西原昌文
自分の人生に明確な問題意識を持って安泰寺への入山を決意致しました。
待ち受けていたのは薄暗い中に微かにあるような気がする狭間の道でした。
朝晩の静かな時と日中の慌しい時
自力を発揮する時と他力に任せる時
思考的にわかる時と身体的にできる時
理性的に考えている時と感情的に感じている時
楽観的な時と悲観的な時
未来志向的に計画している時と過去志向的に反省している時
自由を尊重する時と規律を重んじる時
自分の為の時間を過ごしている時と他の為に動いている時
いずれの時も、大抵うっかり踏み外して真っ逆さまです。しかし、今この文章を書いていて思い出しますと、確かにこの道を歩いている瞬間があったような気が致します。
それは理想論や綺麗事などが一切入る余地がない程の現実に忙殺されている瞬間でした。
初めての五日間接心で腰や膝、足首が悲鳴をあげているにも関わらず、動いてはならないという教えを自ら貫こうと心に決め、今まで得た知識と今感じている感覚を総動員して自分の身体の痛みに向き合っていた時と
初めて典座として薬石を準備している最中に電話が鳴り、その応対をした後「玉ねぎが悪くなってきているのでなるべく早く使って下さい。」と言われ、予定を変更して涙を流し鼻水を啜りながら溶け始めた玉ねぎを切っていた時だったと思います。
両方とも文字通り必死だったからでしょうか。いつもなら自己の行為に対して周りの環境や条件が多少なりとも抵抗として働きます。しかし、その時はその抵抗を受けずに環境や条件の狭間を縫うように自己がただすっぽりと存在し活動しているような感覚でした。
書いているうちに違うような気がしてきてしまっています。今の私ではこれが限界ですが、いつかこの道を堂々と示して歩きたいものです。
とにかく今は、坐禅と典座にありったけをぶつけて参りたいと思います。