安泰寺

A N T A I J I

さがしものは何ですか

大人の修行 (その20)


 「心猿意馬」の話の続きです。先月は「管る莫れ、かの心猿意馬に。功夫は猶、火中の蓮の若し。」という道元禅師のお言葉を引用しました。おなじ永平広禄の第五に、さらに  「即心即佛、是、風顛。直指人心、更に隔天…」  とあります。「仏とは心のことだと、気違い沙汰だ。ずばり心をさして、仏にするって、天の向こうとこっち程の見当はずれだ。」(寺田透訳)そういう自分を見つめ、心を見つめる坐禅をここで「野狐禅」と呼んでいます。

 また、有名な390の上堂(同じ永平広禄第五)にはこうあります、  「…坐禅は直に須に身を端し、坐を正すを先とし、然るのちに息を整へ、心を致せ…仏祖曰く『白癩の野干の心を発すといへども、二乗の自調の行を作す莫れ』」と。  つまり、真っ直ぐに坐れば、身も息も心も整ってくるから、間違っても小乗仏教のよう「セルフ・コントロール」(自調)をするな、ということです。では、大乗ではどうやって呼吸を調えるかというと、道元禅師は師匠の如浄禅師を引用します、  「息入り来たりて、丹田に至る。雖然、従り来る処無し。所以に、長からず、短かからず。息、丹田を出で去く。雖然、去き得る処無し。所以に、短かからず、長からず。」  要は、呼吸は自然に丹田(へそより5センチほど下の所)に出入りし、短ければ短いままで、長ければ長いままです。「呼吸」という天地一杯の働きに自分の方から手を付けないことです。これはそのまま「非思量」という心の姿勢へとつながります。      *  *  *  *  *  *

  最近この永平広禄は英語でも出版されました。その完訳を果たしたのは安泰寺の大先輩なのですが、先日ここでお会いすることができました。2人で仏典の翻訳の難しさについて語り合いました。翻訳するためには、一つの言語の語句を別の言語の語句に置き換えなければなりませんが、その時一句一句の「言葉」を置き換えるのではなく、全体の文脈の意味を汲み取って、その意味を別の言葉・文脈の流れの中で表すのが常識です。つまり、「言葉」を置き換えるのではなく、「意味」を訳すのです。ところが、英語の「不思議の国のアリス」をみても分かるように、それが無理な場合があります。言葉の「裏」に意味が隠れていないからです。「言葉」自体が「意味」そのものです。そして道元禅師の場合も同じ問題が出てきます。「言葉」より「意味」を重視してしまいますと、「言葉」だけではなく「意味」すら通じなくなります。道元禅師ご自身はこの「意」と「句」の問題について書かれています。

 「意・句ともに有時なり…意は驢なり、句は馬なり、馬を句とし、驢を意とせり」  と、「正法眼蔵有時」にあります。解釈は色々ありますが、道元禅師は意句を2つに分けて考えていないようです。あえて2つに分けて考えた場合、常識と相反し、「句」を先とし重要視しているではないか、とさえいえます。「禅学大辞典」は上の「有時」の一節について「この場合は句が意の後に外部に表される語句であるのに対して、意は語句以前に心内に生ずる意旨・意向を指している」と説明していますが、これは間違いです。道元禅師はこういった常識的な考えをむしろひっくり返そうとしているのではないでしょうか。「意」は「語句以前の心内」で「句」が「意の後に外部の表現」ではなく、「句」があってはじめて「意」が表現されるのです。そして道元禅師はこの「表現」を何よりも重要視してきた人です。  「言葉」と「意味」の関係は20世紀の西洋哲学の大きなテーマでした。ウィットゲンシュタインの結論は、言葉と意味は別にあるのではなく、言葉の使い方自体がその言葉の意味だ、ということでした。つまり、彼は20世紀に於いて「意味は心内に生ずるもの、言葉はその後に外部に表される」という長い間の常識をひっくり返しました。ところが、道元禅師はウィットゲンシュタインより700年も早かったのです。しかも、道元禅師が注意したのは、「意」と「句」の問題だけではなくて、同時に「心」と「身」、「さとり」と「修行」、「止」と「観」、「坐」と「禅」の問題でもありました。そのいづれについても、道元禅師が出された結論は「一如」です。二つに分かれることは不可能だということです。そして2つに分かれる以前の行を「只管打坐」と呼んでいます。ところが、「一如」にせよ、「只管」にせよ、ややもすれば単なる理屈になってしまいます。実践に移した時、「身」か「心」か、「表現」か「中身」か、「修行」か「さとり」かのどちらかから始まらなければなりません。常識的に考えれば、当然「身より心」「表現より中身」「修行よりもさとり」が大事に決まっているように見えますが、道元禅師は「一如」を説きながら、いたるところであえて「身」「表現」「修行」を強調します。沢木老師はそのダメ押しをするかのように、「禅は精神ではない、この肉体で行く」といわれます。

