孝二


 「他人の不幸を見たら喜び
  他人の幸福を見たら羨む
  人間なんてそんなもんよ」
 孝二の言葉である。
 もう一昔にもなる、私が旅をしていた頃、ニューヨークに着いた夜泊まる宿も見つからず、うろうろしていた時に声をかけてひろってくれた日本人だ。
 彼は鳥取生まれで中学を出て大阪に就職し町工場で働いていたが、ある日突然世の無常を悟って浮世を捨てた、十八歳の時だったらしい。こう言えば聞こえは良いのだが、彼の場合は仏道に入ったのではなく、早い話が、あんちゃんになったのである。それも何とか組のチンピラではなくて一人漂泊う野良犬みたいなものである。
 それ以来世界中を流れ流れてニューヨークにまで来ていた。
 当時私は二十二歳、孝二は二十一歳くらいだったと思う。その夜私が連れて行かれた所は薄汚いボロボロのホテルで、ニューヨークの真ん中にもこんな所があるのかと疑う程の酷さだった。ドアを開けると中に四・五人の若い日本人が屯してポーカーをしていた。孝二は私を紹介してくれた。
 「こいつ今夜フランクフルトから着いたばかりや、当分ここに泊めるで。仕事したい言うとるさかいどっかないやろうか。えーとベットが一つ足らへんな。おい博、あそこの変態の部屋からかっぱらってこいや。晩飯食べに連れていったってくれ。俺今から仕事いかなあかんしな。二時頃チャイナタウンに行っとるさかい一眠りしたら来えへんか面白いで。」
 こんなひょっとした事がきっかけで、孝二との半年程の生活が始まった。その生活たるや当時まだまだ初だった私にはショックの連続であった。
 私がなぜこんな事を書こうかと思ったのは孝二という人間のもつ味がこうして年を重ねるにつれて鮮やかになってくるからである。
 彼は世間で言う悪い事はすべて進んでやっていた。仕事は皿洗いやウェイターをしたり一応まともにしていたが、それも店の金には手をつけるし、品物は横流しするし、まあ考えられる事は(私にはとても考えつかなかった事も)すべてに及んでいた。女は買うしまた女と客の斡旋もするし。博打場は行かれるところはすべて(上流階級の遊び場には彼の品位ではとうてい出入り出来そうでなかったから)知っていた。中でも一番の気に入りはチャイナタウンのセブンポーカーであった。中国人が胴元で東南アジア人だけが入ることが出来た。彼の言うには、「あのカードをめくる時の汗びっしょりになって震えながら、金とカードを見つめる真剣さがたまらんさかいや。」事実私も何度か連れて行ってもらったが彼の言葉は誇張ではなかった。中国人は本質的に賭事が好きなのか、あの汚い地下室の汗臭さとたばこの煙の中、上半身裸になってカードの動くたびに一喜一憂する様はこの世のものとは思えぬ凄まじさだった。
 そんな夜明け方にはよく私の寝ている部屋に戻ってきて、灯りもつけずにベットに入ってから、「ああまたやられてしもうた。あのカードのめくりの女はええ女やろ、昼間何やっとんにゃろな、でも俺がスッテンテンになっとんのに帰りの電車賃もくれよらへん、胴元に五十セントもらった時はみじめやった。腹減った。もうコーヒー屋開いとるなあ行こうか、俺に一ドル借してくれな。」
 こんな人間だったが任侠の世界とはそんなものなのか義理固く人情に脆いところは講談の世界を地でいくようなものだった。
 例えば他人に一ドルでも借りたときは数日後にはちゃんと返すし、私が他の人に貸した金も私は何も言わないのに返済日を過ぎるとちゃんと強請って取ってくる。自分は金が無くても仲間が困っていると、どこから都合をつけてきたのか五百ドルくらいの大金も(当時の彼の一ヶ月の給料)ポイとやる。初対面の人間にでもそうである。他人が仕事が無いといえば自分はわざと勤め先の店のおやじとけんかして飛び出し、その後釜に入れてやって自分はまた別の仕事を探してうろうろしている。昼飯を食う金もなく腹を空かして帰ってきても、屯している我々に向かって、「おまえらまた俺の困っているのを見て喜んどんだろ。は、は、は、俺もそうだもんね。もっと悟っとるもんね。まあいっちょパァといこうか。」
 そう言いながらポケットからL・S・Dを出して我々にも配りながら、本人はもうその気で騒いでいる。彼が薬を飲んだ時はいつも笑い出し、笑いころげる。そして足腰が立たなくなって一日中ベットの足にしがみついて笑いころげているのである。
 何も私は孝二の此様な生き方を肯定する訳ではない。しかし彼は何か憎めない、不思議な魅力の持ち主だった。別に世の中をすねて生きているわけではない。かといって自分の本心の逆らってわざと馬鹿になっているわけでもない、人情ものの話にある国定忠治の様に弱きを助け強気をくじく熱血漢でもない。
 今だに私には彼が理解出来ない。いくら彼が好んで悪事を働いていてもそれが私には憎めないのである。
 「他人の不幸を見たら喜び
  他人の幸福を見たら羨む
  人間なんてそんなもんよ」
 今私がこれを文字として此処にこう書いただけでは孝二のその場その時々に口から出た生の言葉ではなく死んだものになってうまく表現出来ないのだが、彼がそういう時は何か、人間という生き物の持っているどうしようもない底の底を見抜いてしまったあげくに発せられる言葉なのである。
 当時二十余才であった孝二に、禅僧の境界と同じような所から出てきた行為とは思えないが、彼の生き方にはどこかそんな味があった。
 禅の語録で言われる風?とか風狂と呼ばれる人々もこんな感じであったのかも知れない。彼らが伝統的・形式的になってきた仏教や禅に抗して生まれてきた様に、孝二もまた今日の管理社会の中にあってその体制を鋭く感じ取り、自分にもよく分らないままにそれを身をもって批判していたのかも知れない。
 体制の中に生きるという事は、その世界の中に善いとか悪いとか、上とか下とか、表とか裏とかの差別や規準を求める事である。
 しかし人間の生き方の規準は人それぞれの見方であり、時と場所によって変わる、言わばその場限りのものである。それが固定してしまうと仏教で言われる『小乗の持戒は大乗の破壊』と同じになってしまうのである。
 しかし体制のぬるま湯に長く浸かっているとその事が分らなくなって、いわゆるの既成の概念に支配されてしまって、一日一日、その時その時に出合うごくあたりまえの感激を忘れてしまうのである。
 私がニューヨークを去る時、タイムズスクエアの人混みを歩きながら孝二は言った、
 「じゃまた。おまえひとに金貸してないやろな。」
 この言葉は公案となって今も私の中に残っている。

       昭和五十六年十一月二十日。
       安泰寺文集に書き下ろす。