・帰  命・
[まっさらな自分に立ち返る]
〜4月号〜

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九州の僧堂からしばらくの休暇をもらって、安泰寺に戻りました祖風さん。これからの田圃の準備で頭がいっぱい。 犬の散歩である。二匹の犬。こいつらは本当になんだかなあ。なにを探しているのか地面をはいずり回る。その姿はほとんど犬の様である。おいおい、そっちにいくんじゃない。なんでだよう。そんな表情をする。あのな、なんだようて言われてもなあ。いやまあそう言うんやったら説明してもいいけどな。でもお前らわからへんやろ。ほらほらお前らどこへ行くんや。業の力なんかなあ。こいつらの力はなんなんだろう。でも、わしは別にエサを探しているワケじゃないから。その力だけを眺めている。そう思えば犬の散歩も風流なもんである。
(祖風)


** IMPRESSIONS **
雪がとけて参道が通れるようになってから、今年もたくさんの参禅者が上山するようになりました。春一番に来られた参禅者からのひと言ふた言をいただきました。
(TO/大阪/女/24歳/フリーター)

摂心5日間こせるかどうか私も周りの人も心配していて出発の前日に知人の方が、2チュウ連続でしか坐ったことのない私のために、坐禅の練習をしてくれたりもして、不安いっぱいで上山しました。上山した日は、霧雨が降っていて背には玄米と坐蒲と衣類のトランク、右手にはいちごのピンクのトランク、左手にはホームセンターの買い物ぶくろを下げて長い山道を一人でのぼりました。
一人の禅僧の出会いが私の人生を180°回転してくれて、この安泰寺にたどり着きました。今迄というかその人に会うまでは、ナイトクラブが大好きで夜遊びばかりしていて、生活も自分もぐちゃぐちゃでしたが、方向転換しつつある。
まぁそれはいいとして。私の摂心の感想。イタイ。おわり。私には自分を見つめ直す余裕も考えごとする余裕もなく、終わってからは、足の痛みと虚無感だけが残りました。何にも期待せず坐っていたので、事前にあった恐怖感が消えただけよかったなぁと思います。寺の生活に無縁だったので、ごはんのときに唱えたり、無言で食べたりするのがすごくはじめはびっくりしたのですが、それもまた趣があるはず。10日間滞在させていただいて暫く慣れたこの生活をはなれて、元の生活に戻ります。この寺であった事、思ったこと、出会った人々は私の心の中でブロックとなって今後の生活のいしずえとなることでしょう。
(R.M/福岡/男/17歳/高校生)

最初はすごく厳格なイメージがあったけど、夕食がすごく楽しくてとても安心しました。坐禅は初めてやったけど色々考えてしまって難しくて奥深いと思います。自分はすごくめぐまれていて、ムダの多い人間だと気づきました。来てよかったです。
(Y.F/滋賀/女/21歳/看護婦)

初めてここに来てめちゃくちゃ緊張してたけど、Tちゃんもいたしみんなも優しくてひょうしぬけしました。来ていきなり「お好み焼きパーティー」だし、お酒もでるしでびっくりしました。私はここにきて自分を見つめ直し、少しでも自分自身を変えられたらなぁーと思ってきました。ここに来るまでの仕事のことで壁にぶつかり悩んでいました。そんな自分を変えたかったのです。
でも、結局のところここにきて変わったかというと何も変わってない気がします。みんなに甘えてしまってるし、坐禅中に吐いてしまうし…。でも、すごく楽しかったし充実してた。
いっぱい迷惑かけてしまったけど。坐禅はやっぱり辛かった…。足が痛いのもあったけど、自分の中にいろんな想いがあらわれてて辛くなった。その想いをなかなか捨てることができなかった。
でも、外の鳥の声や雨の音に耳を傾けるとふと気持が楽になり、そういう想いが一瞬消え、よくわからないけど、自分自身とむきあおうと思えたし、悩んで苦しんで周りにふりまわされている自分に気づけた。自分がすごく嫌いで変わりたかった。でも、そんな自分をちょっと受け入れようと思う。そうすれば、もう少し自分を好きになれそうだから…。
作務ととても楽しかった。たいへんだったけど、終わった後のやりとげた感じがとてもよかった。ダムそうじではさんしょう魚やカニもいたし、自然にふれることで気持が落ちつき優しくなれた。月もすごくきれいで、心がすみわたるようだった。
私は、この生活でたくさんの人にも出会いたくさんのことを教わった。とても心にのこる4日間でした。
(Y.K/福岡/男/17歳/高校生)

来るまでは、きんちょうしていたけれど、とても居心地のいい場所でした。ここで出会った方、ここで教わった事、ここの料理、全て最高でした。普段、すごいスピードで毎日が過ぎているけど、ここでの、生活で、自分を振り返ることができた気がします。
もう少し、ここにいたいけど、帰ってしまわなきゃいけないのが残念です。また、来たいです。


 花は愛惜にちり、
 草は棄嫌におふるのみなり。

という道元禅師の有名なことばがあります。この言葉は普段、悟り(花)を追い求めるほど悟りは遠く逃げてしまい、煩悩(草)を切り捨てようと思うほど煩悩が深くなる、という意味合いで解釈されます。私はむしろこの言葉を「花が散るのも草が生えてくるのも己の思いと無関係である。物事が己の思う通りにならないのは現実であり、それだけでおしまい。」と読みたいのですが、ここでは解釈を問題にしません。「草は棄嫌におふるのみなり」、この文章を一度草の立場から考え直したいのです。
ドイツ語に「草はなくならない」という諺がありますが、花や野菜を人間が大事に育てていないから、病気になってかれたり虫に食われたりすのに、草を人間がいくらとってもまた生えてくるのは不思議で人間にとっては非常に悪い存在です。しかし草の生命力に関心せざるをえません。花と草、その違いはどこにあるのか。草というのは、人間の役に立たない植物に、人間が勝手につけた総称ではないでしょうか。草からみれば、花も草もないはずです。ところが、人間の役に立ち、人間に大事にされるほど植物は弱くなってきます。F1の改良種はその好例です。人間の為にならないほど、生き物の命が自由に発揮され、草のように伸び伸び生えてきます。
草に見習って、何の役にも立たない、誰にも利用されようのない、自分の命のままにただ生きていきたいと思います。
(無方)
去年の夏から大阪城公園でブルーシーツの下で暮らしていた無方さんも、今は安泰寺で留守番をしています。


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