安泰寺

A N T A I J I

どれだけ、どう、扉を叩くか

大人の修行 (その11)


仏教の中に十重禁戒という大事な教えがあります。簡単に言ってしまえば、この十戒を破れば、例えお坊さんであっても、いやお坊さんだからこそ地獄に堕ちることを免れません。この十重禁戒は不殺生(殺さない)、不偸盗戒(盗まない)から始まりますが、その中、この「大人の修行」シリーズで私が一年に渡って書いている言葉は特に第6不説過戒(人の間違いを指摘しない)、第10不謗三宝戒(現にここに生きている生臭坊主をも含む、『仏法僧』の三宝をそしらない)、また第7不自讃毀他戒(自分をほめて人を悪く言わない)と第4不妄語戒(自らの煩悩無明からでた言葉をつつしむ)に触り、わずか十しかない重禁戒の内、少なくとも四つの戒を破ったことになります。地獄行きマチガイナシ・・・

 では、なぜ私が地獄に堕ちるのを覚悟してまで、ダメ押しにさらにダメ押しを加え、この先輩を一方的に批判し、これらの戒を何度も破ったか。それは、私の先輩が表現している問題が決して彼一人のものではなく、仏道を歩んできた人なら誰でもいずれ出会ってきた問題だからです。先輩がこの問題を非常に純粋で分かりやすく、典型的なかたちで表現しているに過ぎません。今まで同じことを考えたり言ったりしたたくさんの修行者達がおり、その中には他でもなく私自身も含まれております。  もし自分の修行におけるこれらの問題に気付かず通り過ぎてしまえば、例え死後に天国へ行けても、それはたんなる一時的な気休めにしかならず、結局永遠に流転輪廻するのみです。もし逆に、一人の人でも自分自身の修行態度の間違いに気付いて、本当の大人としてしっかり仏地に足を付け直すことができれば、その人が例え地獄に堕ちても常に安泰です。天国にノボリたがる「さる」なら「見ざる、聞かざる、言わざる」でいいでしょうが、私はむしろ「よく見、よく聞き、言わざるを得ないことをハッキリと言いながら」地獄にでも堕ちたいと思います。

 それはともかくとして、先輩に対して今まで述べた批判のいちいちは決して私がはじめて気付いた目新しいものではなく、彼自身が特によく知っていたことばかりです。 例えば、安泰寺に上山して一年目、得度したばかりの頃「問い直し」と題して、彼は安泰寺文集にこう書いています。

 「此の頃、『わかった』振りになっている・・・アタマではなく身を以って道を修せねば、という切羽詰まった初発心は忘れられ、気がつかないうちに安泰寺の居心地良さに安住してしまっている。安泰寺は学校ではなく、各自が課題は与えられつつも、求めるのは自分であり、自分が参究する場であって、教えてもらう所ではない。つまり、自分がどれだけ、どう、扉を『叩く』かということである。今の自分は・・・母に言われた通り、『楽隠居』に陥ってしまっている。・・・達磨面壁九年に象徴される祖師方の『苦労』を思う時、坐禅を居眠りの場として・・・捉えていいものだろうか。・・・要するに、無常迅速が全くわかっていないのだ。命を一瞬一瞬切り捨てながらこの安泰寺で命を縮めていることは一体どういうことなのか。『楽隠居』に落としめていないか、常なる問い直しが迫られていることを自覚しなければならない。・・・この安泰寺という格好の、只管打坐の場にありながら、今に自分の『ありかた』はどうなのか、本当にわかっているのか、常に疑問を発しなければならない。それが、発菩提心を何百何千回も発して坐に帰ることであり、いわゆる『覚触』と言われているものである。全てが、坐の真只中にいることを心得べきである。何故なら、自分は仏道・・・を求めに来たのだから。」

 私が「大人の修行」と称してこの一年間で書いてきた様々な注意事を、一年目の彼はもう特に心得ていたのです。「自分がどれだけ、どう、扉を『叩く』かということである。」ここさえ分かっていれば、間違いないはずです。では、私が初めて安泰寺に上山した1990年までの三年間、彼の坐禅はどう展開したのでしょうか。まず、寺全体の雰囲気を理解していただくために、別の雲水の文書からやや長い引用をします。外食堂での風景です。

