一本松地蔵


 昔々、私たちの曾祖父さんがまだ子供だった頃のお話であります。


 もう少し西に傾いた日射しが松が枝を通して峠の地蔵様を黄金色に染めておりました。雲一つ無い空に鳶が弧を描いて、時折ビィーッと鳴きながら峠を越える風と戯れて、それはそれは長閑な晩秋の昼下りでありました。
 と、突然その静けさを破って一人の男が秋草をガサゴソ掻き分けながら山路を這い登ってきました。麗村の佐吉であります。碌に仕事をするのでもなく、毎日遊びほうけては、ならず者扱いされている男でありました。
 見れば着物はズタズタで体中傷だらけであります。ようやく地獄から這い出したかの様に口をパクパク喘がせながら、旨そうに峠の風を吸い込みながら、
 「ヒイ、ハア、ハァ、フー、畜生、あの野郎共、お、覚えてやがれ、只じゃ済ませねえぞ、フェー、あ痛たたっ。 よくもこんなにしやがったな。糞ー、何も如何様がばれたくれえで、畜生、こんなにまで派手にしやがらなく、あ痛たたっ。」
 松の幹によろけ掛かりながらやっと身を支え、苦々しげに今来た方を振り返ってペッと唾を飛ばしました。
 「此処までは彼奴も追っては来まい、へへへ、ヘァッハハハハッ馬鹿め、今日は少し高くついたが頂くものはちゃんと、ほれ此の下帯の中に…、あ、れ、無い、あっ、あっ、糞ー、落としやがったあー。」
 佐吉は狂った様に体中を掻き毟りながら、如何様博打でせしめた四十文許り入っていた巾着を捜しますが、巾着どころか煙管や煙草入れまでありません。ボロ切れになった着物がやっと帯で体に巻き付けられているだけであります。
 「此の野郎此の野郎、糞ー。」
 今度は自分の愚かさと怒りを打ちまける様に手当たり次第に小石を拾っては其処何処に投げ散らし始めました。それに驚かされた鳶が一声高くピァーヒャハハハー、と嘲笑いながら飛び去りました。
 そのうちに自分の馬鹿さ加減にも飽きたのか、穴の開いた風船が凋む様にヘナヘナと松の根元に沈んでしまいました。もうこうなっては弱い者です。先程までの空威張りは何処へやら。ポカンと口を開いて虚に空を睨んでいます。そんな佐吉の心の内など知らぬげにお地蔵様に松の陰を着せた秋の陽は刻一刻と西に落ちてゆきます。

 しばらくして、ふと我に返った佐吉は、お地蔵様にお供えされているみかんに目が止まりました。
 「あーあ、此れでも喰うか喉が渇いちまった。ったく付いてねえや。」
 呟きながら鷲掴みみかんを取るや、皮を剥くのも忙しげに口に放り込みます。
 「ヒェー冷てえ、生き返ったぜ、フー。」 言いながらブルッと身振るいを一つしましたがその途端に忘れていた体中の傷の痛みに気付いて、またもや地獄に逆戻りであります。
 此の糞、と言うなり食べ終わったみかんの皮をお地蔵様に投げ付けました。

 まったく勝手な者で、自分の作り出した業に自分で怒ったり、泣いたり笑ったり、忙しい事でございます。
 そんな佐吉をじっと見守っていましたお地蔵様は、みかんの皮を投げ付けられ些かムッといたしました。
 「これこれ佐吉、お前は私に供えて下さった物を、頂きます、とも言わずに取って食べながらその上皮を投げつけるとは何事じゃ。」
 「だ、誰だ。」
 佐吉はびっくり仰天して二尺程も飛び上がったかと思うと松の木を背にして身構えます。が、見回しても誰も居るはずがありません。落日に映える芒が風になびいているだけであります。
 「佐吉よ、お前は忙しいのう、先程から泣いたり笑ったり、幾ら六道に輪廻すると言えども何もそんなに慌てて一人芝居をする事はないぞよ。幸い今日は天気も良いし、此のお天道様の暖かさがお前には伝わらぬか。」
 「だ、誰だ。出て来い野郎、その地蔵の裏だな、俺を知ってるからにゃ此の辺の者だなやい、面見せやがれ。」
 「面見せろって言っても、先程からずっと見せているじゃないか、わしだよ、地蔵。」
 「なに地…うわ、わ、地、この石ころが口、ワッワワ、助けてくれー。」
 佐吉は金縛りにでも逢った様に仰天して、松の根元にズドンと腰を抜かしたままの目を白黒、口はパクパクしているだけであります。
 「お前の名前くらいわしにとっては何でも無い。名前だけではないぞよ、お前が此の世に生まれてからずっと、いや生まれるもっと以前から全部知っているぞ、お前は何でお前が此の世に生まれて来たか知らぬだろうが、しかしわしはちゃんと見守ってきたんだ、どうだ佐吉、今日はわしも退屈していた所だ、暫くわしに付き合わぬか。面白い話でも聞かせてやろう。」

