一つの月


 「人間ていいなあ…、そう思わないか」。老いた犬はチビに向って独り言の様につぶやいた。
 あたかも中天には中秋の月がかかり森羅万象音もなくその光に酔っていた。草木に宿る玉露のその一つ一つにも月は現われて、三千大千世界一果明珠を程していた。二匹の犬は干草の中に身を横たえて月を見ていた。
 「人間になれたらなあ」。老いた犬は思惑げにいった。
 「爺っつあん今夜はどうにかしてるぜ、何を寝ぼけた事を言ってんだよ。人間になんてなれっこねえだろ、でえいちあんなもんになれたって俺にゃまっぴら御免だよ、見てみなよ毎日毎日わけのわからない事に血相変えてあっちへチョロチョロこっちへセカセカ、あげくの果ては困った行き詰ったと悩んでみたり、ちょっとのことで喜んでバカ騒ぎしてみたりまったく気違いー」。
 「いやまあ、わしの話を聞いてくれ。わしの主人はあの月を見ていつも『美しい』て言うんだ」。
 「なんでい、その美しいてえのは」。
 「わしにも良く分らないんだが、何かいいことらしいんだ」。
 「いいこと、そんな事なら別に人間にならなくても俺たちだってあるじゃねえか。今夜のめしゃうまかったじゃねえか。久しぶりに肉汁が入ってたし、それも骨付きのよお、あの歯にカリッとくるのがたまんねえ、ぶっかけめしてえやつはどうもいけねえやな」。
 「わしの言ういい事とは食い物じゃないんだよ、だって月が食べられるわけないだろ。月だけじゃないぜ、主人は花を見ても美しいって言うし、山に向ってきれいというんだ。その時は本当に喜しそうになるんだ。わしは長年いっしょにいるので主人の気持はすぐわかるんだ。美しいというのは何かわしらに見えないものが人間の中に飛び込んで気持ちよくさせるらしいんだな」。
 「ふーん、俺たちに見えないものか、そりゃ初耳だ。俺たちだって月は見えるのに人間だけに見えるものがあるてえのけ」。
 「いや目に見えるものだけじゃないよ、主人は雨の音を聞いても美しいと言うし、海風に乗って来る汐の匂いさえいいと言うんだ。だからわしらには分らない何かが人間の中に入っていくんだとわしは思うんだよ」。
 「なんでえ見えるのも聞こえるのも匂いだって皆俺たちだって同じじゃねえか、匂いなんか俺たちの方がもっと分かるてえもんだ」。
 「いやそうじゃないんだ、見聞きも匂いもわしらと同じなんだがその次に何かが伝わるんだ。例えばほれわしがさっき言ったろ、主人の気持が分かるってお前とわしだってそうじゃないか、わしの気持が分かるだろう、それと同じように何かが伝わって気持ちよくなるんだ、それが人間に美しいって言わせるんだ」。
 「ふんふん、だんだん分かってきた。つまり何かが伝わって気持ちよくなるのが美しいんだな」。
 「どうもそうらしいんだ」。
 「わかった。おい爺っつあん、俺今まで黙ってたんだけどよ、実はタバコ屋のスピッツ知ってるだろ、ジュンてんだ、あれ此頃感じるんだよな、あれ美しいって言うんだろ。ジュンを見ると俺はいつも気持いいんだ、ところが鎖に繋がれてて近づけないんだよな、どこかデートに行きたいんだがよ」。
 「お前バカじゃないのか、あんなスピッツのどこがいいんだ。目だけギョロッとしておまけにつんとすまして紅い首飾なんかちらつかせて俺りゃ嘔けをもよおすね」。
 「爺っつあん、分かってねえな、古くさいんだよ。古いの爺っつあんは。あのすんなりとしてくるっとした目がいいんだよ、ああいうのが今イッていうんだ」。
 「何が今イだ、やめたほうがいい。あの娘には近づかぬほうがいい」。
 「てやんでえ、爺っつあんちっともー」。
 「おい待てよ、おかしいなわしら何の話をしてたんだっけ。別にけんかになるような事やってなかったはずだ」。
 「爺っつあんが悪いんだぜ、俺がジュンが美しいと言った途端にバカ呼ばわりしたじゃねえか、たくもう、もうろくしちまって」。
 「そうだったな、ジュンが美しいか。ちょっと違うんだな。お前はジュンが美しいという、わしはそうじゃないと思う。となるとわしらの思っている美しいというのは人間の言う美しいとは違うな。だって同じものがお前に美しくて俺にはそうじゃない…。また分からなくなってきたぞ。やっぱりわしらには美しいことが分からないのかな」。
 老いた犬はもう一度確かめるように中天の月を見上げながら呟いた。そんな犬の気持など意に介さぬかの様に月は只己が光を静かに投げかけていた。
 しばらく考え込んでいたが何を気がついたか老いた犬はまた語り始めた。
 「そう言えば人間だってあの月を見ていつも美しいとは言わなかったなあ。いつだったかタバコ屋の婆さんが夜中に外に出て月を見ながら泣いていたな『あんたが戦死してから何十年たったかねえ、今生きていてくれたらねえ、はじめてあんたと連添った夜も月夜だった。あの夜はきれいだった。今でもはっきり覚えてるよ』言いながらそりゃ悲しそうだった。わしにはいつも同じ月なんだが人間はあの月を見ても楽しい時とか悲しい時とか色々あるらしいんだ」。
 「それじゃあの月が変わるとでも思うかい」。
 「いやその上にもう一つ分からないのは、同じ夜の月を見てもある人間は楽しかったり美しかったりするかと思えばある人はそうは思わないんだな。以前タバコ屋の婆さんは、月を見上げて『まあいいお月さんだこと、今日は兔の餅つきがほんとに良く見える』て言ったんだが、そのすぐ後を通りかかった川下のおやじ、ほれたまに夜来てわしらにアンパンほうり投げて通る、あのおやじは月を見ながら『あーあ今夜はやけに月が明けえぜ、これじゃ商売にならしねえ、酒でもかっ食って寝るとするか、ちっ、いまいましい月め』なんてボヤきながら帰っていった」。
 「それじゃ同じ月を見ながら見る人間によって美しい月といまいましい月があるわけだ、ちょうど爺っつあんと俺がタバコ屋のジュンを見る見方が違うのと同じなんだな。じゃいってえどの月が美しいんでい。」
 「それが分かりゃ苦労しないさ、だから色々考えてるんだ、初めから言ってるだろ、人間になりたいって。人間になって『美しい月』を見たいんだよ」。
 「爺っつあんのそこが分かんねえんだよ、何も無理をして食えもしねえ月なんか、どうだっていいじゃねえか、あんなモノ出たり入ったりするだけで俺にゃ関係ねえぜ、ジュンの方がよっぽど気にならあ」。
 「じゃあ、お前月の美しさが分かりたくないかい」。
 「ジュンは美しいぜ」。
 「食う事と色気はわしだって感じるさ、しかし食えない月や山が美しいと感じられないのが残念なんだよ。そりゃ人間にだってわしらと同じように我と欲で月を見るから悲しい月やら楽しい月があるんだが、わしの主人の見る月はいつも美しいんだ。理由がないんだ。月から何かが主人に伝わるんだ、直接伝わって間に何もじゃまなものがないんだ。わしらはどうもその伝わるものをどこかでさえ切っているんだ。だから食い物を見る時は感じるが食えない月は感じられないんだ」。
 「爺っつあんいやに理屈っぽいじゃねえか、こんなにいい月夜が台無しになっちまうぜ」。
 「む…むーん」。