【帰命】
〜まっさらな自分 に立ち返る〜
〜4月号〜

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迷を大悟する

 道元禅師の現成公案の中に次の三つの文書がでてきます。
 「迷を大悟するは諸仏なり、悟りに大迷なるは衆生なり。」
 「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり、法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。」
 「身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。」

 この三つの文書は現成公案の最初と間中と後のあたりででてき、直接には繋がっていませんが、同じテーマを展開していると思います。修行しようと思っている私達は最初、修行して執着や煩悩を捨てたり、自分のためになるものをつかんだり、自分を見直してもっとマシな人間になったり、最終的には無の境地に達したり、悟ったりしようとします。道元禅師はこれを「悟りに大迷なる」といいます。修行や悟りのあり方に大いに迷うことです。また、「はるかに法の辺際を離却せり」、法というものから遠く離れてしまうことです。

 ところが、私達にはそういう自覚が全くありません。逆に、自分の問題は何なのか、その解決はどの方面にあるのか、そこにたどり着くにはどんな手段がよいのか、自分で一番分かっているつもりです。分かっているつもりですが、本当は何も分かっていないのです。自分の本当の問題が分からないのですから、間違った方向に向かっているのも無理ありません。しかし、そういう間違った方向に向かっていくらがんばって修行して坐禅していても、自分が求めている解決を得ることは出来ないはずです。

 道元禅師の言葉で言えば「身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。」右も左も分かっていないくせに、分かったつもりになって、自分はけっこうイイ線行っていると思ってしまいます。自分の坐禅もけっこう熟成してきたと思っているのは、本当は坐禅していないからです。自分の執着もけっこう減ってきたと思うのは、自分の心の境地に執着しているからです。人よりもマシな人間になったかなぁと思うのに、本当は人に迷惑ばかりかけているだけです。

 そうではなく、まず「迷を大悟」しなければなりません。迷いを捨てて悟のではなく、迷いを悟るのです。迷いという現実に目覚めることです。「迷中又迷の漢」というのは大菩薩の別称です。そして、「ひとかたはたらずとおぼゆる」・まだ片方は足りないという思いが生じなければダメです。修行して得るものがあった、精神修養になったと思うのであれば、その修行のどこかがおかしいはずです。修行すればするほど、私の欠点がハッキリと見えてこなければなりません。坐禅したら煩悩が多くなった、とよく言われるのもそのためだと思います。無念無想の状態を楽しむことは坐禅ではないような気がします。なにしろ、自分が満足するような修行を道元禅師は「修行」と呼びません。

 道元禅師は「一方は足らず」と思う人をこそ「本分人」と名付けます。「法すでにおのれに正伝するとき」・・・そもそも法から落ちこぼれることは不可能ですが、その法を自分の外側に求めているなら、勝手に法から遠ざかっているだけです。このことに気付いて坐禅するということは、自分と法が別れる以前の所に帰ることです。そのところは言うまでもなく、いま・ここ。しかもいま・ここの「一方は足らず」、いま・ここの外に生きる空間も時間もないからです。
(堂頭)

       


私の知らない世界

私の知らない世界。それって一体。というのも、とある人が‘知らない世界を見てみたくてここに来た’と言うからへそ曲がりの私は考えた。ここに来て一年経とうとしている。悲劇のヒロインも根性がついたもんだ(といっても先日また脱走しようとした)と思ったりする。ウンコ座りしてフキノトウなぞ採ってみる。てんぷらか味噌和えにしよう。出っ張った腹が圧迫されてうぐぅぅと言いながら採ってる時に思った。世界なんてあるようでない。本人次第である。見る眼で世界なんて変わるんだ。眼が死んでちゃ何処に行っても何をしても一緒。だからやっぱり些細な事にも感動できる心を持つようにしたいなぁと、さわやかな青空の下で片手にザルと包丁、足元は長靴を履いた私は改めて思った。
(トモミ)


夢の中で夢を行ずる

 「現実、現実というが、これみな夢である。夢の中での現実しかない。革命とか戦争とかいうと、ドエライことのように思うておるが、やはり夢の中のモガキである。死んでみれば『夢だったな』とようわかる。それを、生きているうちにカタヅカナイのが凡夫というものである。」(沢木興道老師)

 今、世界は戦争している。戦争の最前線で戦う者もいれば、戦争に反対し、平和のために戦う者もいる。どちらも、夢の中でもがいているにすぎない。皆は夢を見ているにすぎず、互いの夢の違いで喧嘩が起こる。坐禅も真新しい視点からものを見ないかぎり、自分の小さな頭の中でしか存在しえない「現実」のワクを外すことは出来ない。

 私達は夢を見、しかも自分だけの夢しか見ることはできない。退屈のあまりに夢を見続けたいのだ。退屈より夢がいい。

 安泰寺の生活の中では、絶えず自分の感情、考え、自我に基づく夢を手放さなければならない。現実を実現しなければならない。道を自由自在な夢として行ずるのだ。それは仏祖方の夢である。日々是好日・私達の頭がどこへ向こうとしても・・・中途半端な理念を捨ててしまえば、道の本当の夢を実現させることはもうはや後回しにすることは出来ない。言ってみれば、夢の中で夢を行じなければならない。仏道を現世の中で実現させるのだ。この現世は稲妻ほど早く移り変わるのだから、うっかりすれば、あっという間に命がつきてしまう。

 今の現実は私達を満足させるような現実ではない。そのため、退屈を感じたり時間をもっと早く過ぎてほしいと思ったりする。時間の経過が遅いようで、気がつけば私達の人生は過去のものとなった。しかし、私達はこの現実に直面しようとしない。悲しすぎるから。

 雪は溶け、その水で新しい春の生命が育つ。梅も咲き、毎日新しい鳥の鳴き声が聞こえてくる。自然に見習って、私達も自分の修行を改めなければならない。仏道を実現しなければならない。日々修行し、一日も無駄にしないこと。この声に耳を向けることが出来るだろうか。
(明世)

       


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