ロビンソンにはなりたくない


 雪、熟した柿の実だけがその中にあって、わずかに色を添えている。
 早いもので、我々にとって三回目の冬を迎えてしまった。この自然の中にあって、時の動きの中にあって、日々の坐禅を功夫している。
 そんな時ふと幼い頃呼んだ「ロビンソン漂流記」を思い出す。無人島に一人生きてゆくその様は、かつての幼い私の心を揺ったものだった。

 しかし今から私が書こうとしているのは、その物語に感動した話しではない。物語の底辺にある物の考え方、発想法について少し考えてみたい。
 ロビンソン漂流記の一節に人食い土人を退治する場面がある。
 無人島で孤独な生活を送っているある日、ロビンソンは浜辺で人食い土人が一人の生けにえを囲んでパーティーを開いているのを見つける。ここで彼は土人どもをやっつけて、生けにえを救い出すのである。
 大立ち周りの末ついに土人どもをやっつけて、生けにえを救い出してめでたしめでたしとなるのである。その時彼は成功を神に感謝すると共に、神に対して良い事をしたと感激するのである。
 この下り、たぶん誰が読んでもなる程と、別におかしいとは思わないはずである。
 しかし敢えて私は、ここでやぶにらみ殺法を試みるならば、次のような考え方も成り立つのではあるまいか。
 まず、ロビンソンは彼中心のエゴでこの事をやったと思う。 なにも人食い土人の社会に彼の考え方を持ち込むことはないと思う。彼の考え方というのは、人食いは絶対にいけない、タブーである。弱きを助け強気を挫くのは正義である。これらは神に対する絶対の正義であり、神に対して良い事をしたと言っているのである。
 しかし私に言わせれば、人食い、つまり人殺しがなぜいけないのか、人食い土人の社会にあってはそれはちょうど我々が山へ入ってうさぎを取ってきて食べるのと同じではなかろうか。
 今日の戦争でも同じであろう、人殺しがいけないのならばなぜ多く人殺しをした人が勲章をもらうのか、それが正義のために戦うのであれば、その正義とは何か、それはしょせん自分に都合の良い正義なのだから、もし正義が一つしかないのならば、戦争なんて起こりようがない。
 縦しんば人食い、人殺しがいけないとしてもロビンソンは正しくない。一人の土人を助けるのに彼は他の何人もの土人を殺しているという矛盾がある。
 結果としてロビンソンがした事は、その生けにえ土人を彼の孤独を晴らす為の味方、召使にする。
 これが彼のエゴでなくて何であろう。
 もちろんそこで、ロビンソンが彼自身の損得でしたことなら、彼も人の子、何も問題はないのであるが、彼はそれを正義として神に対して良い事をしたと言っているのである。
 ちょうど我々人間が犬の喧嘩を自分の道義で加担するようなものではあるまいか
 もしロビンソンが坐禅をしていたならば、そこで彼は「ああまた馬鹿なやつらが無明の闇の中で騒いでおるわい」、と高見の見物と洒落込んでいたかも知れない、アハハハハ。

 この物語が書かれたのは、ちょうど英国の黄金時代、いわば植民地時代の絶頂期である。当時のイギリス人はこういう思想、発想法で世界を蹂躙したのであった。
 自分の行っていることは絶対正しい。神の意志だとして、その考え方をあらゆる人種、文化、社会の上に強要していったのであった。それがどうであったかは、いまさら私がここで言わなくても、歴史がすでに証明している。端的な表現をすれば、クリスチャンのエゴと言えばよいのであろうか。
 もう一つその例を挙げるならば、ガリレオの宗教裁判も好例であろう。
 ガリレオは「それでも地球は動いている」と嘆いたように〈当時の〉クリスチャンにとっては、いつも自分中心に世界は回っていたのである。

 こういうことを踏まえた上で、さて私の立場はどうであろうか、仏教者としてどうであろうか。
 もちろん仏教者には仏教者としての発想法があると思うし、事実私はそれを実践している。それはあたりまえのことであり、発想法それそのものをとやかく言っているのではない。発想法を言うからにはそれが一つとは限らないであろうし、大いにそれぞれ自信を持って実践するべきである。
 ただその実践において他の人を踏み台や犠牲にしていないかどうか、迷惑になっていないかどうか、いつも注意していなければいけない。
 自給自足の中でそれを逐行するあまりに、ロビンソンのように他の人々の領域にまではみ出してしまわないように。
 またあまりに賢くなりすぎて、自分の都合のよいように、四角い布を着けたり脱いだりしないように心がけなければいけない。
 その例が「世間」である。世間を定義するのはいくらでも出来る。それならそれで通せばいいのに、それも出来ずに自分のエゴででたり入ったりする。
 ロビンソンにはなりたくない。