作品「娼婦マリー」について


 もう六月も半ばを過ぎていた。
 雪こそ降らなかったが身に染みるような冷たい雨が降っていた。
 マリーはその頃から街角に立つようになっていた。以前よりは客の質も悪く儲けも少なかったが、そうするより他はなかった。キングクロスの盛り場に、毎日毎日笑顔を作って立っていた。
 私は彼女のそんな姿が可哀想で見ていられなかった。寒い雨の日など客もなくしょんぼりとしているのに出合うと、出来るものなら私が買ってやりたいとまで思った。たまたまそこにマリーがいない時などは、ああ、彼女は今客があるんだなあと思ってホット安堵の気持ちを覚えた。
 そんな、ある夜の事だった。マリーが久し振りに私の部屋に来た。
 「コーヒー御馳走になれるかしら。」
 「いいとも、…………元気かい。」 私は机に向ったまま、振り向かずに答えた。マリーは私の何気ない開けっぴろげな応対にすっかりくつろいだらしく、コートを脱いでストーブの前のカーペットに身を沈めた。私はしばらくそのまま机に向っていた。マリーはその間、黙ってストーブに手をかざしていた。彼の凍えた体が暖まる頃には私の仕事も片付いていた。
 「コーヒーがいいかい、それとも何か飲む。」
 「そうね、…………。」 私は返事を待たずにブランデーの用意をした。
 「外は寒いだろ、此頃ぼくも出歩くのがだんだんおっくうになってしまった。ハハハハ。」
 「……………。」
 「……………。」 二人は何も言わず、長い間、ただグラスをいじっていた。 私はストーブの炎を見ていた。マリーも……。私は炎に向って私の気持ちを訴えていた。 マリーも……そうだった。 炎が二人の心を映していた。
 「ねえマリー、いっそ何処、他の町へ行ったらどうだい。」
 「…………。」
 「何も此処だけが君の住む所では無いと思うけど。」
 「………昔はそう思った事もあったわ。」
 「…………」
 「でも、だめだったの……。」
 「そんな早く諦らめなくても………何処、他の町へ行って何か良い仕事でも見つけられるじゃないか。」
 「貴方まで私をそんな風に見るの。私がそんなに、みじめに見える。」
 「いやそうじゃないけど、君だっていつまでもこのままで居られないだろう。」
 「貴方は、貴方の目で私を見ているのよ。私にだって、私の世界はあるのよ。 ただ、貴方がそれを解らないだけよ。」
 「でも、年寄ってまで今の仕事続けられないだろ。」
 「そんな事…………、どうにかなるわ、貴方だってそうでしょ、年老いての事など今から考えても仕方無いでしょ。今はただ、…ただ私の命を燃やしたいの、力いっぱい燃やしたいの、自由で居たいの。」
 「…………。」
 「…………。」

 外は風が出て来たようだった。窓ガラスが時々音をたてた。 沈黙が再び訪れた。
 ………………
 二人はただストーブの炎を見ていた。もう何も言葉に出さなくてもよかった。ストーブの炎がそれを知っていた。
 「マリー、今夜は一緒に寝ようか。」 私は心のままに、ボソッと呟いた。
 灯りの消えたベットで、マリーは私の腕の中にじっとしていた。二人は仰向けになって空を見ていた。お互いに理解は出来ない心が二つ並んでいた。そんな二人の小さな思いなど知らぬように、寒天には静かに輝く南十字星があった。

 ……………これはこの文集に載せるはずだった私の作品「娼婦マリー」の後半の一部である。どういう訳か、多分無用の長文だったからだろう。この文集には不適当となった。
 この作品はオーストラリアのシドニーが舞台である。シドニーの一部にキングスクロスという所がある。バーやクラブ、レストラン等が密集しているーいわば盛り場である。港を見下ろす小高い丘に在る一本の道路の両側に開けた小さな盛り場である。多分、これは私の推測だが、海軍の基地がこの丘の下にあるから開けたのだろう。
 物語はここに生きている一人の売春婦の生き方を描きたかった。実際には三人のモデルをミックスして主人公とした。
 この作品を生む動機となったのは、当時私がキングスクロスに住んでいた時、たまたまある売春婦が書いた手紙を読んでしまったからであった。拙い文だったが、そこには私の心のすべてを揺り動かしてまだ有り余るエネルギーを秘めていた。そこにはいかにも人間味あふれた、もう我々が心の奥にしまい忘れた「本能的な、純粋な人間の心」があふれていた。現代人が軽蔑すべきものとして、その虚飾に包んでしまった本当の心を私はたまたま覗く事が出来たのであった。
 しかし、その「心」を表現するとなると非常な困難があった。この作品でも、それを理解出来ない二つの心として、突離してしまわねばならなかったのが残念だった。
 作品を離れて言えば、オーストラリアは日本とは対照的である。地理的にも、北と南、夏と冬、広い国土に稀少な人口、新と旧、単一民族と複数のそれ。
 実際、我々が行って思うのは、広いなあ、と言う事である。もっと解り易く言えば、まだ空き地が一杯ある。いや、それは日本人的な発想かもしれない。何と言えばよいのか、我々が日常なに気なしに使っている水に対すると同じような受けとり方を、オーストラリア人は土地に対して持っているのではなかろうか。
 こんな事が日常の生活や文化にも反映していると思われる。きちんとしたルールがあって、すべてが型通りに動いている日本、そんな中に居る我々もまたそこを抜け出る事はむずかしい。思考にしてもそうである。何かを考えるとき、その思考方法そのものがもう一つの型になって、身についているので、そこから出て来るものは依然として型をはみ出るものは、出て来ない。(映倫選考を見たまえ。)
 確かに高度な知識や経験に裏打ちされた思考はそれなりの権威がある。そんなものから見れば、何んの裏打ちも、既成概念すら無い行き当たりバッタリの思考など幼稚である。しかし、そこには何物にも捉らわれない自由がある。新鮮で自由な思考方法がある。 「未知の中にあって未知を求める。」 夢とはーそんな物ではなかろうか。
 話がそれたが、オーストラリはという国は我々に無い一面がある。それが良いとか悪いとかではなくて、異なっているのである。そんなものを見にゆくのも面白い。そこで得た知識を知識として日本流に料理してしまわないようにするのは、これまたむずかしいが。アハハハハ……シラクモさんよ。

 一九七八年度ニューカスタム文芸賞 受賞
 評・週間カスタムコミック談ーこの作品はあの時の温かさを見直させ、現代の貧困なる文壇に挑戦した感性復活のミズミズしい秀作である。