淡雪の女


 とある街角のレストランであった、雪子を始めて見たのは。寒い午後だった。ハドソン川を渡って来る凍て付いた風がビルの谷間を吹き抜けていた。
 ニューヨークといってもブロードウェイを少し南へ下った辺はそれ程でもなく、時々風に乗ってタイムズスクエアの騒音が唸りとなって伝わって来るだけだった。
 雪子は小さなイタリアンピザハウスのテーブルに着いて、ぼんやりと外を見ていた。
 寒い外気から急に暖かい室内に入って、ホッとして顔を上げると丁度彼女と目が合った。私はツカツカと歩んで彼女と向かい合って座った。たぶん入り口に近かったのと他のテーブルも殆ど塞がっていたからだろう。
 「貴方、日本人でしょ、学生さん。」
 「う・うん、貴女は、もうニューヨークは長いのですか?」
 「そうね、もうそろそろ片手で数え切れなくなりますわ。」
 そう呟くように彼女は飲みかけのコーヒーに手を伸ばした。それももう冷めているらしく、口へは持ってゆかずにテーブルの上で弄っているだけだった。その横には食べさしで張り絵パズルの一コマみたいになった一切れのピザが皿の上に乗っていた。
 「これ私の昼御飯なの、仕事に行く前によくこの店で食べるの。」
 「仕事って、今から、じゃ夜働いているんですか。」
 「ええ、ピアノ弾いてんの、最もピアノバーの酔った客の歌の伴奏なのよ。」
 その言葉には何の感情も無かった。それが私には直ぐ分かった。何か自分というものを考え抜いてしまって、そのどうしようもない自分をその境遇をただ生きている、それに身を委ねきっている様であった。それでいて少しも暗い所も無く、そんな生活に疲れたでもなく、ただ彼女は彼女に与えられた人生をあるがままに生きているようであった。ニューヨークという雑踏の中、その世の中の総てをごちゃ混ぜにした世界でそうしてすんなりと生きている、そんな彼女が今も私の胸にすがすがしく思い出される。

 雪子は島根で生まれたそうだ。家は地主で富裕であったが、農地解放でただ同然に取り上げられて以来は寂びれる一方とかであった。二人の兄弟もその一人は戦死して、長男は小さな靴下工場をやったりしたけれども失敗して、今は勤めに出ているらしかった。そんな訳けで実家には彼女の両親だけが細々と暮らしているとかであった。
 こんな家柄か彼女は色白できゃしゃであった。もう三十にも近かったが世間知らずのお嬢さん育ちのせいかおっとりとして、笑った時などあどけなささえ感じられた。目鼻立ちも上品で嫌味の無い、他人を疑ったり、物事の損得を素早く計算する事等到底出来そうにない人柄であった。
 幼い頃から良家の子女としてのお稽古事も習い、バイオリンやピアノも覚えた、そしてそれが彼女をニューヨークにまで運んで来る事になってしまったのだ。思えば運命のいたずらか、世が世なれば今頃は左団扇の女なのに、そんな世間の冷たい風に吹かれ、片隅に追しやられながらもそっと静かに咲いている、一輪の野の花の様であった。
 雪子が中学の頃には彼女のピアノの才能は抜きん出ていた。学校や県のコンクールでもよく入賞した。そんな腕を認められてか、先生の助言もあって短大を卒業するとすぐウィーンの音楽学校へ行き本格的な勉強を始めた。彼女も当時その意欲に燃えていた。
 しかしウィーンは音楽の都である。雪子程度のピアノの技量なら掃いて捨てる程いる。それに気付いた時のショックはまさに井の中の蛙が大海に放り出された様であった。そのとたん音楽への情熱も冷め、ただ家からの仕送りで学校へ通うだけの日々であった。それを紛らすために外に目を向けるようになるとお金も必要になる、アルバイトを始める、そのうちに家からの仕送りも途絶えるともう学校へも行けなくなり、かと言ってそのまますごすと日本に帰るのも気が重く、ずるずると放浪が始まった。
 チューリッヒ、パリ、ストックホルムと転々としたあげくついに落つる所ニューヨークに来てしまったのであった。

