火中の蓮
2007年 8月号

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スキンシップ
オウムから12年 (その17)

Skinship.

 6月と7月は京阪神方面の三カ所で話をさせていただく機会に恵まれました。普段、寺に修行をしに上山した参禅者を相手にしか話をしていませんので、一般の方々にどんな話をしたらよいか、私たちがひごろ山の中で参学・弁道しようとしている教えが街の人たちにも通用するのだろうかと、自分の修行を振りかえるいい機会になりました。三カ所のうちの一つ、大阪狭山市の熟年大学での講演要旨はこちらでご覧になれます。

Skinship

 さて、先日は子供が熱を出して寝込んでいました。長女のメグミは2、3日で元気になりましたが、長男のヒカルは熱が40度まで上がり、妻が鳥取の病院まで送りましたが「肺炎」と診断され、そのまま入院することになりました。妻と私が交代ごうたいで病院で息子に付き添い、もう片方は寺に残った娘の面倒をみるというふうに話し合いました。その日の夜には私が鳥取の病院に向かい、息子と過ごしました。ドイツの病院では親が24時間態勢で子供につきそうということは先ずありません。子供と一緒に時間を過ごしたくても、限られた面会の時間帯以外には子供に会えません。ましてや、日本の病院のように、同じ病室、同じベッドで一日中過ごすというような事は考えられません。ドイツの親は子供をいったん病院に預けたら、食事に世話から、トイレ・風呂の世話まで、全ては病院がします。

 そういう意味ではドイツの病院は親には便利ですが、私はむしろ食事・風呂・トイレやムツ替えなど、治療と直接に関係のない一切のことを親に任せている日本の病院のやり方が好きです。何しろ、親子の絆を大事にし、病気だからこそいつも以上に必要とされている「スキンシップ」ができるからです。

Skinship
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 一晩病院で過ごしてから、私自身も熱とひどい咳が出て、このまま寺に帰ってもなんの薬にも立たないだろうというので、その後も妻と交代せず、五日間息子と同じベッドで、病院で過ごしました。日頃もなるべく子供と友に過ごせる時間を持ち、できるだけ接したいとは思っているのですが、修行道場の堂頭という役目ですから、いつもうまくいきませんが、この五日間は思い切って息子と日夜と共にでき、共に咳をし、共に病気が良くなるを待ちました。また、その2週間後、妻は袈裟の縫い方をならいに愛知県のお寺に二日間でかけましたが、こんどは娘も息子も任され、違った意味での「いい修行」になりました。私よりも4歳の娘が着替えの服の場所など、良く把握しているということに驚かされました。私が子供の世話をしているというよりも、子供に世話をしてもらっている位でした。

 5・6月号では「執着の環」について書きました。大乗の菩薩は家族などへの執着を断ち切るというのではなく、その執着の環を無限に広げることを目標としているのではないか、と書きました。つまり、菩薩の修行は「スキンシップ」から始まらなければならないのです。ウィキペディア(Wikipedia)によりますと、「スキンシップ」という言葉は、1953年に開催されたWHOのセミナーでアメリカ人が使っていたのは最初ですが、「分類上は和製英語になっている。」つまり、英語には「スキンシップ(Skinship)」という言葉は元々ありませんでした。ところが、今は「スキンシップ」という言葉は逆輪入され、英語のウィキペディア(Wikipedia)にものっています。どうやら「母親と子供が身体的な接触」というよりも「ハダカの付き合い」という意味で使われること多いようですが、「Skin(はだ)」と「Kinship(親族)」を合わせてできたこの言葉のそもそもの意味は、肌で触れ合うからこそ親子の絆が育ち深まる、ということでしょう。そして、「Skinship」グーグルで検索したら、英語でもスキンシップをテーマにした赤ちゃんや子育てのサイトやブログがあることを知りました。「Skinship」というブログでは母親と赤ちゃんの絆を作るために、母乳栄養や「Co-sleeping」または「Family bed」は勧められています。日本と違い、西洋に親が子供と同じ蒲団で寝るという週間はありませんが、もっと良い親になるために、日本から「Skinship」を見習いなさい、というのです。また、Skinship: Better Bonding with Babyという文章では、英語には「スキンシップ」という言葉はなくても、親が「スキンシップ」を実践しようと思えば実践できるはずだと書かれています。現に、西洋の親は早い時点から赤ちゃんを親の寝室から離し、子供が夜中に泣き出して放置することはしばしばです。だいたい、子供を寝かすときも部屋の電気を消すだけで、親が子供が寝るまで一緒に蒲団やベッドにはいることはありません。子供が勝手に泣き寝入りすればいい、という考えです。昼間でも赤ちゃんをゆりかごや檻のような「赤ちゃんベッド」に入れたり、外を散歩すればベビーカーにれて、親と子供の体が触れ合うことはあまりありません。そのくせ大人になると、西洋人は公の場でもやたら異姓への接触をもとめ、キッスやハッグをしたがりますが、ひょっとしたら、これは子供の頃に感じ得なかったスキンシップを大人になって、異姓に求めているだけのでは、と思うこともあります。

