安泰寺

A N T A I J I

正しい坐り方

大人の修行 (その21)


 今年は暖冬で、安泰寺でもほんの数日前に初雪が降りました。ここでは冬の間の寒い時期には気温は建物の中でさえ氷点下近くまで下がります。この間、直堂という起床時に鈴を振って廊下を駆け抜ける係の雲水は、他の人よりも30分から1時間早く起きて薪ストーブをつけ坐禅堂を暖かくしなければなりません。しかし、冬特有の悪天候で風が吹き荒れる日や、煙突にすすがたまっている日などはストーブに火をつけるのにすごく時間がかかったり煙が逆行してきて部屋が煙まみれになったりします。忘れもしない私が直堂だったとある日のこと。坐禅堂の寒い中、ストーブと奮闘するも一向に火は点かず振鈴の時間は刻々と迫っていました。私は焦ってしまい、寒いにもかかわらず冷や汗を流し、顔を真っ赤にしてどうしたらいいものかとクラクラしました。その時突然、私の黄金の脳細胞に一つのひらめきが浮かんだのです。汗ばんだ右手に握りしめたライターを坐禅堂の入り口にある温度計の先端に近づけると瞬時に0度だった気温が20度まで上昇しました。私は今でも禅堂に来る雲水たちの「まじかよぉ。これでも20度かよぉ…」と寝ぼけ顔もしゃきっとするくらいの驚いた顔を思い出してはニタリと笑みをこぼします。

 数ヶ月にわたって坐禅における身・息・心の調え方について書いてきました。とはいっても、肝心な身の調え方についてはまだ何も書いておりません。調身ができていないのにもかかわらず、自分の心をどうこうしようとしたり、呼吸をいじったりしても仕様がないと言うところまでは述べました。坐禅において身心は一如ですから、正しく坐禅すれば当然心も整ってこなければなりませんし、また自分の呼吸も非常に大事な役割を果たしているのは言うまでもありません。ドイツ語で「息をする」を "Atmen" といいますが、これは梵語の "Atman" (アートマン)、つまり「自己」から来ているのだそうです。というのはどういうことかと言いますと、この呼吸とは「自分の呼吸」というよりも、「呼吸とはすなわちそのままの自分」といえることです。自分というものに意識する部分・意識される部分・意識しない・され得ない部分がありますが、この身と心の他の機能と違い呼吸の特徴の一つは意識的にも無意識にもできると言うことです。また、呼吸をそのまま意識することと、呼吸を意識的にコントロールすることの両方ができます。私自身は坐禅を始めてから何年間も呼吸を数えたりそのまま見つめたり(数息観と随息観)しましたし、なるべく深く息を吸おう、なるべく長く息を吐こうという風にガンバッタこともあります。誰かから「坐禅の呼吸は深くて長くなければならない」と聞いていたからです。また合気道の元祖は一分間に一回しか息を吸わなかったからこそ、誰にも負けないほど強かったという伝説(?)も聞かされ、「ヨッシャッ、オレも負けないぞ!」と力んでいました・・・  ところが、こういったリキミは決していいことではありません。呼吸を特別に意識する必要は何もありません。とは言っても、坐禅と呼吸が非常に親密な関係にあるのもまた事実です。日常生活の中でそれを実感させられるのは暁天坐禅(常如の日の朝5時から7時までの坐禅)の後に皆で読む「搭袈裟偈」の時です。「大哉解脱服、無相福田衣、披奉如来教、廣渡諸衆生」という4行を3回繰り返して読みます。私が安泰寺で教わったやり方では一行を一呼吸で「だーいーさーいーげーだーぷーくー・・・」と読むのですが、4行を3回繰り返すのは7時から7時10分までかかります。ということは、坐禅が終わったときの一呼吸が50秒ももつと言うことです(しかも、そのほとんどが吐く息です)。若いときに目指していた「一分に一呼吸」という目標にはかなり近いです。もちろん、皆はそれぞれ呼吸の長さが違いますし、一人でも坐禅の時と経行の時、睡眠の時、食事の時、作務の時など、呼吸の長さは自然に変わってきます。経行に関して言えば、5日間の接心の場合は初日や2日よりも3日目、4日目の方は呼吸が長く同じ10分の経行でも歩き出した時よりも終わりの方は呼吸が落ち着いて長いのが私個人の経験です(経行の時は一呼吸ごとに一歩前へ進みますから、ある程度呼吸を意識することがありますが、この場合ですら慣れてくると全く無意識のうちに呼吸をし足が運ばれます)。それらの現象はすべて自然で生理的な現象であって、呼吸はこうでなくてはならないと言うことは一つもなく、また無理にそうさせる必要も全くありません。そんなことをしなくても、今の息はちゃんと今の息をしているからです。

 では、坐禅と呼吸との親密な関係とはどういう関係でしょうか。私に言わせれば、呼吸は坐禅の温度計のようなものです。その呼吸に気をとられたり、それを何とかしようと言う試みは、あの寒い朝の坐禅堂で私の「黄金の脳細胞」に浮かんだひらめきのようなものです。肝心な薪ストーブに火を点すこともせず、温度計にライターを当てると同じくらいバカです。ある程度の心理的な効果はあるとしても、これで燃えるような坐禅ができるはずはありません。

