日々是好


 「何若い女から電話、嘘だろ、もう私には何年も電話も手紙も来た事が無い。ましてや若い女などに私の名前が知られるはずが無い。此の山奥に引っ込んでいると世事にも疎くなるし、そんな遠い所の出来事はどうでも良くなる。そんな事に気を使っている暇もない。昨日蒔いた大根の種が無事芽を出すかどうか雨も此の二週間全然降らないし、カラスの野郎はせっかく実ったトマトを全部つついてしまうし、くそっー。
 (そうだ電話だった若い女から電話なのだ間違い電話でありませんように…)
 エヘン、アア、どなたでしょうか、私が信雄ですが、もしもし」
 「お久しぶりね、お元気ですか、あれから何年たったでしょうね。」
 「え、ええその節はどうもお世話にな。」
 「あら、少しお疲れのお声ですわね。」
 「いえ、ま、この所少し忙しいもんで、
 (いったい誰なのだろう、人違いでもなさそうだし聞き覚えの声でもあるし、こうなっては名前も聞きそびれてしまったし、女に心当りがある訳けでもないし、女と言えば大阪屋の娘を見たのが半月程前、農協の事務員に電話で話したのがえーと、ずっと前、その前は去年の夏に町へ出たときに見た。
 何しろこの山中だと、見えるものは山、それに囲まれた天井、その中を朝になると顔を出し、夕方には引っ込むお日様、相も変らず毎日丸い面で出たり入ったり、それも気まぐれで、照って欲しいと思っても雲に隠れてその上雨まで落としやがる、そうかと思うと此頃の様に毎日毎日ギラギラ馬鹿みたいに同じ面、ちっとは此ちらの事も考えてくれりゃ良さそうなものなのに。何とかあれを私の思い通りに、晴れたり雨を降らしたり自由にしてやるぞ、今に見ておれ。
 だいたい人間は自然と共に生きるとか、自然の一員などと言うやつは此こで大根の一本も育ててみてから言ってくれ、そのくせ森林欲だ、環境捕銭だと霞でも喰らって生きていられる様に思っている。ロミラールスミレックスロニラン、メルクデラン、DDVP、ダウレルダン、ジマンダイセン、サリチオンエチカン、オフナック、キノンドー、等々、分かるまい、此れらが何か深く考えたらとたんに食事も喉を通るまい。お天道様の御機嫌が良くない時にはこれらをたっぷりと大根様にお供えするのだ、大根様だけではない、キュウリ、トマト、ナス、ピーマン、茶、米、全部、そう全部に差し上げるのだ。
 そうだ電話だ、女の声だ、困ったぞ誰だろう。何処の女だろう。)
 あのう、今どちらからお電話かけておられるんですか、少し電話が遠いですね。」
 「あそう、いつもの所からですわ、貴方がお見えにならないので心配してお電話してみましたの。」
 「……(ますます困ったぞ、だいたい電話をする時には名前を先に告げるのが礼儀というもんだ、困った、なぜこんな時に突然電話なんかかかるんだ、女心と秋の空とはよく言ったものだ、女からの電話も嬉しいが、早くトマトに霞網をしなければカラスの野郎が全部喰っちまう。だいたいあのトマト一つ作るのにどれ程苦労したか、今年は春が遅く五月まで雪が残った、その雪の中で苗を育てては夜中に全部何物かに喰い荒され、やっと本葉が出たとたんに雨が続いて疫病で全滅してしまうし、何回も蒔き直し作り直しして苦労苦心の末にやっとのことで実の成る所まで漕ぎつけたら、待ってましたとばかりにカラスの野郎が、ああ、まだ人間様が試食もしていないというのに、くそったれ……、ライフルでも買って一羽残らずぶっ殺してやるぞ。人間様をこけにしおって。
 それよりも面白くないのは、この前の事であった。野鳥の会とか何とかいう連中が大勢のこのこ来て言うことにゃ『いや此処は鳥の極楽ですなあ、種類も豊富だ』なんて言いながら畑をさんざん踏み荒らしやがった。私は聞いてみた、カラスやハトスズメが作物を荒らして困っているのですが、何か退治する方法は無いですかと。奴子さん何とほざいたか、『方法はあるんですが教えると乱獲されますから』だと、カラスの先にこいつらをライフルで穴開けてやろうか。
