・帰  命・
[まっさらな自分に立ち返る]
〜6月号〜

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露 堂 々
 私は34歳のドイツ人。この不思議な国日本に来てから,もうすでに10年間が経ったが,日本語もいまだ不自由だし,日本的な考え方・感覚にはなかなか馴染めない。私だけでなく,多くの日本人にとって特に分かりにくいのは日本の政治だと思う。権力のある立場で表に出されている政治家と,それらを実際に裏で動かしている本当の権力者が違うからだ。表に出ている政治家がアヤツリ人形にすぎない場合が多い。

 私は安泰寺の新住職になったばかりだが,こんな修行道場を動かす力量どころか,普通のお寺を運営するための基本的な知識と経験すら持ち合わせていない自分が果たしてなぜ任命されたのだろうか。それはひょっとしたら「アヤツリヤスイ」というイメージがあったからか。

 私が安泰寺の堂頭の役を引き受けた理由はただひとつ。去年,安泰寺を後にし,大阪の公園で坐禅会を開こうと決めた。師匠と別れるときに言われたのは「ワシが死んだら(他の弟子と同じく)安泰寺を心配しなければならない」。そして付け加えたのは「アヤツリ人形にはなるなよ」。これからホームレスになろうと思っていた私を誰が操ろうとするのだろうか,また師匠が死ぬのも何十年先の話ではないか,とも思ったが,師匠が2月に突然亡くなったとき,安泰寺の後を継ぎたいという人は一人もいなかった。私もとてもそんな力はないと思ったが,せっかくのこの坐禅道場をつぶすわけにもいかず,私の名前があがったとき,引き受けてしまった。穴があれば入りたい自分だが,この責任を引き受けた以上,自分で歩み,他の力を借りるわけにも行かない。アヤツリ人形になりたくてもなれない。自分が自分を自分するしか道がない。

 私が戸惑ったもう一つの理由がある。大阪に半年間住んでいたあいだに,いまの妻と出会い,一緒に坐禅をし,一緒に生活するようになった。これから結婚と二人の将来を夢見たそのとき,師匠の急死の連絡があった。私は安泰寺に戻らなければならない。しかし妻は大阪に家があり,仕事があり,友達もたくさんある。このまま別れるか。そうなればそれで致し方ない。幸い,私の住職としての任命が決まったとき,彼女が妻になって,大阪を後にし私についてきてくれた。今は一緒に坐禅し,一緒に摂心している。

 妻は私と一緒,大都会の出身。二人とも山に入って自給自足したいという気は微塵もなかった。妻にはそれよりイギリスに留学して歴史を学びたいという夢があった。しかし,二人の夢をもっと大きな夢と交換した。安泰寺でもう一度,坐るのだ。後を継ぐ弟子が育つまで,さあ,15年か。先のことは何も分からないが,一歩一歩,前進していく。
(堂頭)


今安泰寺には,ウーゴとジョアナという二人のポルトガル人がいます。ラテン文化圏に育った二人の目には,安泰寺はどう映っているのでしょうか。是非とも聞かせてほしいところです。
<・・・ウーゴ・・・>

 安泰寺に来たのはつい最近です。何も言うことがないのは本音。あまりにも物を言うと息を吸うことはできなくなり,喋りすぎると窒息してしまいます。私の体のなかは火の付いたストーブのような物だと思います。息を吐けば熱は外へ流れ,息を吸えば火は燃えつづけ,そして燃えつづけている火は世界を温めます。燃えている火の熱によって,体が汗をかくのでしょうか。空が汗をかくと地の命が蘇ます。最後には沈黙するしかありませんが,それは最後の最後かもしれません。話して分かち合わなければならないことは多すぎます。黙っていたほうがいいのか。禅は善悪を論じません。禅は道徳ではなく,現実を問題にします。禅は美ではなく,現実を問題にします。自分にないものを求めていくのか,それともありのままの自分を受け入れるべきなのか。そのためには禅の老師たちの教えを聞き,彼らを 自分たちの教えで判断すればよいでしょう。それとも,孤児になった方がいいでしょうか。全ての言葉を秘密の引き出しに戻して,手放しましょう。自分を判断するものは自分の修行のみです。そうならば,壁に向かって坐り,火の付いたストーブのなかの薪になればよい。慈悲とは成りきること。壁に向かって坐れ。全ての経験は自分が自分に親しむことの一こまである。壁に向かって坐れ。人間とは抽象にすぎません。壁に向かって坐れ。珍しい。壁から離れてみなさい。壁はあなたの後ろから付いてくるでしょう。振り向くなよ。壁はあなたの前に坐るようになる。壁によく気をつけろ。そこに大きな秘密,大きな真理,大きなメッセージがある。その秘密のなかには秘密でない本当の秘密が現れている。一息するためには,どれだけの方法があるのでしょうか。何方にしろ,息を吐く前に歯を磨きましょう。ただ息をするために。それだけです。

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<・・・ジョアナ・・・>


 広い宇宙のなかで,私は今ここ安泰寺にいます。沢山の計画があり,望みがあり,やりかけたことがあったが,急な変化があって偶然坐禅という選択肢を発見しました。やってみると難しいと感じながらも,そこに大きなエネルギーが湧いてきます。集中すると内なる自由と世界との調和を感じます。決心して坐禅するために安泰寺を見つけました。ここでの日常生活はすごく美しく,簡単でありながら複雑です。生活の流れのなかで宇宙のミニ版を発見します。朝の坐禅の時,日の昇るのを感じ,それからおいしい朝食をいただき,掃除し,田畑を耕し,種を蒔きます。昼と夜の食事があって再び壁に向かう。坐禅しながら日の沈むのを感じます。この差定のバランスによって,一日中出会うものと一体になることができると思います。坐禅とその他の行為の間には何の差異も感じられません。私はここに来たばかりですが,これからどうなるか分かりません。ただ,私の体のなかにはもうすでに一つの種が蒔かれ,そしてその種からはそのうち芽が出てくるでしょう。そうすれば,種が成長して私の体のなかにも外にも大きくなって安泰寺を囲む山々まで育ち,やがて宇宙一杯に育つでしょう。生命の力は現前しています。日々,歩々,私は歩みます。最後にジャック・プレベールの詩で結びたいと思います。坐禅の説明のようなものだと思います。

「まず檻を描きなさい 戸の開いた檻を そして綺麗なもの 簡単なもの 鳥のためになるものを描きなさい そのカンバスを木の前におきなさい 庭の木でも林の木でも山の木でもよい その木の後ろで黙って隠れなさい 鳥がすぐやって来ることもあれば 何年もかかる場合もある 気力を失ってはいけない 黙って待ちなさい 何年も待ちなさい 鳥が早くやって来るか,なかなかやって来ないのかは,絵の上手下手とは関係がない 鳥が飛んでくれば 檻に入る前の沈黙を聞きなさい 檻に入ったら,静かに戸を閉めなさい そして檻の鉄棒を一本ずつ消しなさい しかし鳥の羽に傷を付けてはいけない それから木の絵も描きなさい 鳥のために最も美しく緑も風も光も夏の暑さのなかで生き物の音も全部描きなさい それから鳥の鳴くまで待ちなさい 鳥が鳴かなければ絵の何処かがよくない 最後には鳥の羽を一本抜いて絵の隅っこにサインしないさい」--ジャック・プレベール

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