトの空にエメラルドが溶けこんで
ちぎれ雲が突然朝日に輝いても
今に優る朝は無い
深い安らぎの中で心地よい温かさの中で
力いっぱい腕を伸ばして背伸びをする
私の何と大人びたことだろう
もう何もいらない
この朝の空気と
満ち足りた私の心だけ


時には早く目を覚ますのもいい
たとえそれが雨の朝であっても
しっとりと濡れたマロニエの葉の雫も
窓ガラスを伝い落ちるストライプの雨も
霧雨の中に煙る楡のシルエットも
乾いた大地を潤すように
私の心を満たしてくれる
もう何もいらない
この朝の潤いと
満ち足りた私の心だけ
時には早く起きるのもいい
たとえそれが日曜日の朝であっても
何もする事がなくても
決して急がない時がある
服も着けず結ばない髪のままでいい
化粧をしない自分をそっと覗いてみる
昨日までの疲れた荒れた自分がそこにある
素肌の自分がある
見た事の無い本当の自分がのぞいている
こんな美しい私があったろうか


時には過去を振り返るのもいい
たとえそれがどうにもならない事でも
昔い手紙を出して読んでみても
アルバムをめくりながら
色あせた思い出を追ってみても
そこには最早私は無い
今の私の中に思い出があるだけだ
始めてタバコを吸った頃の顔がある
胸の脹らみに始めて気ずいた時も
更けゆく秋の灯の下で
相手のいない手紙を書いては捨てたのも
いつの間にかこんな私になってしまった
今の私の何と変ったことだろう
マニュキュアを落とした指先を
始めて見る物のように眺めてみる
何人の男が通り過ぎていったのだろう
風のように
去った時がある今の私の時の中に
思い出の中に今私はいる
過去を見つめている私が時の中にある


時には明日を考えるのもいい
たとえそれが無駄に思えても
新しいドレスに手を通してみても
ヘアスタイルを変えてみても
ハンドバックの中を整理してみるのも
口紅を変えてみるのもいい
皆んな明日のことだから
今日の次には明日があるのだから
昨日もまた明日があったように
私にもまた明日があるのだろうから
明日の私はまた新しい私だろう
旅人が見知らぬ街に入っていくように
時の中を歩んでゆく私がある
出合いもある
別れもある
昨日の私に出合ったように
今私は明日の私に出合っている
セシルは今、出合っている何かに
セシルは今、感じている何かを