 五番街のショーウィンドーもクリスマスの飾り付けになった。薄汚れた灰色のニューヨークにもそれが心ばかしかの明るさを投げていた。
 そんなある日、雪子が仕事休みというので夕食に誘った。いつもの様にピザハウスで待ち合わせ、まだ夕方も早かったので少し外を歩く事になり二人の足は自然と明るい五番街へと向っていった。
 会社帰りのサラリーマンやクリスマスの買物を抱えて足早に行く人々、それぞれに趣向を凝らしたショーウィンドーを覗き見たりして楽しそうな家族連れ、夕方の五番街はそんな人々でごった返していた。
 その雑踏の流れに身を委ねながら雪子はこんな事を呟いた。
 「ああもうクリスマスね。去年の今頃は私何をしていたのかしら。今と同じ様にこの町にいたはずなのにあまり覚えていないわ。こうしてのんびりと五番街を歩くのだって何年ぶりかしら。」
 「………。」
 「アラ、今日の私っておかしいわねこんな事言ったりして。だってこんなに満ち足りた気分は久しぶりだもの。」
 そう言いながら雪子は肩へ回した私の腕にグッと力を入れてきた。
 そんな雪子の気持ちなど知らぬかのように雑踏の街はにわかに夕闇を濃くして、ショーウィンドーのイルミネーションがその中に浮かび上がってきた。  

 私達が食事のテーブルに着いたのはもう暗くなって大分してからであった。ロックフェラーセンターの中庭にあるアイススケートリンクに面したレストランであった。テラスの窓越しに数組のカップルがワルツを踊っており、その流れを目で追いながら運ばれてきたモーゼルワインを傾けていた。
 「雪子さん貴方は雪国生まれだからスケートは上手でしょうね。」
 「上手って、私スケートはした事がないわ、小さい頃はそんな場所も無かったし、もしあったとしてもおばあちゃんがそんな事許してくれなかったわ。」
 「ふーん、じゃまったくの箱入り娘だったわけですね。」
 「箱入り娘って、ホホホ私そんなかしら。」
 「そらそらそんな笑い方がそうなのですよ。」
 「あらそう、ホホホホホ。」
 リンクの上ではワルツに変ってサンタクロースに熊やトナカイの道化師たちが踊り始め、それを追いかけて多くの子供も加わり急に賑やかになってきた。
 そのリンクの正面にはどの様に運んできたかと思う程の二十メートルを越すモミの大木のクリスマスツリーが立てられて、スケートの曲に合わせてその電飾も点灯して、さながらにしておとぎの国にでもいる様であった。
 ディナーの皿が片付けられて、デザートのアイスクリームが出された頃には二人ともいい気分になっていた。雪子の白い頬も少し赤らんでテーブルの上で交わされた二人の手を伝って彼女の熱い鼓動が伝わってくるのが感じられた。そんな二人の燃ゆる心を映すかの様にキャンドルライトも静かに揺れていた。
 「ああ少し早いけどこれが私のクリスマスねだってクリスマスはお店が一番忙しいときですものね、とてもこんなゆっくりした気分にはなれないわ。貴方はクリスマスどうなさるの。」
 「うん別に何も無いけど。」
 「どうかしら一度私のお店に遊びに来ない。ちょうどいいわ私クリスマスパーティーの招待券があるの、他にあげる人もいないし貴方いらしたら。」
 「うんぼくはいいけど、でも雪子さんは困るでしょう私みたいなのが、仕事のじゃまになるんじゃない。」
 「あらどうして、そんな事ちっともかまわないわ、ね、ぜひいらして下さいね、私だってそのほうが一人でいるよりも嬉しいから。」
 雪子の熱い眼差しに合って私は何の抵抗も出来ずにただ黙ってうなずいた。その時雪子の伏せた眼にキラリと光るものがあったが彼女はそれをじっと押し隠しているらしかった。
 二人が表に出た時はもう街も静まって人影もまばらであった。一つに重なった影が歩道の上に伸びていた。それについてゆくように二人はゆっくりと歩いた。夜風が痛い程に冷たかった。でもそれにもまして二人の心の中には暖かい灯火が燃えていた。

