【火中の蓮】
〜2007年 3月号〜

[前号] [次号]
    

坊主の妻帯
日本仏教の堕落の原因(I)(オウムから12年・その15)

Abt Muho mit Kindern in der Badewanne

入浴中のネルケ無方堂頭。

 オウム事件からもはや12年間がすぎようとしています。この事件の背景には日本仏教の堕落があるということはできます。もしお坊さんがひごろ仏の教えを一般の人々に身を以て説いてさえいれば、この事件は起きてこなかったと、私は信じています。さて、そもそも日本仏教の堕落の原因はどこにあるのでしょうか。まずあげられるのは、「坊主の妻帯」です。

 つまり、お坊さんが結婚して、家庭を持つということです。現に私自身も5年前から結婚していて、子供が2人おります。独身をつらぬくお坊さんは全くいないわけではありませんが、お寺に嫁さんがいて子供がいるという風景は今やごく当たり前になっています。しかし、これは日本だけの話で、日本以外のアジアの仏教国から「日本にはお寺は存在するかもしれないが、お坊さんは存在しない」と批判が聞こえてくるゆえんもここにあります。お坊さんが結婚するということは、日本以外のアジアでは考えられないことであり、日本でも明治維新までは(浄土真宗を除けば)なかったことでしょう。もちろん、アジアで日本の仏教のイメージを悪くしているのは、僧侶の妻帯だけではなく、日本のお坊さんが好んで行う韓国、台湾やタイへの「慰安旅行」にも原因しているでしょう。

 どうしてお坊さんが明治維新まで結婚しなかったかと言いますと、仏教に昔から「不淫戒」という戒律があったからです。一生男女の交わりをしないということです。今はお坊さんの間でも「不淫戒」といって、在家の人と同じく、夫婦の間のセックスは認められています。「不淫戒」ならぬ「不淫戒」はそもそもどうしてできたのでしょうか。ひとつ考えられるのは、仏教を極めるためには非常に深い定力(じょうりき・坐禅の力)が必要とされますが、セックスをするとこの力が失われると言われています。逆に、不淫戒を守っていると時間や精力を無駄に使わないため、強い力が身に付くと言います。また、性欲が原因で浮かんでくる妄想も多いですから、なるべく性欲と縁を絶つと言うことでしょうか。あるいは、不淫戒が設けられた直接の原因は、女性に対する恐怖心のよう なものがあり、僧侶の修行を妨げ る存在で、女性は覚者にはなれないからだという解釈もあります。

 しかし、お坊さんが結婚するようになったのは、仏教のこの戒律の中身が変わったからではなく、国の法律が変わったからです。明治五年の布告で「肉食妻帯勝手なるべし」ということになりました。お坊さんと言えども、肉を食べるのも、妻を持つのも各々の好きなように、ということです。国の法律が変われば、お坊さんの生活形式がガラッと一転すると言うことは、それまで独身を貫いていたお坊さんたちも、実は仏教の戒律を守っていたのではなく、国の法律を守っていただけかもしれません。つまり、明治維新以前から、戒律はすでに空洞化していたはずです。一説によれば、それまで寺院法度によって禁止されていた僧侶の肉食妻帯を明治政府が認めたことにより、戒律を犯させることで僧侶を破戒させようとして、仏教を弱体化するように誘導しました。また僧侶の下に置かれていた神官は政府の威をかりて、仏教の全てを否定し破壊する「廃仏毀釈」運動を起こしました。つまり、表向きでは「肉食妻帯は勝手」ですが、その狙いは僧侶の地位を奪うことではなかったか、という推理です。しかし、ここで忘れては行けないのが、後の朝鮮半島侵略の時や、中国の文化大革命の時と違い、僧侶が半ば強制的に結婚させられたケースがないことです。政府はあくまでも僧侶各自の自由意思に任せたことで、結果的に今の日本仏教界の大部分が妻帯することになりました。

 日本仏教は大乗仏教と呼ばれていますが、大乗仏教はインドのおける一大思想運動として起こりました。それまでの出家者中心の上座仏教と違い、その運動の中心になったのは仏教の在家信者ではないかと言われています。また、大乗仏教の狙いもまた禁欲による各個人の解脱というより、苦の中にある全ての生き物たちの救いを目的とします。出発点から大乗仏教者の狙いは在家と友に生きることであり、在家と離脱することではありません。ならば、在家と出家の生活の形式の違いもなるべくない方がいいはずです。では、僧侶の妻帯はなぜ問題なのでしょうか。妻帯は日本仏教の堕落とどう関係しているのでしょうか。セックスをするかしないかという問題ではないような気がいたします。

 安泰寺の住職(堂頭)は数代前から結婚しています。しかし、自分の子供に寺を継がせた堂頭はまだいません。また、堂頭が結婚していても、堂頭の寺での生活と家庭生活は分かれています。例えば食事は堂頭は他の修行僧と共に食べており、家庭は家庭で(堂頭抜き)で食べます。他のお寺のように、家内を「寺族」と呼んだり、家庭を「寺庭」と呼んだりもしません。また、他の修行僧が結婚していても、あるいは彼女がいても、カップルとして一緒に寺で暮らすことは出来ません。

