【火中の蓮】
〜2007年 10・11月号〜

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大人の修行という考え方
オウムから12年 (その18)

子供とバイクを跨ぐ無方堂頭

 接心が終わった後のティーミーティングでよく言います、「これで接心が終わったと思うのは大間違いだ、ほっとして気が抜けたときが一番危ない。本当の接心は今から始まるのだ」
 一日十五時間ぶっ続けて坐るのは決してたやすいことではありませんし、五日間無言で壁を見つめ自己を見つめることが大変な修行というのは確かです。しかし本当の課題はこのような接心が終わった時に何をするか、ということです。坐蒲から離れて、いわゆる「現実」を見つめ、毎日の生活の中で昨日しなければ、何のための接心か全く分かりません。

 接心が終わった後の行動が大事とはいえ、接心自体の内容があまりにもひどかったりします。何しろ、今の安泰寺の参禅者の入れ替わりが激しくて、一月たてば半数以上は新しい人に替わり、一年たてば全員がニューフェースというのも珍しくないです。修行の方向性が分からなくなりますと、接心後のティーミーティングでこんなことをいってみたりもします。

 「これで接心が終わったと思うなよ。そもそもこの五日間は接心ではなく、ただの幼稚園ではなかったか。
 本来なら、安泰寺は大人の修行の場のはずだ。大人として修行をするためには、まず第一番には、自分は何のためにここに来たかということをハッキリと自覚してもらわなければならない。オマエらは何をしに来たのか?ただメシを食うためだけなのか?それとも、もっと大きな狙いがあるのか?一体どういう狙いで接心しているのか?
 第二番、各々が「自分」で安泰寺を作っているのだ、という事実に目を覚ましてもらわなければならない。この安泰寺を、この修行を、この人生を、この世界を自分が作らなければ、代わりに誰も作ってくれないぞ。それは自分の安泰寺であり、修行であり、人生であり、そして自分の世界だから。その責任は重い。同時に、自分を忘れられることも必要だ。これが第三番目だ。各々が「オマエなんかどうでもいいのだ」ということを己自身に聞かせなければならない。「自己を見つめる」というよりも、視野を広げて、周りの気を配って、人の身にもなれることが大事だ。私一人の好き嫌いや善し悪しの判断なんか、手前勝手な振舞いはもう特の昔に捨て来たはずだ。自分のために如何に修行するかというのではなく、自分からどういう修行が要求されているのかが課題のはずだ。
 一人でも修行ができると思うのであれば、やってみればよい。山にこもって仙人になればよい。それができないというのなら、今の自分が修行ができているというのは周りのおかげだと自覚すべきだ。叢林という修行者に対する感謝と尊敬の念はそういう自覚から生まれてくるはず。そして叢林の生活が円滑に運ばれるためには、色々な細かいルールもある。大人なら、そういうルールを学び取り、守ることは当然だ。大人は自分のケツを自分で拭かなければならない。また、人のケツまでときたま拭かなければならない場面もたくさんある。
 廊下の歩き方、窓や扉の閉め方、電気の消し方、履き物の揃え方、大人ならそれくらいはできるようになってもらわなければ困る。

 たまには『形式主義は嫌いだ。形よりも中身が重要ではないか。何しろ、大事なのはブッポーでしょう?』といってくるやつがおる。確かに、形と中身を分けて考えた場合、形より中身が大事に決まっている。ただ、形と中身はそう簡単に分けられどうか。形式ではないはずの『ブッポー』って、何らかな形で表現できなければ、単なる空想ではないか。空想の『ブッポー』ばかり追いかけて、自分の足下すら見えていないことこそ、中身を伴わない似非修行だ。仏法というのは高尚な理屈の世界ではなく、自分の、この一瞬の行動の中に現れてこなければ、どこにもないぞ。

 直堂として禅堂の中で鐘を鳴らした場合、その鳴らし方一つで堂内の雰囲気が変わる。鐘をハッキリとどういうタイミングでどう鳴らすか、弁えることが自分自身の修行ばかりではなく、周りの全員の修行にも響いてくる。打ち方一つ間違えってしまえば、自分の坐禅も皆の坐禅も台無しになってしまう。典座も然り。味付け一つで皆にやる気を与えることもできれば、せっかくのやる気をなくすこともできる。典座の心構えは皆の心構えに直結している。大人なら、作法の一つ一つが自分の個人的な修行ではなく、周り全員の修行に響き合うことを忘れてはならない。

