視点をどこに置くか


 中学生の頃だったか、地理で日本は極東に位置していると教わった時、私はそれが納得できなかった。世界地図を広げても日本は真中にあるし、まあアジア大陸の東の果てだからと片付けておいた。此の極東と言う事が成る程と肝に銘じたのは英国での事であった。英国の世界地図では日本はほんとに東の果て、右上にちょこんとあって注意して見ないと分からない程度に現されていた。つまり西洋人は自分を中心に据えて世界を見るし、日本人は日本を中心にしてそれを見ているのである。
 また何かの本で、スイスの地図は南が上で北が上に書き現されているとあった。つまり上下が逆、なぜかと言えばスイスという国は南にアルプス山脈があるので上といえばいつも南に感ずるのである。最っと面白いのはチベットである。彼らの地図は裏表が逆、言い換えれば普通の地図を裏側から太陽に透かして見たと同じ様に書かれているそうだ。これは彼らが高い山々に囲まれて生活しているので、どうしても谷底から上を見上げるという見方を反映しているという。もう一つ、ロシアの南下拡大と世界戦略についての本の中に、ロシア人の根底には彼らはいつも敵に囲まれているという不安があると述べて、その説明にロシアを中心に据えた世界地図を載せてあった。それを見ると成程、四面楚歌である。日頃ロシアは北の果てでその上は何もないと思っていたが、米国や英国がちょうど上に来るのである。
 なぜこんな話を持ち出したかと言えば、物の見方、発想と言うものは人それぞれに千差万別である事を言わんがためである。それぞれの置かれてきた環境、境遇、社会などにより同じ事象が時にはまったく別なとらえ方をされるのである。至近な例を言えば、飛んでいる蝶一羽を見ても、美しい風景だと詩の一つも浮べる者もいれば、生物学的興味で見たり、作物を荒らす害虫だと憎々しく思ったり、金儲の手段にならないかと考える者もいる。
 これ等は皆、対象を自分と言う物を中心にして見ているから同じでも違って見えるのである。あたりまえの事だが、もう一度よく考えてみればこれは大変な事である、同じ物が同じでないのであるから。
 各々が自分を中心にして、それを視点として世界を見、世界の中心に自分を据えて相対的に自他を比較している。これが人間なのである。自分にとってどうか、この有り方で世の中が円滑に動いているのである。例えばテレビのニュースで、モザンビーグの飢餓を見てかわいそうだと心を痛めても、自分は茶の間に安座して、女房に「おい此の暑いのにこんな料理は食えんよ、もっとあっさりした物は無いのか」とビールをあおっている、そしてチャンネルを回してコントを見たとたんに腹を抱えて笑っている、つい今までのあの悲哀はどこへいってしまったのだろうか。
 これは対象を自分にとってどうか無意識の間に判別しているのである。この判別が出来なければテレビのニュースのたった十分間に本気で泣いたり笑ったり喜怒哀楽に気が狂うはずである。自分にとってさしあたっては関係の無いニカラグアの戦争で二百人余死んだ事よりも、一ぴきの蚊がチクリと刺したほうが本気で痛いのである。
 ところがそううまいぐあいに事は運ばない時がある。世界の中心であった自分が病気になった、物が食べられない、頭が痛い、世界中が地獄になった、と思いきやテレビでは漫才をやってキャアキャア笑っている。いったいどうなったのか。それは中心であり視点と思っていた自分が変化したのだ、昨日の自分と今日の自分、つい先程と今と、中心である自分も絶えず動いているのである。
 結局中心である自分と対象である世界も相対的に変化しているのであって、その中で自分を位置付ける作業、視点である自分をどこに置くかが、人間の日々の営みなのである。この為に人間はあくせくと、いつも他と比較して自分の位置付けをしていなければ安心できない。科学の発達もこのあたりから出発しているのである。世の中が忙しくなって情報量が増せば増す程、この位置付け作業も忙しくなる。新聞、雑誌、テレビ、ラジオと、別にそれらに接していなければ生きてゆけない訳でもないのだが、離れることが不安なのである。