 雪子の勤める店は表通りから少し入り込んだ所にあった。ドア一枚の入り口で、その上にピアノバーアカサカと書かれた赤いネオンサインがあった。その厚いドアを開けると五メートル程の暗い通路が続いて、その奥に色ガラスのドアがあった。近付くにつれて中のざわめきが大きくなった。
 中は意外と広かったが、鏡や衝立で区切られているのでどこをどう行って良いか分からず、しばらく目を慣らしていると一人のホステスが現れた。
 「いらっしゃいませ、お連れ様は御座居ませんね。」
 「ええ、ああそうだ今日は雪子さんに招かれて来たのですが。」
 「そうで御座居ましたの。彼女今ピアノ弾いていますわ、どうぞこちらへいらして下さい。」
 案内されて行くと、雪子は目ざとく私を見つけてピアノから顔をあげた。手は止めずにニッコリとうなずいた。そして目で合図してバーの一番外れのピアノに近い所を示した。
 私が腰掛けてもう一度彼女にウインクすると雪子は恥ずかしそうにうつむいて楽譜を追っているふりをした。しかしその顔は先程見た時と違って嬉しさに綻びており、それを包み隠すように譜面に顔をうずめているのだった。
 数曲を弾き終えた後彼女は手を止めた。
 タバコに火を着けてうまそうに深く吸った。腰を浮かせて私の方へ来ようとするとロビーのほうから和服姿のホステスが話しかけてきた。
 「あら雪ちゃん今夜はお客様ね、こんないい人どこで見つけてきたの、雪ちゃんも角に置けないわね。」
 「まあママさんたら、ただの友達ですわ。ネ、そうでしょう。」
 そう私に話を向けながらも雪子は照れくさそうに片手を口元に持って行き、ハッと気付いたように言った。
 「アッそうそう照介するわ 、これ私の友達の賢二さん、そしてママさん。」
 「これはこれは始めまして、今日は本当によく来て下さいましたわ、おかげで雪ちゃんもとっても嬉しそうですもの。
 まあ今夜はクリスマスイブでたくさんおこしいただいていますから充分なお相手も出来ませんがどうぞどうぞゆっくりしていって下さいね。
 雪ちゃんもしっかりサービスしてあげてね。」
 「まあママさんたら、そんな奥歯に物の挟まった様な言い方しないで下さいな。」
 「わかってますとも、そんなに照れなくてもいいでしょ、ホホホ。
 ところで賢二さん、何をお飲みになります。」
 「ああママさん、賢二さんには私のボトルを出してくださいな、オードブルも適当にね。」
 ママさんが飲み物の用意をして下がってゆくと雪子はやっと安心した様に言った。
 「どうこのお店。」
 「うん、なんだか知らないけど日本の安キャバレーて感じ、ごめん、別に貴女のピアノの事じゃないんです。ごめんごめん。」
 「ちっともかまわなくってよ、本当よ。
 でもね、先程のママさんはとても良い人よ、最近引き抜かれて日本から来たの、以前は赤坂にいたらしいわ。あんないい人こんなお店じゃもったいないわ。」
 「じゃ他の人達は。」
 「半分くらいが戦争花嫁とかでヤンキーと結婚して此に来て、うまく行かなくて離婚したり他の男とくっついたり、彼女達はお金ばっかりに夢中だわ。
 後の半分は私と同じように各地から流れてきたの、彼女達もお金が原因でああしてだんだん身を落としてしまったのね。」
 雪子はそう言ってから我が身を思い出したのか急に黙ってしまった。
   本当に雪子の言うように変な所だった。
 ニューヨークの真ん中にあってちょうど日本の三流キャバレーをそのまま移したような所だった。ウェイトレスも客も全て日本人、外国人は誰も来ない。客もニューヨークにいる商社員とかそのたぐいの人ばかりであった。
 ここまで来て何でこんな所に来るのか、いやなぜこんな店が繁盛するのか、やっぱり日本人は日本人である、どこへ行っても自分の習慣が抜け切れず、古里恋しさにこんな所に集まってくるのである。キャバレーなどニューヨーク中に星の数程あるのに結局そんな所へ行ってもゆっくりと心からくつろげないのだろう。この店の中では勝手知りたる我が家である、外ではちぢこまっている彼らもこの店の中では飲んでさわいで、天下を取ったつもりでいるのである。
 「さあそろそろ時間だわ。」
 そう言って雪子は再びピアノに向った。
 すると向うの客から声がかかった。 「雪ちゃん、城ヶ島の雨弾いてね。」
 そう言いながら渡されたマイクを持って、まだ前奏の途中なのに歌い始めた。もうだいぶ酔っていて調子も外れているし歌にもならない程だった。それに合わせて雪子はポンポンと鳴らしていた。時々歌い手を見ては作り笑いをして息の合っているように見せていた。
 それが終わるやいなやまた次の客がマイクを取って歌い出した。次から次へと、歌謡曲から始まって民謡、軍歌等々、およそ節の付いているものなら何でも飛び出した。
 雪子もだんだんタバコを口にする回数が多くなっていった……。

 その夜二人で店を出たのは三時を過ぎていた、クリスマスイブというので十二時を過ぎても客が帰らなかったのである。
 コンクリートジャングルを吹き抜ける風が酔いほてった体に突きささった。その風に乗って白いものが舞っていた。雪であった。