 お地蔵様は腰を抜かした佐吉を前にして久し振りの話相手が出来たと思い、少し得意げに切り出しました。
 「お前はおっとうも、おっかあの顔も見た事も無いだろう。おっかあは死んでしまったが、おっとうはまだ此の世に居るぞ、もっとも、おっとうといってもただ一回お前のおっかあとまぐわって種を付けただけだから、おっとうと呼べたもんじゃあ無いし、本人もお前が実の息子だなんて今だに知らないがな。
 どうだい、こんな話を聞くのは始めてだろう、ハハハハハ。
 お前のおっかあはな、そりゃ悪い女だった。器量は良かったが色事が好きで村の男を次々と渡り歩いたり、一晩に何人もの若い衆に遊ばれたりしたもんだ。お前の種が入ったのもそんな時だった。その内に腹が膨れたが、誰が父御か分からない。仕方無しに隣村の叔母さん所へ預けられることになった。
 あの日も今日の様に良く晴れた秋の昼下りだった。おっかあは今にもお前を股の間から落っことしそうになりながら漸くこの峠を越えて来た。そして今お前が居る同じ所に倒れながらわしに言ったものだ。『お地蔵様、おらあ悪かっただ。』
 人間なんて、都合の良い者でな、普段はわしに屁を放り掛けて通り過ぎるくせに、いざ困ったら助けてくれと拝みよる。
 兔に角お前のおっかあもたった一度、その時は本心からわしに手を合わせていったもんだ、『此の子には罪はねえだ、皆んなおらが悪いだ、此の子だけは助けてやって下せえ。』
 そう言いながら坂を下る頃にはな、お前はおっかあの股間からこの世に片足突き出していたんだよ。逆子で難産だったが兎に角お前は出てきたが、おっかあは替わりにあの世へ行ってしまったぞ。」

 聞きながら佐吉は立ち上がろうとしましたが腰から下が別になった様で全然力が入りません。それでも漸く正気に戻って口だけは動くようになりました。
 「やい地蔵、出まかせにベラベラ喋りやがって、こんな山ん中に突っ立っててそんな事知れる訳ねえだろ。ったく。」
 「わしは何でも解るさ。わしにかかれば此の世の出来事なんぞ瞬きを一つする程度でしかないぞ。なんならお前の子供の頃も話してやろうか。それなら少しは覚えているだろうからな。
 親の因果が子に報いと言ってな、お前は生まれ落ちた時からどうしようもないやつじゃった。母のないお前に叔母さんはもらい乳をして村中巡ってな、そりゃ苦労したが、物心付く頃にはお前はその叔母さんを殴ったり蹴ったり、今の叔母さんが目が悪いのもその時の怪我が元なんだ。
 どうだ、覚えがあるだろう。以来此の方お前はまともな事の一つとしてしてきた事無かった此の世に人間として生まれるべきでなかったんだよ。しかし今そうして息があるのはどうしてだか分かるかな、それはな、お前のおっかあがわしの前に手を合わして、此の子に罪は無い、と言ったその時にお前は此の世に人間として生まれる事が決ったんだよ。生かされる事が決ったんだよ。
 それだけじゃ無いぞよ、おっかあが手を合わせた時にお前はある宝物をもらって此の世に出てきたんだ、今でも持ってるんだが、ハハハ、知らないだろう残念だな。」
 お地蔵様が此処まで言ったとき、佐吉は宝物と聞いて飛び上がりました。その拍子に抜けていた腰が元に戻りましたが、さあそれからが大変です。
 「お、お地蔵様、宝物って何んです、何処に有るんでしょう。私の物なんでしょう、教えて下さい、私が悪かった、あ、謝ります、ほれ此の通り…。」
 佐吉は言いながら土竜みたいに額で松葉を掻き分けながら躙り寄りました。
 「ハハハ、欲しいか、お前さえその気になれば何時でも教えてやるんだが。」
 「ほ、欲しい、下せえ。」
 「下さいといっても元々お前のものだからな、ただある所にしまってあるだけだが、その扉を開けるのがちと難しいでのう、鍵が掛かっておるで…。」
 「鍵は何処です。」
 「お前のその着物の胸の内、 お前毎日着物を着ているが何で着ているんだい、寒いからかな、なら夏の暑い時になんで褌しめているんだい、お前の宝物を落っことさないようにだろう。」
 佐吉はそれが何の意味かさっぱり分かりません。その上褌と聞いて先程落とした四十文を思い出しましたから、またまた頭に血が昇ってまいりました。
 「此の野郎人をさんざんおちょくりやがって、糞、これでも喰いやがれ。」
 言うが早いかお地蔵様に向って一物を出し
 「へへへ、ホラミロ、ホレホレ、ヘァハハハハ。」
 ところがちょうどお地蔵様の脇の下に巣を作っていた蜂にジャーとやったものですから大変です。
 「あた、いてててあち、助けてくで…。」
 坂道を転げ落ちてゆく佐吉でありました。

 静まり返った峠には真赤な夕日を浴びた一本松のお地蔵様が立っておりました。