【帰命】
〜まっさらな自分 に立ち返る〜
〜6月号〜

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何を修行するか
(大人の修行 その2)
 前回に続いて「大人の修行」を考えてみたいと思います。この「大人の修行」シリーズは長引きそうですが、付き合っていただければ幸いです。まず安泰寺で参禅者にかならず渡している参禅しおりに一番初めに出てくる文書を引用したいと思います(このホームページでは「参禅心得」として利用しております」)。

「安泰寺は仏菩薩の道場であり、真面目な求道者の集う叢林である。

 ここでの坐禅や作務などは生活の一部分として行われているのではなく、むしろ一日24時間の生活は生きた禅の現れでなければならない。こうした毎日の生活の中で表現されるべき命の働き以外には、安泰寺の修行、禅仏教の教え、宗教的な生き方等は一切ない。また安泰寺で精神的な指導や心の安らぎ、浮世を離れた山の静けさや大自然に適った共同生活、真実の道や永遠の幸福のようなものを望んでいても、こういったものは皆無である。

 安泰寺は自分自身の人生を菩薩修行として創造していく場所に他ならない。修行者は和合し、仲良く生活しなければならないのは勿論だが、他の援助を期待したり、教育されたりすることはないので、自分の修行は自分でしなければならない。いちばん大事なことは自分の方へ仏道を引き寄せるのではなく、自分の身も思いをも仏道の方へ投げ入れることだが、そのためには先ず自分は何のために安泰寺に来たのか、ここで何を修行しようとしているのか、をハッキリさせなければならない。

 自分が今生きているこの瞬間の命のほかに期待するものがあれば、必ず失望するであろう。自分をも人をも誤魔化さずに、私は一体何をしにここへ来たのか、と自分に問うてみられたい。」

 この文書は今から10年前、安泰寺に来る外国人参禅者のために私が書いた案内書の日本語訳です。この案内書を当時の堂頭だった宮浦老師に頼まれた書いたものでしたが、その時の私はまだ京都の大学で留学していて、得度も受けておらず、安泰寺で安居していたわけでもありません。以前大学を半年休んで、安泰寺で参禅したことはありましたが、雲水の生活はむしろ端から見ただけで、自分のすべてを仏道の中へ投げ出すというようなことは頭で考えていても、その実践の痛さはほとんど知りませんでした。
 「僧」にもなっていない外人の若僧にしては、ずいぶん生意気な文書になってしまいました。しかしその文書をのちに日本語にも訳し、今でもすべての参禅者に最初に読んでもらっていますし、今日読み返しても間違ったことは書いていないと思います。

 何で25歳の留学生がこんな文書を書いてしまったのでしょうか。その理由には、まず自分のそれまでの10年間の坐禅姿勢に対する反省があったと思います。禅というよりも「zen」を求め、その「zen」に何やら東洋的な、いや、洋の東西を越えた、計り知れない知恵を託していたのです。真実の道、本来の自己、生きる意義といってもいいと思います。それをとにかく遠く離れたところに求めてしまいました。そして求めているあまりに今の日常生活の中でもうすでにちゃんと現成している一瞬一瞬の生の命の連続には気付くことがありませんでした。
 このことにぼんやりと気付いたのは22歳の時の、あの半年の安泰寺暮らしの時です。それまでの自分の修行態度に対する反省と共に、先輩達の修行を見ても疑問を押さえきれませんでした。心から尊敬できる先輩もいましたが、この人ははたして何をしに安泰寺に来たのだろうか、という先輩にも巡り会いました。これは結局未熟な自分の心の反映に過ぎませんでしたが、次号まで。
(堂頭)


