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〜2005年 8月〜
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正しい坐り方 8
いつ、何を食べるか
(大人の修行 その28)
 ドイツでは食事について「朝は騎士のように、昼は王様のように、夜は乞食のように」ということわざがあります。要するに、これから仕事をしようとする時の朝ご飯と、仕事中の一休みである昼ご飯だけはしっかり食べなさい、という意味です。仕事が終わって、この後、寝るだけだという晩ご飯は逆に控え目に取りなさい、と。私の育った家庭では昼食だけ温かいご飯が出て、朝と晩はもっぱらパン食でしたが、一般のドイツの家庭も似たようなものだと思います。夜よりむしろ昼に食べるのです。日本人は逆に夕ご飯を重んじているようです。朝は何も食べずに、昼も簡単なお弁当で済ましている人は少なくないと思います。そうするとどうしても仕事が終わった後、寝る前に食事をたくさん摂ることになってしまいます。安泰寺の接心でも、過去に朝ご飯だけ控えて坐っていた雲水が何人かいました。彼らに言わせれば、朝ご飯を食べなければ、頭がスッキリし、あまり居眠りをしないそうです。ところが、昼に天麩羅うどんが目の前に現れてきますと食欲は押さえきれず、食べるだけ食べて、午後の坐禅はぐっすり眠ってしまいます。個人差や文化の違いこそあれ、昼を過ぎてからたくさん食べだすというのは、私には不健康かつ不経済的に思えてなりません。やはり寝る前ではなく、これから仕事にかかろうとするときに栄養を摂るべきではないでしょうか。仏教の伝統においても、昼過ぎに食事を摂るのは本来、禁じられています。禅寺の夕ご飯を「薬石」と呼んでいるのもそのためです。本来、昼過ぎの食事はないはずですから、「食事」と言わず「薬」と呼んでいるわけです。道元禅師の典座教訓の中では「薬石」の話は一切出てこず、昼食の後片づけが終わったら、典座は早速次の朝の食事の準備にかかります。ただし、同じ「永平清規」の中の「衆寮に於いて喫湯す」という文について、沢木老師はこの「湯」は「米湯」という極く軽いお粥ではなかったかと推測されています。つまり、朝や昼の食事の残りをお湯で溶かして休み時間に飲んでいたということです。そうなれば、なるほど「食事」というよりも「薬」程度です。その「薬」はいつの間にかおじやになり、そしていつの間にか朝ご飯(お粥に梅干し)よりも立派なご飯になってしまったわけです。

 それでも、「薬石」は「薬石」と呼ばれ続けていますし、朝や昼のように誦経をしながらいただくということもしません。中身はちゃんとしたご飯でも、建前では食事ではないのですから、略式で食べるのです。しかし、いわゆる認可僧堂(お坊さんになるための専門学校のようなもの)の雲水が本当に食べ出すのは、夜9時の「開枕」以降ではないでしょうか。この時間では電気を消して寝るか、一人で坐禅をするのが本来なのですが、多くの僧堂ではこの時間が「余暇」として解釈され、雲水の唯一の自由時間になります。そして、日中いちおう形通りの修行をこなしている若いお寺の息子達は長い一日のストレスを発散するため、夜な夜な好きな酒や肉を飲食します。そうなりますと、応量器で僧堂で食べる3度の食事(無論、精進料理です)は単なる芝居に過ぎません。そうではなく、生活そのものを修行と心得た場合、「いつ、何を食べるか」というのが大きな課題になります。

 最初に安泰寺を訪れる参禅者の多くは、ここでは普段の食事に精進料理以外のものも出るということにびっくりします。かの私自身もそうでした。子供の頃から肉は苦手で、お坊さんになるまではずっと菜食主義でした(が、乳製品と卵は平気でした)。ただ幼い時、親に「この子は噛むのが億劫なだけだ」と言われ肉を無理矢理食べさせられたことはよくありました。 それはともかく、お坊さんになれば当然ながら肉も魚も食べずに済むと思っていたら、大違いでした。雲水が精進料理にこだわらないばかりか、菜食主義者の私にも肉や魚を進めてきます。彼らは肉や魚を目の前に、しかめっ面をした私に向かって「好き嫌いを言わずに、出された物をすべてありがたくいただくのが雲水。殺すなかれというのではなく、せっかく食卓に出た肉・魚をどう生かすかという問題だ」と諭したものです。当時はひねくれた屁理屈にしか聞こえなかった論理なのですが、「群を抜いて益なし」という道元禅では皆に従ってゆくしかありませんでした。そして今では当然、自分の主義を通すよりも、お布施としていただいた肉類をその施主が喜ぶように美味しくいただいた方がよいと思っています。実際にこの15年間の間、乳製品をほとんど摂らなくなったせいか、肉を美味しく食べられるようになりました。とは言っても、安泰寺の食卓に並ぶ90%以上の物は寺の田畑で採れた玄米や野菜ですから、肉や魚が出ることは滅多にありません。生臭いものと言えば、本だしと自家製の卵です。一切の修行生活がそうであるように、食べることに関しても大事なのは特定な食事療法へのこだわりではなく、道元禅師のいう「柔軟心(にゅうなんしん)」です。少なくとも私自身にとって、菜食主義を通そうと思えば簡単ですが、自分の頭を柔らかくすることはなかなか大変なことです。