 人間なんて勝手なもんだ、自分中心に世界が回っているのだから、スズメ一羽見ても、作物を荒らす憎っくきやつと思うものもいればやれ自然だ保護だとぬかすやつもいる。風流心で俳句でも作るのもいれば焼き鳥を思い浮かべるのもいる。自分に直接利害が関わらないものだから、殺生はいかんと最もらしい理屈をほざいてみたり。要するに対象を自分の都合の良いように見るのだからたまったものではない。これを主観の相違とかいうそうだ。
 だが今の私には理屈も俳句も用は無い。一羽でもぶっ殺してやりたい。神様、仏様、キリスト様もちょっと棚の上に行っててもらいます。神様を拝む先にまず腹ごしらえ、この一冬の食物をカラスちゃんやハトちゃんと仲良く別け合っていたのでは、私が仏様になってしまいますから。
 こんな今の私を笑う者は笑えば良い。笑いながら、農薬漬け、毒漬け食品をうまいありがたいと喰っていればいいのだ。そしてテレビでも見ながら、遠く離れた所で起こっている戦争を見ても、最早それに一時的にせよ心を動かす力も無い。それはテレビの画面の中での出来事であって痛くも痒くもない、対岸の火事だから大きければ大きい程面白い、また悲惨な程かわいそうと思う。これをあちゃら語でリビングルームクリティクスと言う。それは思いだけだから、画面が変って漫才でもやり出すと、そんなつい何分か前の悲しみはもう忘れてしまって、腹をかかえて笑っているのである。
 考えてみればこんな事は当然である。本人と直接関係のない事件に一々本気で拘わっていたら体がいくつ有っても間に合わない、笑ったり泣いたり怒ったり、それらが重なって笑いながら怒らねばならなくなったらもう気違いである。隣の子供が交通事故で死んでも、それに対する悲しみの涙は、我が子ではなくて良かったという安堵の涙であるのではなかろうか。
 此のように本気で思うのは自分を中心に妻子親兄弟くらいであろう。それからだんだん遠くなって隣の人、知人、知らない人になってくるともうどうでもよいのである。また現在を中心にして昨日、おととい、ずっと昔はもう関係無いのである。これだから世の中うまく回っているのである。
 『都会では自殺する若者が増えている、今朝来た新聞の片隅に書いていた、だけども問題は今日の雨傘が無い、行かなくちゃ君に逢いに行かなくちゃ、傘が無い。』そう、さしあたっての問題は、米国の大統領が誰になったかでは無い。ニカラグアの戦局でも、下の部落のばあさんが死んだ事でもない。宗門の一大もめ事でも道元禅師の坐禅がどうのこうのひねくり回している事でもない。カラスが、トマトが、大根が、ああお天道様、雨を降らせて下せえ……。
 さしあたって、そうださしあたっては、此の電話の主を確かめねば。)
 ……どうもどうも、私方はいたって元気でやっております。貴女はその後どうでしょうか、何か変ったニュースでもおありですか。」
 「別に変った事も御座居ませんわ、貴方に逢えないのが淋しくて、こうしてお電話いたしましたの。貴方がお忙しいのでしたら私から近いうちにおじゃましていいかしら。」
 「(ギョヘー、女が来る、逢いに来る。 こりゃ大変だ、トマトだの大根だのと言っておれなくなってきたぞ。何時来るのだろう、それまでに鬚でも剃っておかなければ、手も畑仕事で真黒、爪のあかもほじくっておかないと。私も名目は一応坊主だから、それらしき格好もしなければならぬ、と言っても此の日焼けした顔は今さら繕い様もないし、男は黙って只管打坐なんて力んでみても、身に付いてないからずっとこけるだけだし、ああどうしよう、忌わの際になって坐禅なんて屁のつっぱりにもならん。ああ、女、来る、来て欲しい、来たらどうしよう。ウワァー、ギャア……。)」
 「チーン、チーン」
 「(ハッ、何だ夢か)」