どうして西洋でも今まで「スキンシップ」をあまり大事にしてこなかったかといいますと、早い時点から「個人の確立」を強調しているあまりではないかと思います。つまり、歩きもできないような赤ちゃんですら、なるべく早く「独立」させ親に極力頼らさせないというのです。私たち家族も、二年前に私のドイツの実家に帰ったことがありますが、夜リビングで私の父親と話をしていても、妻は絶えず少し離れている子供部屋から泣き声が聞こえてこないかと、聞き耳を立てていました。子供は当時、2歳と1歳になっていたばかりでした。なかなか会話に参加しない妻をみて、父親は笑っていました。「子供が泣き出したって、どうせいずれは泣き疲れる。そして再び寝付くだけだよ。」ようするに、子供はほっておいた方が楽ですし、ほっておかなければ親の「プライベート」な時間は全くなくなります。

 私自身の子供の頃の記憶も、こうして「ほって置かれた」という記憶は非常に多いです。下手をすれば、これは子供を「独立」させるためというよりも、親が子供と一緒に過ごしている時間を「面白くない」時間と思っているからではないでしょうか。つまり、子供と過ごす時間は「自分の時間」ではない、と思うのです。しかし、それでは「いい親」とも言えず、ましてや「菩薩」とは言えません。

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 例えば、子供の頃私も大好きだったモーリス・センダックかいじゅうたちのいるところという絵本。「家の中で大暴れしてお母さんにしかられたマックスは、夕御飯ぬきで寝室に閉じ込められました」、西洋では以下にもありそうなこの話の出発点。一人で部屋に閉じこめられてしまったマックスは空想にふけ、唯一の遊び相手は頭の中で生み出した「かいじゅうたち」です。マックスがやがて現実の世界に戻った頃には、ベッドの側には暖かい夕御飯が置かれていましたが、そこには母親はいません。夕御飯をおいたことで、親は反抗する子供を許したと解釈する人もいますが、マックスの部屋には「はだ」の温もりが全く感じない、孤独な世界があります。

日本の教育の仕方に問題がないというつもりは決してありません。中学生になっても、高校生になっても、親が我が子をなお赤ちゃんのようにかわいがり、自主性も主体性も与えないことによって、引き籠もりなってしまった人はどれくらいいるでしょうか。これはおそらく日本でしかみられない現象です。ドイツだったら、部屋から出ない子供は親から引っ張り出され、場合によって勘定され家からたたき出されるのがオチでしょう。安泰寺によく中学生や高校生を連れてくる親がいます。「どうぞ、うちのバカ息子を存分に教育してください。ビシバシでいいから、宜しく・・・」と私に言います。親の気持ちよりここで修行するはずの本人の気持ちが聞きたいのですから、彼に「で、オマエはどうなの?オマエは本気で修行したいと思っているのか?」と聞くと、やはり親が子供かわって「もちろん本人も修行したいと思っています、そうですよね○○さん?」。今までの経験で、自分で電話の受話器を取って参禅の申し込みもせず、バス停から自分の足で山を登ることもなく、安泰寺でいう「大人の修行」に成功した人は一人もおりません。しかし、それを親にいくら説明して「帰るときだけは迎えに来ないで、自分の力で家めで帰ってこさせてください」といっても、「いやいや、全くそのとおりだと思うんですが、まだ子供ですし、私たちも心配ですから。やはり帰りの時も迎えに上がります」という。それではまるで幼児の保育所への送り迎えです。