 「柔軟心」とはつまり今年の4月号から問題にしている「忍辱の婆羅蜜」の実践です。かといって、何を食べてもいいというわけではありません。「食べること=生きること」とまで言わなくても、食べることが自分の生活におよぼす影響は非常に大きいというのは確かです。坐禅にしても、辛いものを食べた後の坐禅と、甘い物を食べた後の坐禅と、酸っぱいもの食べた後の坐禅の中身は、それぞれ違うと言うことは実際にやってみればすぐ分かるはずです。坐禅が変わるだけではなく、自分自身が食べ物・食べ方によって変わります。道元禅師が食事の仕方を何よりも大事にされている理由の一つもここにあると思います。出された物をすべてありがたくいただく(「比丘の口は竈のごとし」・・・典座教訓)というのが雲水の食事の基本であれば、食卓に食べ物を出す典座の責任も重くなります。なぜなら食事の内容によって、皆の修行の内容も変わってくるからです。道元禅師が宋の中国で体験された話が書かれている「宝鏡記」では、如浄禅師は「五辛を食ふべからず、肉を食ふべからず、多く乳並びに蜜等を食ふべからず、飲酒すべからず、諸の不浄食を食ふべからず、諸の生硬物を食ふべからず、久損せる山茶、及び風病薬を喫すべからず、諸の椹を喫することなかれ、多く乳並びに蘇蜜等を喫することなかれ、扇ダ・半荼迦等の類に親厚することなかれ、多く梅干し及び乾栗を喫することなかれ、多く龍眼・茘枝・橄欖を喫することなかれ、多く沙糖・霜糖を喫することなかれ、兵軍の食を喫することなかれ」と、非常に事細かな注意を施されています。そもそも「精進料理」というのはただ「肉や魚を頂戴しない」という意味ではなく、その他にもタマネギやニンニクのような、妄想を起こすような野菜も使わないのです。

 先も述べました通り、安泰寺では肉や魚の場合でも、お布施としていただいたものはすべて調理して食卓に出されています。若い西洋人に多い菜食主義者達を除けば、日頃野菜ばかり食べている雲水達はこれら「生臭いもの」を文句言わず頂戴しているというより、ご馳走としてむしろ喜んでいます。そのせいか、典座が接心のためにこうした皆に喜ばれる物をとっておくことがあります。接心中は朝から晩まで眠気と足の痛さとの戦いですから、食事ぐらいは美味しい物が食べたいというのが雲水の本音です。ところが、接心中に毎日のように肉や魚が出ますと、ただでさえ痛い足はますます痛くなり、ただでさえ眠いのがいよいよぐっすり眠ってしまうのが実感できるのではないかと思います。とはいうもの、接心中だけ精進料理にこだわり、接心が終わった途端に暴飲暴食するのも変な話です。安泰寺の接心の最後の食事は決まってカレーライスなのですが、月に2・3回しか出ない白米(安泰寺は基本としては玄米食)とそのカレーの美味しさに負けてついつい食べ過ぎてしまった経験を私は何回も持っています。接心中であろうが、如常の日であろうが、食事は常に大事であり、食べ物・食べ方は修行の基本の一つをなしているのです。

 もう一つの基本はその修行生活を支える作務(仕事)への取り組み方です。私たちがストレスを感じたり、ひどく疲れたりするのは、ある栄養剤のコマーシャルが主張するように「前向きに生きているから」ではなく、むしろ作務の意味を分かっていないからだと思いますが、この点についてはまた来月に・・・
続く  (堂頭)


真髄から腐ってしまった禅宗
オウム事件から10年(その6)
 オウムの一般信者を「『日常底』において受け入れるのを基本とする」ことから臨黄教団のシンポジウムが出発しました。そして「その対応は、現在彼らが精神的社会的に抱えている特殊事情をよく配慮して彼らのためにも慎重になすべきであるが、基本的には、檀信徒および一般人に対してなすべき布教活動と本質的に同一のものであるべきである」と続きましたが、しばらくしてそんなことが無理であるということに気づきました。なぜかと言えば、肝心な 「檀信徒および一般人に対してなすべき布教活動」がそもそも出来ていないからです。

 オウム事件に関するシンポジウムの最後、「臨黄教団に共通する基本的な問題、例えば後継者の育成および寺族に関する問題、現代の教義および布教に関する諸問題など」に付言されました。何の問題かと言えば、今のお寺から仏教(仏の教え)が消えてしまったと言うことです。仏教が存在しないお寺に救いや癒しなどを求める人が来ないのも、無理のない話です。まずシンポジウムのレポートから引用しましょう。

