安泰寺での二回目の冬を迎えようとしています。自分は何を求めて、ここに居るのでしょうか。修行とは何でしょうか。昨年の4月に上山した当初は、坐禅をして、自給自足の生活を身に付けて、仏教を勉強することが目標でした。今年は、それに加えて、単純に生きる、シンプルに生きる、ということを考えました。安泰寺では、テレビもなく、儀式なども少く、世間の生活に比べれば、かなり単純な、シンプルな生活であると思います。
ただ、単純に生きる、シンプルに生きる、といっても、食べて、出して(排泄して)、寝る、といった生きるために必要最小限のことはやらなければなりません。安泰寺では、坐禅はもちろん、作務や典座や猟師さんから頂く鹿の解体など、生きるために、いろいろなことをやらなければなりません。多くのやらなければならない仕事がある時、それらを単純に、シンプルにやるとはどういうことでしょうか。
単純に、シンプルにやるとは、手を抜いてやるということではありません。ある一つのことに集中しながら、それ以外のことも見えているということで、どうすればよいのかが見えてくることだと思いました。このことは、安泰寺の坐禅として大切なことであると、堂頭さんや先輩方から教えられたことです。また、あらかじめ正解があるとは言えないことだと思います。
例えば、典座として、料理を精一杯作ることは大切です。しかし、いくら美味しくて、温かい料理を提供できたとしても、その後に輪講がある時、典座の後片付けが多く残ってしまっていて輪講がなかなか開始できない、というのではいけないと思います。この場合は、料理を作ることにばかり目を向けてしまっていて、典座の仕事全体、あるいは、安泰寺の生活全体との繋がりが見えていないと思います。
典座として、料理を作ることばかりに目を向けてしまっていてはいけません。しかし、その後の、輪講にばかり目を向けてしまっていてもいけません。これは、どちらを重視するのか、という問題ではありません。典座として料理を作るだけではなく、後片付けも典座の仕事として目に入っている必要があるということだと思います。そして、輪講の前に余計なことをする必要がなく、輪講を落ち着いて開始できるようにしなければならない、ということだと思います。
時間には限りがあります。また、自分の力にも限りがあります。だからと言って、手を抜いて断念するのではなく、一つ一つのことを、その時、その時で完結させようと努力することが、単純さやシンプルに生きることではないかと思いました。実際には、その時だけで、その仕事を終えることができないことも多いと思います。しかし、このことは、この時にしかできないという感覚を持って、物事に取り組むことが大切であると思いました。
強引かもしれませんが、私は、お釈迦様の最後に言われたとされる言葉を思い出します。岩波文庫『ブッダ最後の旅』(中村元訳)にある言葉です。
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろものの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」