【帰命】
〜まっさらな自分 に立ち返る〜
〜5月号〜

[前号] [次号]


大人の修行(その1)
 安泰寺の堂頭になって、丸一年が経ちました。それまでは自分の修行しか心配することはありませんでしたが、師匠の指導の元で仲間と一緒に生活している雲水の立場から、堂頭という、修行者を指導し、参禅者に修行の如何を教えなければならない立場に変わりました。この一年の間、百数十名の参禅者と面接をし、坐禅や修行に対する疑問をぶつけられました。またそれ以前に、私自身も今年で坐禅が二十年目ですが、この二十年の間、坐禅や修行に対してたくさんの疑問を抱き、苦難を味わい、壁にぶつかったり行き詰まったりしました。今月から数回にわたって、自らの試行錯誤と四苦八苦の経験を踏まえて、互いに切磋琢磨してきた修行仲間や安泰寺を訪れてくる参禅者の疑問にも応じ、修行のあり方を考えてみたいと思います。

 「考えてみたい」というと、いかにも難しいことを考えているように聞こえるかもしれませんが、本当は坐禅や修行ほど簡単なものはありません。

 坐禅とは、修行とは何か?
 ただ坐る、ただやることである。
 何のためか?
 何のためでもない。ただやるのだ。仏法のために仏法をただやる。そこには何の目的もなく、求める物もなければ得られる物もない。今ここ、この自分に与えられた一瞬の命に従ってゆくだけだ。ありのままの現実になりきるのみ。

 理屈は極めて簡単です。ところが、理屈だけでは納得のいく修行ができません。修行は簡単なはずですが、なかなか納得のいく修行ができないのもまた事実です。どうしてでしょうか。
 また、求める物は何もないといわれても、誰だって最初は求める物があるからこそ修行しようと思っているはずです。何も求める物がなければ、修行しないのです。「ただ坐る」ために、誰が海を越え山を越えて安泰寺まで来ますか。どうしても修行の目的を立てて、その目的に向かって一生懸命がんばってしまいます。ところが、そういう出発の仕方が普通ですが、方向が間違っていますから、何年間そういう修行をやり続けても、行き詰まるのは当然です。問題は、行き詰まったときにどうするか、です。ここからは「大人の修行」のしどころであって、幼稚的な態度ではどうしても解決しにくいと思います。

 私の一人の先輩にいわせれば、何の手だてもなく「ただ坐ろう」とすることは「ちょうど幼稚園の子供が大学へ行って勉強するようなもの」だそうです。これを聞いて山田無文老師の言葉を思い出しました。私の記憶ではだいたい次の通りです。
 「宗教にも色々ある。幼稚園みたいな新興宗教もあれば、良いことをすればご褒美がもらえる、悪いことをすれば罰が当たる、という宗教の小学校もある。大乗仏教はそうではなく、宗教の大学である。そして禅は大学よりもむしろ宗教の大学院といわなければならない。」
 そして私の本師宮浦信雄老師はさらにいわれました。「ここは学校ではない。大の大人の叢林だ。」

 幼稚園児が大学で勉強しても意味がありません。大人でなければ、修行の最中で自分の壁にぶつかったとき、それを越えられません。幼稚な修行と大人の修行、その違いはどこにあるのかといわれれば、簡単にいえば、自分のケツが自分でふけるかどうか、ということです。いつまでも人にオンブしてもらおうと思っているのは幼稚園児。大人ならば、自分で工夫をしなければなりません。次号につづく。            
(堂頭)
これでも大人?!?

       
托鉢
安泰寺の安居者は先日、托鉢のために二週間ほど京阪神方面に出かけて来ました。日本人があれほどお坊さんに寄付をしてくれると思いませんでした。ほんとうに寛大だと思います。わたくしなど、とてもお布施を 頂ける立場ではありません。わたくしも普通の人間です、矛盾もあれば煩悩もあります。ただ、わらじと衣とあじろ笠を身につけているだけでした。

自分の罪悪感を晴らすために宗教に寄付をする人もいますけれども、日本人はむしろ純粋に仏道を慕っているではないかと思います。しかし、仏道を実際に修行したり、仏道のありかたをはっきりと弁えたりしない人はほとんどのようです。多くの日本人にとってお寺は観光の対象か、お盆のときだけお参りをする所です。

わたくしのまえを通る人々に皆声を掛けて話したいと、托鉢をしながらわたくしは考えました。しかし、そんな余裕は大都会の中の托鉢の場合に、とてもありません。では、わたくしが皆から受けた恩をどう返せばいいでしょうか。仏教の基本は自己ですから、まずわたくし自身が安泰寺において禅を一生懸命修行しなければなりません。そうすれば自分を磨きながら他の修行者達のためにもすべての人々のためにも少しでも役に立てれば、と思ってあります。それだけでも精一杯です。自分を磨くという事はわたくし達が死ぬまで精一杯やりとげなければならない事です。

安泰寺の素晴らしい所は、誰をも受け入れている事だと思います。歳も性別も国籍も関係ありません。日本の他の禅寺と大分違います。多くの場合は寺で泊まり修行をするためにかなりのお金が必要です。托鉢で頂いたお布施のおかげでわたくし達も修行ができ、そしてその修行に参加したい人もすべて安泰寺で受け入れられます。
(ジョエル)


       

坐禅雑感
 安泰寺を下山して早くも6年が過ぎました。その間どうにか坐禅を続けてきましたが、自らすすんで坐禅をするというところまでは至っていません。

 私がアメリカで暮らすようになり、また近くに禅宗がないこともあり、南方仏教へ通っています。そこでは接心にはたくさんの人が集まり共に坐るのですが、坐禅中であっても立つ人あり、歩く人あり、坐る人 の廻りを自由に動きまわるのです。それも慣れてくるとそういうものかと諦めもつくのですが、気がつけば真剣さえも萎えて、なぜ彼らは坐禅ができないのかと考える始末です。坐禅中は人を相手にするものではないのですが、環境が大きく影響することを知り得ました。

 安泰寺にあって、環境は静寂そのものですが、却って己の姿勢が常に問われます。坐禅を要に日常生活においていかに無心に働くことができるか。坐禅と生活を分けないところに禅たる所以を見る思いです。
(永流)


[前号] [次号]