 「「われわれ」は開山祖師の恩によって寺院の住職となり、開山祖師の縁故によって教団を組織してきたが故に、開山祖師の御徳の顕彰には熱心であった。しかし、開山祖師がそこに寺院を建立してなそうとされた真意、すなわち、歴史的現実社会(衆生)の安寧と救済というその誓願を、「われわれ」の時代において受けとめ直し生かすという真の顕彰の努力を欠いてきたのではないか。臨黄の各寺院・各教団が、今日ではもはや、社会の一風景にすぎなくなったと言われる原因は、「われわれ」宗門人のかかる努力と自覚の欠如にあることを深く反省する必要がある。」

 御開山・祖師方を拝みながら、その真意を継ごうとしない現代のブッキョウ。どうしてそうなったかといいますと、原因としてまず「檀家制度」が述べられています。

 「寺院の大半は、軽重の差はあれ基本的に、現在もなおいわゆる檀家制度、言い換えれば、祖霊をまつる“家の宗教”に依存する仕方で存続がはかられ、住職の布教活動も檀家の葬式と法事とを執り行なうのを主たる事としている。・・・「われわれ」の問題点は、これをただ江戸時代の“寺受け制度”以来の社会習俗そのままに受容し、そこに安住して、何ら基本的な見直しをなさずに今日まで来たという点である。換言すれば、「われわれ」の意識には近代という時代が明確には入っていないということである。・・・「われわれ」は自らの基本的立場を、「直指人心・見性成仏」という個々人の最も主体的な宗教的自覚の事実に見出だし、「一箇半箇」という峻厳きわまりない「見性」のための主体的教育課程を伝統的に堅持し実践してきながら、この自らの立場と実践経験を近代的な“個人の信仰”の確立に生かし展開する教義ならびに布教方法を構築せぬまま今日まで無為にすごし、ただ檀家制度と“家の宗教”の旧習に安んじてきたのではないか。しかし単に旧態のままなる“家の宗教”は、情報化の急速な発達とグローバルな経済活動の展開など生活環境の変化によって「われわれ」の足下でその崩壊の度をはやめてきている。このような歴史的社会的情況下にあってなお禅宗寺院ならびに宗門の存在意義を発揚せんとするならば、「われわれ」一人ひとりが自らの意識を革新して檀家制度と布教活動を根本的に見直し、檀家との新たな関係を構築して行く必要がある。」

 つまり、現在の寺院は本来の役目であった各個人の精神的な要求を満たすことなく、代々の祖先崇拝の文化をもつ日本で必要とされてきた「葬式・法事」というサービス業を営む会社に成り下がったというのです。そして、そういう「商売寺」はもはや時代遅れになってしまいました。寺院の無力化の理由の一つとして、禅僧の妻帯が挙げられています。

 「禅僧もいまや、その大半の現状において、妻帯し、しかも檀家制度に立脚している寺院の現状において寺庭婦人の持つ役割には種々の面において大きなものがある。しかし、この現状に多くの問題が含まれていることも事実である。基本的な問題としては、禅僧の妻帯そのものが教義上いまだに明確にされておらず、寺庭婦人の地位もただ現状の追認という仕方でのみ各教団が是認しているにすぎないという問題がある。にもかかわらずと言うべきか、むしろその故にと言うべきか、他面では、寺院がいわゆる寺族にとって快適な家庭と化す傾向が強まっており、檀信徒にとってすら気やすく出入りできない私的な空間になりつつある。」

 お寺といえば今や「仏の教えを実践する道場」ではなく、単なる葬式場です。出家の建前からその家庭・家族を「寺庭・寺族」と呼びますが、中身はお葬式屋の自宅です。その「ご自宅」には悩める若者どころか、お寺を昔から支えてきた檀家さんでさえ気安く出入りできないというのです。しかし、問題は各寺院にのみあるのではなく、包括教団中区にもあります。

 「従来、各教団は・・・この事への対応は各寺院住職および布教師各人の見識にいわば委ねるという仕方で、この問題の本格的な検討を回避してきた。しかし、事態はすでにかかる教団の姿勢を許さないところに至っており、布教の最前線にいる各住職の教団中枢(本山)の宗務行政に対する信頼の喪失は今や絶望にかわりつつある。特にこの傾向は、ある面では当然の事ながら、各教団の若く覇気ある住職たちに強く、彼らは、もはや教団を頼りにせず、教団とは無関係に独自の組織を形成して、いま自分たちに何が出来、何をなさねばならぬかを真剣に模索し始めている。」

 教団はその真髄から腐っていますから、数は少ないにしても心ある僧侶はだんだん組織から離れようとします。当然と言えば当然な動きです。日本の宗教の展開は教団中区が設ける研究機関などにはとうてい期待できるものではありません。そんなカネの無駄遣いばかり考えている組織と関係なく、ひたすら自分の問題に向かって掘り下げている若い彼らの肩に禅の将来がかかっています。
  (続く・ネルケ無方)


熱湯風呂、頑張るぞ!
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