 人のいたらない所を指摘すると、反論するやつがおる。『オレのどこに問題があるのも、さっぱりわからん。オレの問題じゃなくて、オマエ自身の問題ではないの?』と。たしかに、両サイドに問題がある場合が多い。例えそうだとしても、向こう側の問題は向こうの問題としてさておいて、自分の問題を直面するのはどうだろう。また、それを指摘してくれた相手に感謝さえしてよかろう。私のところに相談をしに来るやつがおる。『安泰寺に問題がある。その問題の名は『A』だ。』その『A』はたいがい、うるさい先輩か誰か修行仲間の名前。『A』さえ安泰寺からいなくなれば、修行しやすくなるというのだ。私はこう答える。『なるほど、Aには問題がないワケでもない。しかし、Aの問題はAだけの問題であって、オマエの問題ではない。オマエの本当の問題の名は何か?オレの問題のは「無方」だが、ひょっとしてらオマエの問題もオマエ自身と違うのか?』。

 安泰寺は門戸を広く開放している。我々と一緒に修行したい人なら、誰がいつ来てもよい。しかも、安泰寺の門戸から人を入れっぱなしにしているだけではなく、出たい時はいつどんな形で出てもらっても構わない。入るのも出るのも各々の勝手だ。だから、「今日から安泰寺で修行させていただくことになりました」というのは変な話だ。誰も修行などさせていないのだ。自分自身がしなければならない。したくないなら、早速山を下りればよいのだ。だから、ここに居る間、ずっと自分が選んでここに来て、自分が選んで居続けているから居るのだ、と自覚すべきだ。接心がいくらきつくても、作務がいくらしんどくても、居続けているのが自分なら、「痛い目に遭わされている」「しんどい思いをさせられている」なんて、愚図っている場合ではない。強制収容所でもあるまい。
 安泰寺に自分が今いるというのであれば、その一瞬いっしゅんの命の修行を生かすのも殺すのも自分以外にはない。まさに『殺活自在』なのだ。『本当はこんなところなんかイヤなだけど、他に行く当てもないし、外は雨が降っているし、バス停までの道程も遠いし』・・・話は幼稚すぎる。

 では、大人はどう修行すべきなのか。私の一人の先輩は安泰寺に来る前に寿司屋で見習いとして働いたことがある。なにかを教えてもらうというのではない。毎日皿洗いばかり頼まれて、指導らしい指導は皆無だ。そしてある日突然『今日の寿司はオマエがに握れ!』。そこで『ボクは何も知りませんから、教えてください』なんていってしまえば、『今まで何をしていたのか、帰ってしまえ』と怒鳴られるに決まっているから、責任をもって寿司を握るしかない。もちろん、その日まで絶えず盗んでノーハウを学んで来なければ、そんなことはできないはず。毎日、ぼんやりと妄想でもこぎながら、『はやく仕事は終わらないかな、彼女と会いたいなぁ』と思ってサラを洗っていれば、本当の『見習い』とはいえない。あるいはサラを100%手中して洗っていても、自分の視野を流し台よりずっと広げて、マスターの動きを読みとり、客とのやりとりに気を配り、店全体の雰囲気に集中していなければ、寿司屋としての修業は失格ということになる。
 安泰寺の修行もそういう意味では同じだ。自分の意識はいつも360度、広く開かれていなければならない。内面を見つめている暇なんかない。妄想をこいでいる暇も、もちろんない。
 第一、『安泰寺を自分が作る』ということは、この寺をこの私が勝手作り変えていく、という意味ではなく、安泰寺に来る前からもうすで各々が安泰寺を作ってしまっている、という意味だ。寿司屋の見習いが流し台で皿を洗いながら自分の気の持ちようで自分の中でその店全体を創造している(あるいは創造していない)と同じように、安泰寺に来ている皆もまた、自分の目と耳と身体全体の使い方や立ち振る舞いで安泰寺を作ってしまっている。今、自分が居る安泰寺が気に入らないというのであれば、まず己自身の目と耳と身体の管理をチェックした方がよい。自分の視野が狭いからこそ、安泰寺が狭く感じてしまうのだ。