Skinship
ネルケ家の寝屋。

 ところが、大人に成りそびれた子供ではなく、本当の幼児ではどうでしょうか。私はやはり「スキンシップ」に変わるものはないと思います。赤ちゃんから「個の確立」を期待しても、無理があります。逆に、思い切り親子の絆を感じさせてからではないと、大人になっても「自信」をもった生き方はできないと思います。仏教の教えでは、そもそも「個の確立」の考えなどは甚だしい幻想です。なぜかといいますと、「縁起」で成り立っているこの世の中では、「孤立・独立」することが不可能からです。自分の意志で生まれてきたわけでもなければ、自分の意思で死んで行くわけでもありません。生まれてから死ぬまですべての行動は自分を超えた、もっと大きな力に支えられて、人との関係性、宇宙との関係性においてのみ、可能です。

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 メグミもヒカルもUNICEFのWHOから 「赤ちゃんに優しい病院」として認定された病院に生まれました。「赤ちゃんに優しい病院」は日本を含む先進国では意外と少ないです。2000年の時点ではUNICEFのリストには日本の病院が14カ所しか乗っていません。フランスには「赤ちゃんに優しい病院」は一つすらありません。それに対して、中国には6000、フィリピンには1250の病院が「赤ちゃんに優しい」として、認定されています。世界中1万5千ある「赤ちゃんに優しい病院」のうち、30カ国の先進国には262カ所の病院しかありません。では、「赤ちゃんに優しい病院」とは何か?「赤ちゃんに優しい病院」として認定されるには、母乳育児を成功させるための10ケ条に従って、病院で指導をしなければなりません。例えば、「お母さんを助けて、分娩後30分以内に赤ちゃんに母乳をあげられるようにしましょう。」「 医学的に必要でないかぎり、新生児には母乳以外の栄養や水分を与えないようにしましょう。」「母乳で育てている赤ちゃんにゴムの乳首やおしゃぶりを与えないようにしましょう。」「赤ちゃんが欲しがるときは、いつでもお母さんが母乳を飲ませてあげられるようにしましょう。」「お母さんと赤ちゃんが一緒にいられるように、終日、母子同室を実施しましょう。」といった箇条です。

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「生まれたて」のメグミ。

 メグミの時もヒカルの時も私は出産に立ち会いましたが、子供が生まれてすぐ、赤ちゃんの体を洗うこともなく、まず母親の胸の上に置くのです。こうして母と子はまずさぐり合い、一緒にしばらく休みます。そして始めて母乳を飲ませます。そのあとに赤ちゃんの体は拭かれたり、体重は量れたりします。私の中には、赤ちゃんは生まれてからやたら泣きわめくというイメージがありましたが、あまり泣かない赤ちゃんを心配して、「この子は大丈夫でしょうか」と看護婦さんに聞いていたら、「大丈夫です。赤ちゃんはすぐお母さんのお腹の上に置いたら、安心して泣かないのが普通です」といわれました。

 菩薩の修行は「スキンシップ」から始まりますが、幼児教育と「大人同士の修行生活・叢林における切磋琢磨」は違います。次回はその違いについて、そして安泰寺の堂頭でありながら家族を持つことの問題点、いずれは仏教の堕落と妻帯の関係についても言及したいと思います。

(続く・ネルケ無方)

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