【流転】
〜2002年2月〜
第九号

[前号]
良い事をするという 悪い事
 ボランティアはホームレスのテント村をたずね、弁当を配ってくれました。どこのテントにも声をかけていましたが、返事をするものは少ない。こちらも丁重に断りました。「こちらは食べられますが、食べられない方もいらっしゃると思いますので、そちらに回していただきたい。」本来なら、断るのではなく、食べるものがあるなら自分も一緒になって弁当を作って配ればいいのですが、そんな気には全くなれません。どうしてでしょうか。ボランティアがやっていることはいい事に間違いありません。大事な休日を使って、自分のお金を使って弁当を作りそれをホームレスに配っていきます。そのおかげで飢えを忍べ、厳しい冬を乗り越えられる方も多いでしょう。なぜか、「お前らの世話になるほど落ちてないぞ」という、迷惑そうな顔をなさる方もいらっしゃいます。どん底を生きるほど、プライドが傷つけやすくなるものです。

 「良い事をする」側があれば、「良い事をされる」側が出来てしまいます。また、「感謝される」、「感謝しなければならぬ」という関係も生じてきます。良い事をし、感謝される方の中に「自分が良い事をしている」という意識が生まれてしまいます。うっかりしてしまえば、「良い事をしている自分はやはり良い人だ」という傲慢な気持にまでなります。
 悪い事をする人よりも良い事をする人が救いがたいという理由はここにあると思います。悪い事をする人は反省し、懺悔したくなりますが、良い人にはそもそも反省する必要など皆無と思われますから自分の愚かさを悟ることも中々できません。
 ところが、こういう理屈も、下手すれば、「良い事をしない、という悪い事」のための言い訳になってしまいます。実際にその例は少なくありません。そこで、「良い事をするな、ましてや悪い事を」ということになりますが、一体どうすればいいでしょうか。まさか、何もせずにポーとしろということではないでしょう。

 私が大阪城公園でテントを張るようになってからもうすで5ヶ月間が過ぎようとしていますが、この5ヶ月間は実に何もしていません。とはいっても、坐禅堂を作り、自分も坐禅をし、人も一緒に坐っています。これを見て、「ヒマな連中だなぁ」と思われる方もおられれば、「怪しい団体ではないか」と疑うものもおられれば、「自分にはとても出来ないが、とにかくえらい!」と妙に感心する方もいます。しかし、坐禅をやっても、良いことは何もありません。「それこそ坐禅の良さだ!」と理屈をつける人もいるかもしれませんが、そんな理屈のつく坐禅はもうはや坐禅ではありません。良い事も、悪い事も、するヒマもなければ、考えるヒマさえないのは坐禅ではないかと思います。私が人のために出来るのは、そういう坐禅を紹介し、一緒に坐ってゆくのみです。

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