 叢林がいるおかげで、一人では修行ができない私たちでも、修行ができる。一方、叢林で生活することは仙人として山にこもるよりも大変な面もある。それぞれのメンバーのうち、波長の合う者もおれば波長の合わない者もおる。その全員が一緒に寝起きし、坐禅をし、食事・掃除・作業をし、一日二十四時間を共にするのだから、人の嫌な面もたくさん目に付く。そして自分の嫌な面は人の目に止まる。不思議なことに、人はたいがい自分の欠点より人の欠点が気になりがちだから、人のフリを見て我がフリを直すどころか、自分のことを棚に上げて人の批判ばかりしていることがしょっちゅうある。そして皆がそうだから、「和合僧」もクソもない。人の欠点は自分自身の欠点が鏡の中で映り出されているようなものだ、ということに気づきさえすれば、二十四時間の叢林生活は最高の切磋琢磨のチャンスに変わるのだが、そこまで気づくのになかなか時間がかかる。

 叢林生活において、聖徳太子の十七条憲法のの第十条が特にいい教訓になる。
 『十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。』

 安泰寺で大人の修行をしに来ている連中には、まず各々自分のケツのふき方を学んでもらわなければ困る。最初には、「自分のケツをふく」ということは一体どういうことかすら分からない。そして人に自分のケツをふいてもらいながら、それにも気づきはしない。が、時間が経つに連れて、ようやく自分のケツが自分でふけるようになる。しかし、それだけではダメだ。今度は自分が人のケツまでふかなければならない番になる。安泰寺の修行は「ケツふき三昧」だ。

 毎年の春の彼岸の話だ。一週間ほど大阪の新今宮にある安宿に泊まり込んで、寺全員で京阪神方面を托鉢するわけだが、一日托鉢の帰りで満員電車に皆がバラバラで乗ったが、「動物園前」で降り忘れた人がいた。次の電車でUターンして、後から来ればいいと思って、皆は先にホテルに帰ったが、その一人が遅れてホテルに着くと、カンカン怒っていた。『なぜ私だけを電車の中で残してしまったのか。なぜ私を待ってくれなかったのか。私が盗難でもされたどうするつもり?レイプされた?日本一治安の悪いこの地域で殺されでもされたどうしてくれるの?私を心配して、警察をどうして呼んでくれないの?』。正直いうと、いくら治安の悪い釜ヶ崎でも、私は弟子の命など、全然心配にならなかった。例え真夜中で道を歩いていても、今まで一度も問題が起こらなかったからだ。むしろあの街の人々が我々を警戒しているくらいだ。しかし、弟子は反論した。『あなたの子供だったらどうするの?メグミとヒカルが電車の中で迷子になっても、心配しないの?菩薩なら、一切衆生を我が子のように愛するはずなのに、あなたは私よりもメグミとヒカルを愛しているような気がする』。なるほど、それそうかもしれない。四才の長女メグミと二才の長男ヒカルが地下鉄の中で迷子になっていたら、もっと心配していたのだろう。では、私は菩薩として失格なのか。決して自分は菩薩の見本になれると思ってはいないが、弟子が引き合いに出している例にじゃっかん問題を感じた。つまり、子供は二才と四才だが、弟子は私より二十才近く年が上だ。幼い子供を心配するのと、大人の修行者を心配するのと、その具体的あり方は違うではないかと。また反論があった。『でも、あなたは私の理想の父親像 (ファーザーフィガー)なのに・・・』。

 家族、特に親子の絆と叢林、とりわけ師弟の絆が違うのはここら辺だと思う。叢林のメンバーはそれぞれ大人であり、子供ではない。弟子が師匠におんぶしてもらおうと思うのは大間違いだ。いくら家族生活は菩薩修行の模範だといっても、叢林の修行者は赤ちゃんではないはずだ。第一、菩薩修行とは何か。『正法眼蔵発菩提心』によると、菩薩の心である菩提心の中身は『自未得度先渡他』つまり自分が救われる以前に、まず人を救いたいという気持ちだ。簡単にいえば、自分のことはどうでもいいから、少しでも人のためになりたい。では、人を救うためにはどうしたらよいか。結論からいうと、人にも同じく『自未得度先渡他』と発願してもらうことだ。菩提心が狙うところは、自分が積極的に救う立場にいて、相手は消極的に救われる立場にいて、菩薩がサービス業としてお客さんの衆生を渡し船に乗せて先に向こう岸に漕いであげる、というような関係では、決してないと思う。なぜなら、自身が菩薩にならないかぎり、救うのも救われるのもありえないはずだ。つまり、同じ渡し船に乗っている全員が菩薩にならない限り、いつまで経っても向こう岸にたどり着かないわけだ。叢林という渡し船の中には、『お客さん』は一人もいないはずだ。皆が菩薩として漕がなければならない。親と赤ちゃんでいえば、赤ちゃんは一人もいなくなり、皆に大人になってもらおうというのが菩薩の狙いだ。そもそも、仏教用語の『大人(だいにん)』の意味は『菩薩摩訶薩』だった。全員が大人の自覚を持てば、救いはもはや向こう岸で待っているのではなく、船の中に救われていない者は一人もいないと気づく。