 安泰寺のこう言った現状には様々な理由がありますが、このままでは問題がないということは決してありません。一方は僧侶が結婚して家族を持つ事の意義、修行の場としての家庭と、他方は寺と家庭を分ける必要、叢林(修行者の集い)の中に家庭を持ち込まないことの理由をハッキリさせることは今後の安泰寺の大きな課題としてあると思います。また、安泰寺のみならず、日本仏教がれっきとした仏教として生き残れるかどうかということも、こういった課題が解決されるかどうかにかかってくると思います。

 寺と妻帯の諸問題についてはまた来月考えたいと思います。

(続く・堂頭)


淨土眞宗僧侶の孫に生まれて。



焼き餅。

父は真宗の僧侶の4男。山口県の東部出身。現在は寺とは無縁の設備設計士。
寺を継いだ伯父曰、「一番寺と関係なかったんやけどなぁ。なんで息子らが佛教に関係してるんやろう。」と
弟は、一人は龍谷大学仏教学博士課程。もう一人は佛教大学佛教学科チベット語にはまっている。
私は、某キリスト教系大学の法学部を卒業。公務員になろうと思って、大学に入ったはずだったんですが。
色々思うことあって、出家して安泰寺で僧侶に。
僧侶として一生生きていけたらなんて、素晴らしいんだろうかと思ったのが出家の動機。 

したいことが、あったら何でもできる可能性がある。
いやいややってるやつでも、比較的困らず食べていける。

出家する前に色々思い悩んだ結果が僧侶についてはこう思っていた。
もちろん、前者をとろうと思って安泰寺にまでやってきました。

年末年始に神戸、大阪近郊を托鉢していました。はじめての事でどうなることかと思いましたが、
澤山の方が喜捨してくださり、そのおかげで、自分の佛教・坐禅にたいする気持ちがすっきりし、
これだけの人が僧侶としての私をさせてくれているのだと思うと、それに応えるに値する人間になろうと、
絶えず修行していかないといけないなぁと、気持ちが引き締まりました。

アジアの佛教国は学生の頃ふらっとだいたい行きました。
もちろん戒律を守って、まじめな僧侶が主流の国が多数ですが。
滅茶苦茶な僧侶はどこの国にもいるし、程度の差だと思います。
在家の尊崇をうけ、支えられているといった点では日本も他の国とはなんら変わることがなく。
日本の佛教も、佛教と呼べるのじゃないでしょうか。
異国の僧侶がどう思おうと、私達にとって大切なことは、より身近な人とのかかわりあいだと思います。
だからといって、それに胡坐をかいて、のうのうとしている者を弁護する気はさらさら有りませんし。
いやいや、家業としてやっている方には、辞めていただきたいと思っています。
2代目社長はたいがいろくでもないように。(もちろん例外多数あり)

そのためにも世襲の寺が少なくなればと思います。
もしくは、世襲ではない寺が増えればと思います。

そういう私も、結婚したいと思う彼女がいるのに、安泰寺にやってきて修行している僧侶です。
色々と問題が山積みだけれども、渇愛とはいうものの、求不得苦、愛別離苦というものの。
できれば一緒にいたいです。
もちろんそんなことは、いってられないので寺での事を黙々とやっておるつもりです。
時にはご迷惑をおかけしながら。

学生の頃読んだ、南傳大藏經の1巻目に確か、不邪淫戒制定のいわれの文章があったと思う。
違っていたらごめんなさい。図書館の南傳なぜか1,2,4,5巻が歯抜け。他にも数巻
なので覚えている範囲で書くと。

極悪な僧侶が、女性に最高の布施は、おまえ自身だ、やらせろと
いざ、事に及ぶと、そんな汚らわしいもを見せるなといって、唾棄して帰った
それ以降、戒が制定されたとさ。

もしかしたら、別の戒と勘違いしているかもしれないけれども、
戒の制定にこんなきっかけがあったりすることを思うと。
文字通り戒律を守っている僧を見ると、大丈夫か?と正直思ってしまわざるを得ないところもある。
他にも有り得ない話がごろごろ律藏にはごろごろしている

修行者に彼女がいることも、
僧侶が結婚することについても、伝統的には問題なのだし、弊害も多いけれども、
結局は自分がそれをどう扱えるか。
弊害も多い分、利点も多々あると思う。
私は、僧侶の孫に生まれるという、他の佛教国ではありえないはずの存在ですが。
正直、疑問に思ったことも、考えたこともないぐらい普通の事だと思っていました。

僧侶、父、夫いろいろな面が人にはあるけど、
そんなものが切り離されて、その人ができているわけではないので、
この部分に関しては尊敬できるけれども、それ以外はちょっとといったことがあるのならば、
むしろ総て拒絶すればいいと思う。それは学ぶ側の問題だともう。
結局は、どれだけ自分が学べるか、与えれるかそれだけだと思う。

だから、機能としては分ける必要があるのだろうけれども、
奥の間に閉じこもって寺と家庭は別ですからと、不自然なかかわりも違和感がある。
寺と、家庭を二つ持つ生活をする必要はまったくないと思う。
バランスが難しいけれども。
日本佛教の問題として、あえてあげるなら、選択の余地の無い檀家制だと思う。

色々と考えたい問題があふれ出てきました。
現在冬安居終盤です。
4月からは参禅者の季節です。
坐禅・自給自足・作務・托鉢・集団生活・冬は勉強・英語。
安泰寺は色々なことが学べて本当に自分にとっては、いいところです。
ちょっと、マンセーモードになっちゃいました。すいません
合掌

(直心 こと 小野嶋智雄)

[前号] [次号]