 ところが、凡夫の常識の習慣の力にはなかなか勝てないものです。仏教ではそれを「顛倒」といいます。「『ただ坐る』のはツマラナイ、何かもっといいのがあるはずだ」・「心がいまだに落ち着かない、満足感がない、だから『ただ坐った』ってだめだ、時間の無駄だ」というのですが、こういう顛倒した思いをいつまでも手放そうとしないからこそ、「ただ坐る」坐禅をまだ全然味わっていないのです。言い換えれば、「いつまでもただ坐っているから満足できない」のではなく、「いつまでも満足しようと思って坐っているから、『タダ』になれないのだ」ということです。  この問題は今の日本にあるだけではなく、同じ疑問を持つ真面目な僧侶は韓国にも中国にも大勢います。「いつまでも大乗仏教の修行のまねごとをするよりも、いっそうタイやミャンマーで出家し直して、本物の仏教を学ぼうではないか」。私の先輩のなかにもこういう人は3人ほどいます。そのひとりは、「只管打坐しても、瞳のない龍のようなものだ、形だけあって中身がともなっていない」といい放って、東南アジアのジャングルに籠もりました。彼自身の修行ですから、これはこれでいいと思いますが、ただ思うには「瞳のない龍のような」修行になったのは、そもそも誰のせいでしょうか。自分の修行であれば、自分の責任であるはずです。この龍に肝心な瞳を入れるのも、自分でなければ誰がやってくれるというのでしょうか。沢木老師曰く、「坐禅は龍の蟠るが如く颯爽たる姿勢と凛々たる気魄が籠っていなければならぬ」( 「坐禅の心構え」より)。どうして「龍の蟠るが如く」坐ってみようと思わないのでしょうか。この工夫が今ここ、この自分がしない限り、ジャングルの中でもヒマラヤの山頂でも「龍の瞳」が見つかるはずはないと思います。いわんや、カバンの中も、机の中も。  「タダする」修行とはもちろん、「ただボケーとする」ということではありません。先々月の台風で山道が部分的に流され、車庫はふっ飛び、生活水のダムは土砂で埋もれてしまいました。14年前に安泰寺にはじめて上山したと同様、雨の中で連日土砂を運ぶ作業になりました。「修行とは何か?仏道とは何か?私の心は今どこに?」といっている暇はもちろんなく、ただ土砂を運び、また土砂を運び、そして土砂を運ぶ…

 去年から沢木老師の「生きる力としてのzen」(櫛谷宗則編・大法輪閣)を少しずつドイツ語に訳しています。あと一句だけ引用させてください。  「心猿意馬というものは、相手になればなるほど、それがますます鎌首をもたげてくる。人間というものは坐禅しようが、念仏申そうが、戒法を持とうが、年寄ろうが、これは煩悩の塊でどうにもなりはせん。それを何とかなると思うて猛修する者がおる。それは無念無想ではなくて興奮というものじゃ。」 (続く・堂頭)

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