山本ダーリン
そろそろどこぞのアナからナゾの物体をリリースする時期にさしかかってきた。さすがに腹が前にせり出してきたがこんな私を見てこれはただの太りすぎか、栄養失調か、それとも妊娠かと思いをめぐらせる人もしばしばである。超健康体で山に入って山菜取り、廊下は走るし普段と違いはさしてない。ただ腹が出ているだけである。自分の腹の中でうにうにと物体が動くさまはまるでホラー映画のようで一人でそれを見つめてはにやりと笑ってしまう。ずっとずっと妊娠の事は隠してきた。産まれた子供も隠し子のように育てようかと思ったり。というのも人に自分の事を噂されたくないと思う一心からであった。久しぶりに話せば「…ということを聞きましたが」という噂が耳に入ってくる。噂をする人は当の本人にはじかに聞く勇気もないくせに裏でごたごたぐちゃぐちゃ。一つの事実も人というフィルターにかかれば違う事になったりもするもんだ。という事を念頭に今日も噂話に話を咲かせてください。真赤なラメラメぴちぴちパンタロンのへそだしで山本リ○ダのあの歌を歌いたい。うぅわさをしんじちゃいけないよぅ。…という私も噂に翻弄されているのだろうが。
(トモミ)


私の先輩
 私にとって安泰寺での生活は二つの意味でチャレンジです。一つは数え切れない決まり事ー大きな決まり事もありますが、ほとんどはどうでもいいような細かいルールです。もう一つは、ここが叢林だということです。安泰寺はただボチボチ坐禅をしながら、山々の美しさを楽しむような場所では決してありません。坐禅は禅の基本であるのは確かですが、禅は坐禅だけではありません。出会うところ我が生命ーこの姿勢こそ禅です。只官打坐にのみ集中するのではなく、日常生活のすべてに集中しなければなりません。食べること、働くこと、掃除すること、料理すること、そしてどうでも良さそうな細かいことー履き物をそろえること、トイレに入る前に合掌をすることなど。

 坐禅のおかげで、特に接心の時には、私が自分を見つけることが出来ます。しかし、むしろ日常生活の細々した働きの中で自分のエゴとぶつかることが多いようです。細かいことに集中することは得意ではありませんから、人のことを考え皆のために働かなければならない決まり事の多い叢林に置いて、自分の自己中心さ、怠け心は丸見えになってしまいます。

 私の修行にもう一つ大きな影響を与えたのは私の先輩です。彼は以前7年間安泰寺で修行してきましたが、今年は3ヶ月間だけここに戻りました。日本文化の中で先輩後輩といった上下関係は深く根付いています。下のものは上のものを尊敬し、言うことを聞かなければばなりません。安泰寺ではそれほど厳しくありませんが、私もやはりこれに従わなければなりませんでした。先輩は私に毎日のように怒りました。私はいつも何かを間違いました。果たしてすべての決まり事を守れるのか、自分でも疑問でした。逃げたくなったときもありました。しかし、今振り返ってみると、先輩がいたことを本当に有り難く思うようになりました。先輩によって自分の我見に気付かされ、自分のエゴの限界を超えさせられました。

 例えば典座当番に当たっている時、食事が終わるやいなや、すぐ自分の間違ったことをすべて言われてしまいます。もし10のうち7つができて3点が間違ったとしても、できた7つのことはもちろんほめてもらえず、間違った3点だけ言われるのです。私はよく落ち込みましたが、やがてよく出来るように成長しなければならないと思い、人にほめてもらおうと思わなくなりました。こうした姿勢の中では自分のエゴが取り除かれ、求めることなく仏道を歩むことが出来ると思います。

 私は先輩をも、ここの堂頭をも尊敬できます。私に怒っても、自分のエゴの立場から怒っているのではありません。自分もかつて私と同じ間違いをした経験があります。いや、安泰寺で過ごして長年で私よりもっともっとたくさん失敗した経験はあるでしょう。そして自分が怒られて成長したように、今こうして私に怒っているに過ぎません。命はサイクルのようで、すべては一つです。自と他は一如です。愚か者は自分を他人のようにしか思っていませんが、賢者は他人の中で自分を見つけます。愚か者は自分すら知らないー賢者は他人の行い、他人の失敗、他人の矛盾、他人の怒りなどの中、自分自身を発見します。

 永流様、いろいろとお教えいただき、ありがとうございました。お陰様で自分の欠点はもっとハッキリと見えてきました。アメリカでグッド・ラック!
(ジョエル)
     
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