・帰 命・ [まっさらな自分に立ち返る] |
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〜2月号〜 |
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現在、安泰寺は雪の中。 時折、話題に上るのは、死や、自分の使命や、悟りについて・・・ 世間では恥かしくて中々他人とは話す機会の無いような事でも 心置きなく話せます。 そんな安泰寺の3人の声を紹介します。 |
古人の道を辿りながら続ける冬修行の日々のさなか、私はある人生の公案に直面していた。どの古の公案も、この私の頭を離れない人の生と死についての公案を取り払ってくれなかった。私は、修行上のあるポイントに来ていた。僧堂生活での毎日の仕事や心配事から、人の死という避けようのない真実を分けることができなくなっていた。子供の頃から何度も死というものに接し、その都度乗り越えてきたし、「これも人生の一部なんだ。そのまま受け入れるだけさ。」とも思ってきた。が、しかし本当にそうできるだろうか。 私は、今まで人生に特別な意味や目的があると思ったことはなかったし、いつも人は死ぬために生まれてきたのだ、とだけ考えてきた。 今、自分の中で何かが変わり始めている。
(守瑾)
僧 堂 私は寺の息子でない。一信者である。私は、経廻り、僧堂の門前に立つ。今、まさに、その扉の向こうから、荘厳華麗な音楽が聞こえてくるようだ。天女が舞い花が降る。この局面は幸いである。人に伝えたくても伝えきれない心地する、この喜びには翻弄される。この、往々にして図ずも訪れる、人生の歓喜があるからこそ、他、多くの苦渋に満ちたわが人生を潔しとし、受け容れることができるのである。ありがとう太陽、空、森、大地、風。わが身を凍らせる雪の何と風流なことだろう。 決して、人生に期待しているわけではない。ただ、私は歓喜に満ちている。この歓喜が幻想でないことを祈るばかりだ。
合掌 (憲護)
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■ 参禅者のひとこと ■■■ |
日本へ来る機会を得たので、また安泰寺に来てみた。インドでその存在を知り、訪れた前回は“接心”期間中で、禅寺ということさえ知らずに、山の空気を吸って雲水の方々とゆっくり話でも、なんて気持ちでやって来た私は、―接心期間中は毎日14時間の坐禅+私語厳禁―かなり辛い数日間を過ごした。のに、またやって来た。 今回は雪安居中の安泰寺。豆腐を作ったり、ふんだんにある図書室の本を興味深く読んだり、雪の中の散歩、早朝の白く覆われた竹林は美しかった。輪講は“典座教訓”。薪をくべながら火にあたる時間。 一瞬々々が如何に大切であるか、そこにどんなことが語られているのか。そういうことに当り前のように正面から向き合っている人々が此処にいること。どうにも無駄のない時間が流れて行く。ニューヨークで写真を撮りながら暮らして10年になる。目の前のもの・ことの表象を借りて考えたり伝えるメディアを選んでいる私にとってもそれは興味深く、終ってほしくないと思った10日間が今、終ろうとしている。2002年1月28日、晴夜。
(写真家:トヨダ ヒトシ)
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