 「甲 よく降るなあ。いつになったら晴れるんだろ。ここは一年の三分の二は雨じゃあないのかね。  乙 くらー。まったく、性格もいじけてしまうってもんだ。  丙 しかし、今回の台風の被害はひどいもんでしたね。一杯の土砂や木の根っこで埋まったダムの掘り上げも進んでほっとしました。一時はどうなることかと思いましたけど何といっても飲料水確保が第一だし、これで泥んこ風呂ともお別れでしょう。  乙 そううまくいくかな。ダムを掃除して、さあ新しい水だと思った途端、まさに感応道交、待ってましたとばかり泥水がどっと流れ込んで来たじゃないか。

 甲 いやあ、あれには参った。しかし、なかなか思うようにいかねもんだ。台風前には去年と同じように薩摩芋を猪に全部失敬されたし、この台風で、今迄の予定していたものが全部ご破算になってしまったんだから。お米と山菜と牛と、計画していたものがすっかり流されてしまったよ。  丙 こちらの意志通りにはいかないということをはっきり事実として示されたようなものですね。儘ならぬは諸法無我の世界かな。  乙 何気取っているんだ。しかし、まったく有難いご修行をなされておりますなあ、安泰寺さんは。  ・・・  丁 今年はしんどい思いして草取りしたので来年は少しは草が減るかと期待していたのに、山田が流されてグランドキャニオンじゃないか。来年は山門下の田圃で初めっからやり直しだ。  ・・・  甲 現実問題として冬の野菜はどうすんの。今年は雨にたたられて、下の村でも青物は痛いらしい。実を結ぶ時だったから。小豆も雨にやられたな。  丁 まあ、無い時は無いで、ある物で済ませるさ。この台風で全く状況が変わってしまったんだから。作務の予定がすっかり変わったように、それに応じた対応をせねばならんということさ。普通だったら今頃は草刈でもやっているんだが、今はそうもしておれん。車も通れないから、切ってあった薪も運べないし、冬籠り用に典座の物や軽油など担いで上げなくちゃならん。大変だぞー。  丙 今年の冬は、雪はどうでしょうね。降って欲しくないなあ。  乙 わからん。早め早め用意しておくこった。あっ、もうこれしか。よく飲むなあ。食べるものとアルコールも充分用意しとかなくちゃな。  戊 この新聞の自衛隊派遣のこと、一体どうなっているんでしょうね。知らず知らず動いてますよ。危険ですよ。これは。  丙 この前の戦争のとき何故反対できなかったのだと、戦後世代が軽く批判したけれど、いつの間にか同じ流れに乗っかって、気付いてみたら、後の世代から同じ批判を受けていたという結果になりそうな危険がありますね。喉元過ぎれば熱さを忘れるということですか。とんでもないことです。  丁 どれどれ・・・。」

 このせっぱ詰まった生活の中にあっても、一人の先輩はなおも自分の坐禅の姿を厳しく見つめています。

 「坐っていると、頭の中は様々な思いに溢れ、しかも、自分にはよく分からないまま、不意にある思いが湧き起こり、そして消え、又別のが現れる。そして、ある時にあることについて考え、思って思いにふけろうとする。そうするといつの間にか眠ってしまい、知らぬ間に姿勢が崩れ、ハッと気づいて坐相を正すと、又別のが現れる。」

 修行生活に多少の慣れが生じてしまう三、四年目には、よくぶつかる壁です。当時の日頃の疲れも手伝って、燃えるような坐禅はなかなかできないものですが、これだけの問題意識があれば、こういう難問は突破できないでしょうか。  他人事ではありません、他でもなく私自身のこの「大人の修行」シリーズは展開のないまま、ズルズルと長引いているだけではないか、と自分に「喝」を入れたい所ですが、この話はまたまた次号に続きます。

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