 人間は大人よりも子供の方が質がいいという人もいれば、禅修行の目的は幼児に戻ることだ思う人すらいる。精神世界系の人間に限った話ではない。例えば、80年代ドイツで流行ったポップソングの歌詞は次の通り。
 『子供たちに権力を!子供たちは精算しない。世界は子供たちの物よ!善も悪も、白も黒もない。子供たちに任せれば、差別もなくなる。朝から笑ってばかり、人生の味はイチゴアイスクリーム!・・・』
 今ならばかばかしくて行きいていられない局da が、当時はヒットしていて、私自身も思った『なるほど、差別も戦争も、みな大人(特に男の人)のやることばかりだ。女子供に任せれば、世の中がもっとよくなるのに!』。そしてある日、目にしてしまった砂場この風景:一歳児ですら自分のことしか考えていず、おもちゃで喧嘩ばかりしていた。そして周りのベンチで坐っている奥様方は『とほほ、うちの人ったら・・・』。

 『でも、小さな子供は自我に目覚めていないから、無垢ではないの?』と反論する人もいる。『大人だけは【私】と【あなた】を区別し、【私の物】とか【あなたの物】とか、所有物と所有者を明確に分けているのじゃないか。そのために戦争にもなるじゃないか。』と。しかし、そう簡単ではないことを、子供を持った人なら、誰でも知っている。確かに、小さい子供はまだ『自分』と『他人』を明確に分けていないかもしれない。が、それは自分の世界しか見えていないという意味でしかない。そこには他人(特に親)の世界、他人の都合などが全く存在し得ない。だからこそ幼稚である。仏教で言う『自他一如』の境地とは天と地ほどの違いがある。大きくなるにつれて、少しずつ自分の世界を超えた世界に気づく。その第一歩が『他者』の存在だ。世界は一つと言っても、私の世界しかないというわけではない。皆はそれぞれの世界を持っており、それを違った観点から眺めている。だから、菩薩を目指すものなら、昔遊んでいた砂場に戻ろうとするのではなく、むしろ上で引用した聖徳太子の世界観を共有しなければならない。

 それはともかく、師匠と弟子の関係は親子の関係とは全く違う、大人同士の関係でなければならない。しかし、それに気づく者は意外と少ない。師匠に弟子入れさえすれば、後は師匠任せにし、まるで三歳児のように振る舞う者もおる。学道用心集の中で道元禅師は『機[弟子のこと]は良材の如く、師は工匠(こうしょう)に似たり。 縦(たと)え良材たりと雖も、良工を得ずんば、奇麗(きれい)未だ彰(あら)われず。 縦(たと)え曲木たりと雖も、若し好手に遇わば、妙功(みょうこう)忽ち現ず。 師の正邪(しょうじゃ)に随って、悟(さとり)の真偽あり。』と書いている。要するに、弟子の修行の成果はすべて師匠次第であり、ダメな弟子でも師匠さえ優れていれば悟りは開けるが、弟子が優れていても師匠がダメなら、弟子までダメになる、と。この教えは師匠の立場に立ったときに、忘れてはならない大事な教訓だ。弟子のせいにしてはいけない、弟子の行動はすべて師匠の自分の行動の裏返しだと。ところが、弟子の立場に立ったときはどうか。自分のせいにせずに、すべて師匠のせいにしていいとはずがない。むしろその逆だ。師匠の側から見た場合、師匠は弟子を作っているが、弟子の側でも、弟子は師匠を作っている。釈尊には何千人もの弟子がいたが、それぞれの弟子の中にはそれぞれの『釈尊』がいたはずだ。ダイバダッタの釈尊とモクレンやシャリホツの釈尊は違っていたし、マカカショウの釈尊もまた違っていただろう。キリスト教だって同じだ。ユダのイエスとペテロのイエスは全く違っていたし、イエスに会ったこともなく後のキリスト教に膨大な影響を与えたパウロのイエス像もまたちがう。さて、オマエ自身の師匠はだれか?」

 このへんまで来るとだいたい正坐になれていない外人達の足はしびれてしまい、顔は引きつった表情になったしまいますので、ティーミーティングの話の続きは日が暮れてから、外食堂で行われることになります。

(続く・・・堂頭)

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