 視点をどこに据えるかと言う事について、人間は自分を世界の中心に置いている。そしてその自分も変化しているのであるからいつも他との相対的位置づけに腐心している事を述べてきた。では動かない視点、ぐらつかない、世の中が変化しても、病気になっても、老いても揺るがない視点、安心できる視点はどこにあるのだろうか。
 その結論から先に言えば、視点は無いのである。
 此処からが本題であって、今まで述べてきた事はすべて人間社会、仏教用語で言えば、世間法、虚仮の世界の話なのである。
 虚仮の世界のどんな所にどんな視点を据えても、そのとたんに相対的なものに堕してしまう。哲学で言う真理は絶対であり、これこそが揺るがない視点だと言っても、それも公理、前提という人間の約束事の上に始めて成立しているのであるし、主義、理論などと、観念やイメージとして描いたものが現実に直面した時には何の役にも立たぬのは百も承知であろう。死とは何ぞや、死後はどうなるのかといくらひねくり回しても一寸先の生死が解決できるものでもあるまい。
 宗教とて例外ではない。それがイズムに堕す、すなわち虚仮の世界に引き込まれたとたんに、宗教が宗教でなくなるのである。
 自分の不安なり問題を解決しようと思って、つまり揺れている視点を位置付ける手段の一つとして宗教をいくら追求しても確かにその一時点では問題の解決にはなっても、それが長くは続かないのは、世間法という相対的な変化の中の出来事だからなのである。今日宗教というものが現実の問題解決に何の役にも立たず、むしろ物質、金、力、情報といったものが手段として有効なのはその為であり、その反動としてまた宗教を観念的にとられて自己満足の世界に落ち入っても、結局は同じ轍を踏んで止む事がないのである。
 人間社会の中での自己の敗退、自己主張、自己陶酔、いかなる問題なりともその解決の一手段として宗教をとらえた瞬間に、宗教は最早その本来の使命を離れているのである。
 近頃の宗教ブームも例にもれずで、禅に関する書籍やテープ、講演会、対談、等が毎日毎夜矢つぎばやに出されている。それを見聞きして、禅を理解したつもり、悟ったつもり、奥義を極めたつもりになっている。仏教ではこれを有頂天と言う、何の事はない、世間法の中に仏法というイメージを持ち込んで自己満足しているだけなのである。例え禅というものを理解したとしても、それは理解にすぎないのである。では禅は行だ、するものだと力んでみてもそれでどうにかなるのなら事は簡単なのだが。
 最近の宗門がその良い(いや悪い)例である。道元禅師の教えは坐禅だ、只管打坐だから坐禅をしなければ、(いまさら声を高くして言う必要もあるまいに)と全国の寺院に御触れをを出して、檀家信徒に坐禅をさせるよう指導しているらしい。またそれに悪乗りして一儲けしようと、「これだけあれば坐禅ができる」と触れ込んで、坐布、警策、作務衣、等一式二十万円で売り歩いている阿呆がいる。二十万円で坐禅ができるのなら、何も頭を丸めて乞食しなくてもすぐ悟れる。
 世間法の中に坐禅を引きずり込んでいくら積み重ねても、それは砂上楼閣で、積めば積む程引っくり返るだけだ。昔の人が「坐禅をしても何にもならん」と言ったのはその事なのだ、坐禅というのはその世間を抜け出る事を言うのだ。昔話に遊女が戯れに袈裟を着たのが縁で出家したこともあるように、坐禅をする事そのものは大いに結構だが、少なくても頭を丸めた者が結跏趺坐をしているのは当たり前、今さらするしないの問題ではない。他人に坐禅をさせる前に自分の頭をなでてみればよい。
 頭をなでる、世間を出る、坐禅をするとはどういう事なのか。戒を持すと言う事である。世間の者がなぜ三宝を誹謗するのか、それはすべての坊主の不如法のゆえなのである。では持戒とは具体的に何なのか。各々の日暮らし、生きざま、私は今何をしているのかを持戒というのである。この大光明裏に己を投げ入れた生活、行為こそが尽十方世界を照らす光明そのものであり、それを衆生に坐禅をさせる(済度)と言うのである。
 此処に視点を据えて始めて人間は出世間し得自在なのである。
                   跏