 薄暗い中で目が覚めた。
 そこがどこであるかを意識するのにそう時間はかからなかった。雪子は側にいた。彼女はまだ眠っているらしかった。ただ彼女のぬくもりだけがほんのりと伝わってきた。
 しばらく私はじっとしていた。顔を彼女のほうに向けるのもためらった。動けば彼女の目を覚ますと思ったからだった。
 静寂の世界であった。ただ私の心臓のドキンドキンとするのだけがゆっくりと響いてきた。
 どのくらいたったのだろう、私にはそれがずい分長く感じられた。酔い覚めに何か飲み物が欲しかったのでそっと雪子の体から離れベットを抜け出した。
 窓辺に寄ってカーテンを少し押し開けると、外は白い世界だった。
 静かなクリスマスの朝であった。
 いつもは薄汚れたこのあたり、スパニッシュハーレムもこの日ばかりは純白のドレスに包まれていた。雪子の部屋の前には錆びた非常階段があって、それを通して外を見ていると何か楽屋裏から舞台を覗いている様であった。
 「外は雪なのね。」
 突然後ろから雪子の声がした。私は振り向かずに静かにカーテンを開きながら言った。
 「うん、ホワイトクリスマスだよ。」
 「静かねえ。」
 振り返ると雪子はまだ横になったままであった。窓からの雪明りが彼女の顔や胸元を白く匂わせていた。私が明かりを着けようとすると、頼むように彼女はいった。
 「まって、そのままでいて。」
 雪子はそう言いながらベットに沈み込むように再び目を閉じた。
 「タバコ取って下さらない、化粧台の上ですわ。」
 手渡したタバコをさも美味しそうに一息吸った。淀んだ空気の中にジタンの香が漂った。
 「今起きたのかい。」
 「貴方がベットを出て行かれた時よ。」
 「そう、それは悪かった、寒くないかい。」
 「……。」
 「紅茶飲む、温かくなるよ。」
 いいながら少し多めにラムを入れた紅茶を持ってベットに近付いた。
 「ええいただくわ。」
 そう言いながらも雪子は目を閉じたままで起き上がる様子もなかった。仕方なく私は一口すすった後、口移しにして飲ませた。
 ゴクリと雪子は小気味よく喉を鳴らした。
 ひんやりと潤ったその唇にラムティーのまろやかな温かさが蘇ってきた。そのぬくもりを愛しむように雪子はなをも唇を求めてきた。
 時の無い世界にいるような、それは静かなクリスマスの朝であった。

 その日の午後であった。雪子が海を見たいといい出したのでコニーアイランドへ行った。
 夏は海水浴で賑わう浜辺も、クリスマスの今日は人影も無く、雪で被われた砂浜には足跡さえも絶えていた。 鉛色した海から吹いてくる風に向って雪子はしばらく佇んでいた、がやがてその思いからも放たれたかに振り向いて、ニッコリと私にほほえんだ。折りからの風にマントの裾が翻った。その風から逃れるように雪子は私の胸元に飛び込んできた。
 そんな雪子の細く嫋かな体を狂おしいまでに抱き締める私の心にも次ぎ次ぎと熱いものが込み上げてきた。
 浜辺を洗う波が寄せては返すように、二人の間に芽ばえた愛の炎はぶつかりあい、燃え上がって巨大な塊まりとなって、やがて世界を包んでしまったと思うと突然炸裂した。それを追うようにまた次の炎が燃え上がっていった。

 二人は歩いた。雪と、海に洗われた砂地の境をあてども無く。
 その後には寄り添う二つの足跡だけが続いていた、ゆるやかにくねる白と黒の線に添って、くっきりと、どこまでも……。

 午後の陽射しにもどこか春の訪れが感じられ、バタシー公園の木々の芽も大きくふくらんだ頃であった、雪子が突然消えてしまったのは。
 ある日いつもの様に行きつけのレストランを覗いたが雪子はいなかった。
 それじゃまた次の日にでも来てみようと思ってそのままになってしまった。もちろん雪子のアパートでも、勤め先の店にでも行けばすぐ逢えるのは分かっていたが。
 とたんに私の心の中に雪子が急に遠い人に感じられた。そう思うと彼女に会うのが何か大きな出来事のように思えてしまった。

 なぜあんな風にそのまま別れてしまったのか今も解らない。
 あれから幾度春が来て、そして過ぎていったのだろう。こうして日増しにゆるむ春を望んでいると、そんな雪子が思い出されて仕方がない。今頃どうしているのだろうか。どこへ行ってしまったのだろうか。
 ゆきずりの私の肩にそっと止まり、そしていつしか消えていった。
 淡雪のような、そんな女だった。

     一九七六年十二月二十四日
     安泰寺文集のための書き下し
              完