 ここで先月までの「大人の修行」に対する質問と答えをいくつか紹介したいと思います。一人の読者からは次の質問がありました。 問:あなたは『気づき』あるいは『マインドフルネス』によって、修行者の意識の中に『意識する自分』と『意識される対象(呼吸であったり、心そのものであったり)』との間に隔たりができてしまう・だからむしろ無意識のうちに修行をすべきだ・この無意識の修行こそ隔たりのない、主体と客体のなくなった状態だ、と言うが、私はまさにその通りだと思う。私自身は長い間、坐禅の時に『私は息を吸っている、私は息を吐いている』というふうに呼吸を意識したが、ようやく自分の間違いに気づいた。あれは『気づき』ではなく、私の頭の中の独り言に過ぎなかったのだ。ただ思うには、私のそういう独り言は本当の『気づき』ではないから、あなたの言う『無意識の内の修行』を『本当の気づき』と名付けてもいいではないか。

答:そうですね。無意識の内の行を本当の気づきと言ってもいいかもしれませんし、あるいは本当の気づきは無意識の内に行われなければならないともいえるでしょう。ただ、多くの人はこの「気づき」あるいは「マインドフルネス」を間違って理解しているようですので、私は最初から「『気づき・マインドフルネス』なんか忘れてしまいなさい」と書きました。本当は「無理に何かに気づこうと思わないで、自然に気づき自然に気をつかいなさい」と書いてもよかったのです。

別の読者と以下の問答がありました。 問1:坐禅や経行以外の時、「気づき」のための方法はあるだろうか。呼吸や姿勢は坐禅において大事だが、坐禅以外の時はそれらに気を使うことはできない・・・

答1: やることをタダやってください。それ以外は何もやらなくてもいいのです。呼吸を見たり、姿勢に気をとられたり、心を気にすることも必要ありません。「気づき」の方法など、不要です。

問2: ただ「気づき」を忘れようと思っても、「忘れよう」という思いが生じた瞬間にはもうすで自分の「気」が動き、自分の心を意識してしまうのだ。何の工夫もなく「気づきを忘れる」ということは不可能だ!初心者の坐禅において何らかの工夫が必要であると同様、坐禅以外の時も工夫が要るはずだ。その工夫とはどういう工夫だろうか。

答2: あなたのいうパラドックスはまじめな修行者が皆いづれ出くわす難問です。「思いの手放し」というが、「手放そう」という思いこそなかなか手放せないものだ・・・「心に拘るな」というが、その「拘るな」というのも立派なコダワリの一つでは?・・・「悟るためではない、何も求めないでタダ坐る」というが、正直なところ誰だって求めるものがあってこそ坐禅しているのでは?ズバリ「悟りたい」からこその坐禅ではないか?・・・といったパラドックスです。坐禅における工夫に関していえば去年の9月で述べた、内山老師の車の運転の例えで説明しようとしました。最初から「自然に、無意識の内に、自動的に」坐禅修行ができないのは、最初からスムーズな車運転ができないのと同じです。まずその工夫を微細なところまで学び、体の芯にそれがしみこむまで復習しなければなりません。そうなってくれば、車運転と一緒でもはや自分をたえずチェックしコントロールしなくても、自然に修行ができるようになります。道元禅師の「正法眼蔵現成公案」の中の「佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。」というのもこの修行の構造を指しているように思います。

 あなたは次に、坐禅以外の時の工夫が知りたいと言いますが、坐禅と同じく今の行為に任せきって、やることになりきればいいのです。問題は、一体どうしたらなりきれるかと言うことです。「なりきろう」と思えば、もうすでに隔たりができてしまうからです。安泰寺で私がたまに言うのは、ものごとを「静かにかつ早くしかも効率的に」やりこなすことです。なぜかと言えば、いくら早く動き回っても、物音がうるさければ気が抜けているという意味ですし、逆に静かであってもトロいのは禁物です。修行がそのまま生活という安泰寺では何より効率は重んじられますが、効率のみの問題でもありません。本当に物事を静かに、早く、効率的に運ぶためには、全神経を、全身全霊を集中しなければなりません。そして、ふっと気がつけば(あるいは気がつかないかもしれませんが)「自分」というものは今の行為のなかにとけ込んでしまい、その行為だけになってしまったということです。このときの「気づき」は自然に無意識の内に起こるものです。なぜならば、目の前のことを必死にやっているとき、「気づきしよう」「心を見つめよう」などと考えている暇がないからです。「なりきろう」とも思わないで、ただ今ここやらなければならないことを必死になってやるのみです。ですから、坐禅の場合でも坐禅以外の生活の場合でも、その工夫を自分の心や意識に向けるのではなく、目の前のこと、自分の脚下に向けることが大事です。

 坐禅に火を点すためには「気づき」や「一呼吸」ではなく、まず調身から始まらなければなリません。坐禅にはマニュアルはありませんが、坐禅の仕方の説明はいくつもあります。道元禅師の「普勧坐禅儀」も正法眼蔵坐禅儀もそのうちの2つです。沢木老師によるものだけでも今手元に3つあります。一つは「禅談」の付録の中にあるもの、一つは「禅宗要典」にあるもの、もう一つはたまたま安泰寺の図書室で見つけた1枚のコピーです。来月からはこれらの指南書を検討しながら調身のしかたについて考えていきたいと思います。 (続く・堂頭)

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