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・帰 命・
[まっさらな自分に立ち返る] |
〜8月号〜 |
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安泰寺は修行道場です。一般に言われる修業ではなく、仏道修行の道場です。「仏道」の
「仏」という字は梵語で「ブッダ」といい、「覚者」という意味です。「道」は梵語の「
ボディ」にあたり、「覚智」です。ですから、安泰寺という修行道場は精神修養等のため
にあるのではなく、自分の目を「覚ます」ためにあるのです。何に目覚めるのかというと
、自分が今生きているこの現実に覚めることです。
問題はこの現実です。この現実は我々の思うような現実ではありません。仏道修行という
のですから、凡夫が坐禅でもして、仏になると勘違いする人がいます。煩悩がなくなって
、悟りの世界に入ることを修行の目的と思われたりもします。ところが、いざ坐禅してみ
ますと、仏や悟りの世界どころか、雑念や妄想、煩悩無明だらけの自分に気づくではあり
ませんか。そんな煩悩無明だらけの坐禅のどこが「仏道修行」なのか、と失望して坐禅を
止めてしまう人もいます。しかし、仏道修行とは自分の生きている現実に目覚めることで
すから、煩悩が煩悩として見えてくることこそ「覚智」であり、「覚り」ではないでしょ
うか。そういう意味で昔から仏教で「煩悩即菩提」と言われております。
煩悩がなくなるのは覚りではありません。煩悩が煩悩としてハッキリと見えてくるのが覚
りです。坐禅をすればこそ煩悩がどんどん見えてくるのもそのためです。普段の生活のな
かでそれほど自分の煩悩に悩まされないのは、自分に煩悩がないからではなく、煩悩に気
づかないからです。煩悩に気づかないということは、自分の煩悩が「事実」に見えてしま
うことです。そして相手の煩悩のみが「偏見」だと思い込み、「正しい自分」と「間違っ
ている世の中」が絶えず戦ってしまうことになります。お互い間違っているということこ
そ事実なのに・・・
物事を客観的に見、客観的に考えるというような表現を好んで使う人間はいます。また禅
の境地においてこそ、世界を客観的に見ることができるといってみたり、坐禅のなかで主
観と客観が一枚になると言ったりしますが、そんなことは不可能です。主観という言葉は
もとより世界を認識する側を指し、その主体が認識した世界もどこまでも「主観的」です
。したがって、世界を客観的に見たり聞いたりできないのは、主観と客観の前提です。客
観的な世界は認識さりえない世界、認識される以前の世界のことです。
禅でも「凡夫を止める」と言いますし、「坐禅が坐禅をする」と言います。これはつまり
この認識される以前の世界を指します。人間がそれを「凡夫を止めた」、「坐禅が坐禅を
した」と認識してしまったときには、もうはや凡夫の煩悩に過ぎず、坐禅ではありません
。
安泰寺は凡夫の集まりですが、坐禅をする場所です。自分たちを「客観的」だと思い込ん
だり、煩悩の眼鏡を外して悟りの世界が見えてきたと言ってみたりするような凡夫では困
ります。「み仏のおん命に生かされていることに感謝、感謝・・・」と嘯いても、凡夫側
の煩悩はどうなるのでしょうか。坐禅をする凡夫はどこまでも自分の凡夫性を自覚し、悟
りではなく煩悩にこそ目覚めなければなりません。煩悩が煩悩として見えてこない限り、
坐禅も坐禅になってこないからです。
(堂頭)