【火中の蓮】
〜2007年 4月号〜

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足を組む
正しい坐り方15 (大人の修行・その35)
坐禅における足の組み方

沢木興道著
「禅談」より
坐禅における足の組み方

内山興正著
「坐禅の意味と実際」より
坐禅における足の組み方

内山興正著
「坐禅の意味と実際」の英訳より

 最後に「大人の修行」の中の「正しい坐り方」について書いたのは、今からちょうど1年前のことです。これから肝心な「坐禅の身構え」に入ろうとしているのに、このシリーズを長い間休ませてしまいました。理由は簡単に言えば「いろいろ忙しかったから」ですが、これは決して「たかが足の組み方を説明する暇がなかった」という意味ではありません。むしろ、これから足の組み方で始まる身構えが坐禅の本番だからこそ、これだけは下手には書きたくないと言う思いがあったのです。もちろん、今となって上手に書けるという自身は全くありませんが、そろそろ書き出さなければ、いつまで経っても書けないかもしれません。ですから、今月からこの「大人の修行・正しい坐り方」の話もまた少しずつ進めたいと思います。

 去年の四月号で澤木老師の「坐禪の仕方」の中の「坐禪の身構え」の(一)を説明しました。今回はその続きです。

 「坐禪の身構え」

 二)蒲團の上に臀を下ろし、兩足を前に揃へ、兩裾を持ち乍ら、不作法にならぬ様に、其の中で足を組み、裾でこれを覆ひ包むやうにする。蒲團には脊骨だけ載せる氣持で、あまり深くしない。従つて蒲團の半分は臀から後の方に出る位がよい。組んだ足は坐褥の方につくのである。

 ここで大事なのは、座蒲(蒲團)と坐褥の正しい使い方です。座蒲はあくまでも腰を入れやすくするために当てるのであって、身体全体を支えるものではありません。両膝はしっかりと坐褥(あるいは、坐褥がない場合は:畳)につきます。体重は背骨と両膝の三脚点によって支えられます。座蒲を用いない臨済宗では長目の坐褥を適当に折り畳み、腰当てにしますが、その仕方が分からず腰が抜けた状態で坐っている雲水も大勢います。
 足を組むときは失礼のないように、裾の中で組み、人に見えないようにします。

 三)足の組み方に結跏趺坐と半跏趺坐との二通りある。
 イ)結跏趺坐
 先づ右の足を左の腿の上にのせ、次に左の足を右の腿の上にのせて、兩足を交叉せしめる。足の指先が腿の外側に達せしめると云ふ氣持になると深くのせることが出来る。初心の間は足が痛んで中々うまくは出来ないが度重なれば次第に形も調うてくる。
 ロ)半跏趺坐
 左の足を右の腿の上に深くのせるだけでよい。右の足は普通に左の腿の下にかいこんで置く。

 また、ここは小さな字で

 足の形にも種々あるから、どうしても原則的な組み方が出来ない人は逆の組み方でもよい。又坐禪の最中に足が痛くなって、どうにも仕様のない場合にも足を組み替へてもよい。或は結跏から半跏に、半跏から結跏に直してもよい。

 という優しい<注意>があります。安泰寺では坐禅中、足を組み替えることをあまり勧めておりませんが、ここでの口調は、2005年の2月で見た「坐禅の仕方」の中の「かくして尻をグッと後方に引き、尻の孔が後方に向くやうに尻を後に突き出す。・・・顎は耳の後の皮が痛くなる位にグッと引く。・・・斯やうにして腰の力をゆるめぬやうにして意志を緊張しておくことだ。」という口宣とはだいぶ違います。

 それはともかくとして、足の組み方について問題にしたい点は二つあります。一つは、「足を深くのせる」という場合の「指先が腿の外側に達せしめると云ふ氣持」の「氣持」の意味です。「実際に足指は太腿の間中あたりにのっており、外側に達していないが、一応深くのせているつもりで坐ってみろ」という意味で取るべきなのか、それとも「実際に足指は(最初は無理かもしれないが)太腿の外側に達するように、工夫せよ」といいたいのか、という問題です。

 もう一つは、「どうしても原則的な組み方が出来ない人は逆の組み方でもよい」という注意書きがありましたが、「原則的な組み方」とそうでない組み方の違いです。道元禅師は「結跏趺坐=左の腿に右の足をのせ、右の腿に左の足をのせる。半跏趺坐=右の腿の上に左の足をのせる。」、つまりどちらにしても「左が上」という「原則的な組み方」にしか言及しておられません。たまたまその逆の組み方に言及していないだけなのか、それともハッキリした理由があってそうしているのか、ということが考えられます。理由はないはずがないと私は思いますが、その理由は単に歴史的・文化的背景なのか、それとも人間の身体の構造、坐禅の仕組みに由来するのかが問題です。その理由の如何によって、ここで道元禅師の「坐禅儀」を簡単にひっくり返してよいものかどうかが問われます。また、足は逆の組み方でもよいとありますが、はて、手の組み方は・・・、という問題もあります。

 どちらも細かい問題に見えるかもしれませんが、安泰寺のように年間1800時間を「あるいは結跏趺坐、あるいは半跏趺坐」という姿勢で過ごしますが、決して一笑に付すような問題ではないような気がいたします。いずれにせよ、次回でこれらの問題をさらに検討したいと思います。

(続く・堂頭)




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