【帰命】
・・・よく見、よく聞き、ハッキリと言え・・・
〜10月号〜
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「マインドフル」なお心、
もう忘れてしまいなさい

(大人の修行 その18)
 先月と先々月は呼吸に対する質問にお答えしました。次の質問は日常生活の中で如何に禅の修行ができるかという問いです。

 問: 「座蒲の上で坐る時以外に、例えば日常生活の中で歩いたり、しゃべったり、食事したり、仕事したり、普通に座臥したりするときに、何に集中すべきでしょうか。どうやって『マインドフル』な(注意深い)心をたもつべきでしょうか。臨済宗の修行僧が心の中で絶えず一則の公案を念じていると同じように、坐禅以外の時も呼吸などに集中すべきでしょうか。それとも、例えば散歩している時は、経行のように一歩一歩の身体の動きに『マインドフル』になって、心を注意すべきですか。」

 答: 心を集中して三昧に入ろうと思っても、この心は一時も止まることはなく、絶えず自然に動いていなければなりません。三昧は思考の停止ではなく、物事の流れに沿った活発な働きです。ですから、まず「私は『マインドフル』な心をたもつべきです。一つのことによく集中して、周りの事柄に振り回されないようにいつもいつも注意いたしましょう」といった、狭い「三昧」の枠を突破し、「マインドフルなお心」を忘れてしまいなさい。どうせ、「私はよく集中している」と思った時、そういう「私」と「集中している心」と「集中の対象(呼吸など)」はバラバラに分かれてしまい、とても「集中している」(あるいは「マインドフルである」「三昧に入っている」)とはいえない状態です。
 あまり「マインドフル」にならないでください。歩く時はただ歩いてください。歩みそのものに任せて歩んでください。しゃべるときも、言葉に任せて、自然にしゃべればいいのです(「かたればくちにみつ」と道元禅師はいいます)。食事のときは食べる行為に、坐るときは坐る行為、仕事のときは仕事そのものに任せてください。寝るときもただ寝るだけでいいではありませんか。そもそも、経行(坐禅と坐禅の間、10分間ほど歩きながら禅を行ずること)とは特殊なことではなく、ただ一歩一歩にまかせて歩くことです。日常生活のどこにも特殊な場面を作らないで、もっとも自然かつ「普通」な形で生きるべきです。
 あなたはそもそもどうして坐禅をしようと思ったのでしょうか。何か特別な目的を得るため?新しい「自分」を作るため?もっと高い心の状態を得るため?もしそうであれば、それは坐禅となんの関係もない精神修練になります。何かに集中しよう、何かを得よう、何かになろうというあなたはそういうあなたとあなたの現実の間に自分で高い壁を作り上げてしまいます。坐禅をそういうふうに利用しないで、坐禅をそのまま信用することをお勧めします。坐禅を信じ、「あなたの心」も「あなたの身体」も忘れてしまい、現実をありのままに受け入れるのはいかがでしょうか。坐禅は「あなた(私)」がするものではありません。「坐禅をする」という思いを手放してください。「何かをする」というのも「何かに集中する」というのも余計なものです。ただ坐禅を坐禅に任せて、そういう坐禅に従って行ってください。

先月の自動車運転の例えと同じように、これが自然にできるまでは長年の実践が必要です。長年の実践があっても、絶えず目を覚めていなければ、とんでもない事故が起こり得ります。しかし、それを学ぶには実践を積むということ以外にはないのです。坐禅に任せて坐るしかないのです。

「マインドフル」を忘れ、全身全霊で坐禅工夫をして下さい。

 続いて三つ目の質問です。
 問: 「なかなか座蒲の上で坐禅が組めないという、足の硬い西洋人のためには何かいいアドバイスはありませんでしょうか。安泰寺に来る参禅者のなかには半跏趺坐(片足のみをもう片足の太股の上にのせて坐禅を組む姿勢)さえ組めない人もいるでしょう。彼らはどうやって只管打坐の修行ができるでしょうか。」

 答: 坐禅はあなたの修行です。だれもあなたの代わりに坐禅をすることはできませんし、最終的にはその工夫のコツを教えることすらできません。
 座蒲の上で坐禅をするのか、それともベンチや椅子を使うか、あるいはソファで寝るのか・・・それは他でもなくあなたが決めることです。坐禅は座蒲の上でなくてもできるということをあなたはよく知っていることです。病院のベッドの上でもできますし、車いすの中でもできます。
 しかし、安泰寺ではあまり足を楽にして坐ることを勧めません。むしろ「本当に死ぬつもりで、坐禅のママで死んでもよいという気持ちで坐禅をしなければ、坐禅の道は開かれないのです。たとえ自分の命でさえ、手放せないものがひとつでも残ってしまえば、坐禅しているつもりでも時間を無駄にしているだけです」(「坐禅について」から)とさえいいます。しかし、あなた自身がまずそういう気持ちにならなければ、なにもはじまりません。

 実際に坐禅中に(足の痛みのせいで)死んでしまった人の話は聞いたことありませんが、足腰をはじめ、坐禅で身体のあちこちを悪くした人は大勢います。その原因は無理に痛みと闘うことにあると思います。足を動かしたり、腰を退いたりして痛みから逃げることもなく、逆に痛みと闘うこともなく、痛みの真っ直中に落ち着き、リラックスし、痛みに飲み込まれるまま、痛みを受け入れるべきです。いうまでもなく、これほど難しいことはありません。逃げなくてもよい、闘わなくてもよい、何もしなくてよいという意味では、確かに「安楽の法門」には間違いありませんが、人間はどうしても「何もしない」ほど難しいことはありません。
 繰り返しいいますが、坐禅はあなたの修行ですから、その責任をあなた自身が持っていなければなりません。坐禅のために何処まで自分を犠牲にするのも、あなた自身が決めることです。この道のために手足を落とし、命まで落とした禅祖はたくさんいますが、あなたも同じ覚悟を決めるかどうかは、あなた次第です。念のためにいいますが、禅修行とは心を高めるために身体を犠牲にするということでは、決してありません。が、心や身体の健康のためにするものでもないのです。
 何れ、あなたも私も死にます。
(続く・堂頭)



バケツに焼酎
 先日、1人で出掛ける機会があった。安泰寺に来てからお抱え運転手Mと分身mがほとんどいつも一緒なので1人で出掛けるということは本当に久々で、ついつい大阪にいた頃に愛用していたMDウォークマンをお供に安泰寺を後にした。バスの中で気分良く懐かしい曲を聴いている時、頭の中にぱーっと“あの頃”の情景が浮かんできてナミダがでてきた。明け方、白い息を吐きながら自転車を漕いでいたあの頃。毎日が不安定で、毎晩、大量のお酒を飲んで悶々としていた。しかし気持ちは今よりもずっと前向きだったような気がする。そして今、自分のことを大事に思ってくれる人と一緒にいて、分身もこの世に誕生したというのに、気持ちが“あの頃”に向いているのは何故なのだろう。「今」の私の起点があの頃にあるからだろうか。Mと出会い、バイトを4つ掛け持ちし、睡眠もあまりとらずに大阪の街を自転車でぐるぐる回っていた。愚痴をこぼしながらも毎日いっぱいいっぱい生きていたような気がするのは「今」があるからだろうか。“あの頃”は「今」にとって常に光り 輝くものであるに違いない。しかし、この今、「今」が光り輝くものになるように私自身が努力する必要があると気付いた今日この頃である。
(ともみ)

      

9月28日、聖観さんと達生さんの得度式が無事執り行われた。
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