安泰寺

A N T A I J I

正しい坐り方2「綿屑みたいな顔はみっともない!」

大人の修行 (その22)


 いよいよ坐禅の実際のやり方です。現代人は物事をなんでもマニュアル化したがっているようですが、それに対し去年の9月号ではあえて「坐禅にはマニュアルがありません」と申し上げました。ところが実のところ、昔から修行全般のマニュアルも、坐禅のマニュアルも存在しているのです。禅では百丈清規から始まるのですが、現在残っている中では禅苑清規が一番古いものにあたります。このホームページでは禅苑清規からの「一百二十問」が御覧になれます。日本では永平清規があり、曹洞宗では今でもよく参究されています。こういった清規は叢林における毎日の24時間の生活をいかに修行として生きるべきか、叢林生活の中で何を心得るべきか、といういわゆるマニュアルにあたるものです。坐禅に関しても、今まで何回も引用いたしました道元禅師の「普勧坐禅儀」や「正法眼蔵 坐禅儀」をはじめ、伝統的なものから、このホームページの「坐禅について」や「坐禅の仕方」・「坐禅の心構え」等々、現代的なものもたくさんあります。

 問題は、マニュアルをいくら集めても、その読み方・使い方が分からなければ、とんでもない結果になるということです。よく使われる例えですが、一つの目的を目指すのであれば、それを頭の中で思い描くだけではなく、実際に自分の足をその目的に向かって運び、遠い海を渡り山中深く分け入ることがもっとも大事です。ところが、そのために必要なのは「地図」です。その「地図」にあたるのは、上に述べた「清規」や「坐禅儀」といったマニュアルです。しかし、実際に地図をもって山へ分け入っても、現在地点がどこか、東西南北がどこか、地図のあの山この川は目の前のどこにあたるのか、ということが分からないと、目的に近づくことは到底無理です。これから正しい坐禅のマニュアルを読むわけですが、同時にまずその正しい読み方を学習しなければなりません。

 道元禅師は「学道用心集」の最後に、「坐禅工夫」と「参師問法」を強調しておられます。この「坐禅工夫」と「参師問法」は表裏の関係にあります。「參禪は坐禪なり」という一言から「正法眼蔵 坐禅儀」が始まりますが、坐禅に参ずるとは師匠に参ずるということです。逆に、師匠に参じない限り、坐禅工夫もできないということもできます。今はしばらく「坐禅工夫」という側面から話を進めますが、大事なのは、坐禅を直に教えてくれる生身の師匠や先輩の存在です。マニュアルだけでは坐禅も修行もできないということです。一人で坐禅を何年間続けると、「坐」はいっそう身についてき、大変な力になりますが、最初から一人で坐るのは無理ですし、かえって危ないところもあります。まずは適切な道場を見つけることです。この注意は以下読みたい沢木老師の「坐禅の仕方」にも、特に、当てはまります。

 では、まずその「坐禅の仕方」です(このホームページにある「坐禅の仕方」とは若干異なります)。

 「坐禅堂に入ったら、坐禅をするだけでなく、禅堂の規則を守らなければならない。  先づ単の前に来たならば、単の上に坐蒲を置き、前方に向って合掌する。次に単を後にして立ち、合掌して静かに単の上の坐蒲に腰を下し、単に上る。坐蒲は武士の刀にあたるものであるから、その大さ、高さ等は自分の体によく合ふものを選び用ひるがよい。  単に上ったら、坐蒲の上に尻を下し、尻が丁度坐蒲の半分位までにかかるやうにして坐る。尻をあまり深くのせるのはよくない。  次に右の足を左の腿の上に深くのせる。更に左の足を右の腿の上に深くのせる。斯やうにして、岩に鮑がひっついたやうに、両膝をピッタリと畳の上にひっつける。  次に左の足の上に右の掌を上向きにして置き、その上に左の掌を置き、母指が相対するやうに組み合わせる。  次に体を左右に大きく振り、次第に小さくしながら、七、八回ほど振って坐相を整へる。そして大きく一呼吸して、肩の力をすっかり抜いてしまふ。かくして尻をグッと後方に引き、尻の孔が後方に向くやうに尻を後に突き出す。その上に、背骨が垂直になるやうにして体を静かに置く。  頭は天井を突き上げるやうにして首筋を伸す。顎は耳の後の皮が痛くなる位にグッと引く。そして丁度、鼻と臍とが垂直になり、耳と肩とが垂直に相対するやうにする。舌は上顎につけ、奥歯は多少噛み合せる位にする。目は僅かに開き、三、四尺前の畳の上に落ちる位にする。  内臓は、あまり上に引き上げぬやうにするがよい。それかと言って下腹に無理に力を入れるのもよくない。自然に内臓をゆったりと下腹に載せるやうにするのがよい。内臓を無理すると病気になる。呼吸は自然にまかせるがよい。呼吸がつまるやうなのは、何処かに無理がある。斯やうにして腰の力をゆるめぬやうにして意志を緊張しておくことだ。兎に角、姿勢の急所は腰にあるのだから注意せよ。  意識はあくまで活々としておくことだ。だらりと睡たさうな顔をするではないぞ、綿屑みたいな疲れた顔をしているのはみっともない。顎をグッと引き締めて、活々とした顔をしてやれ。睡むくなったら、右肩に警策で叩いて貰へ。」

 以上は坐禅を目指す者のために書かれた、一枚の地図です。では、この地図を見るときにどんなところに注意すればよいのでしょうか。外国人の多くは禅を「平和主義」と勘違いしているようですが、こういう人がまず驚くのは沢木老師の軍隊的な口調です。  「坐蒲は武士の刀にあたるもの」  「腰の力をゆるめぬやうにして意志を緊張しておくことだ」  そして最後に「だらりと睡たさうな顔をするではないぞ、綿屑みたいな疲れた顔をしているのはみっともない。顎をグッと引き締めて、活々とした顔をしてやれ。睡むくなったら、右肩に警策で叩いて貰へ。」  沢木老師は坐禅修行をよく「撃ち方止め!」という一言で表していますが、この一言まで軍隊の命令になってしまっています。しかし、これはスタイルの問題に過ぎません。沢木老師がどうしてこのスタイルをとったかを考えるときは、まず老師の時代と聞いている相手を想像しなければなりません。いつの言葉なのかははっきり分かりませんが、文体からも分かるように、戦前か戦中のものです。相手はおそらくお坊さんではなく、坐禅したこともない学生などの一般の人です。勿論、日本人です。ひょっとしたら、自分の意志ではなく、団体で坐禅をさせられている「研修生」ではないでしょうか。つまり、この地図を見たときには、まずこういう地図なのだということを念頭に置いておかなければ、間違った方向へ進んでしまいます。日本人がこの「坐禅の仕方」を読んだ場合と、外国人が読んだ場合の反応とはまた違うかもしれません。ドイツ人の私が読んで、先ず気になるのは  「尻の孔が後方に向くやうに尻を後に突き出す」  「顎は耳の後の皮が痛くなる位にグッと引く」  「意志を緊張しておくことだ」  といった箇所です。本当にお尻の穴が真後ろに向くほど腰を入れることは不可能だと思いますが、くそ真面目な外国人参禅者がそのつもりでグッと腰を入れて坐禅を続ければ、間違いなく腰を痛めヘルニアにでもなるでしょう。また、アゴを引くのはいいですが、最初から皮が痛くなるくらいの姿勢を長時間たもてば、いい坐禅ができるはずがありません。「大きく一呼吸して、肩の力をすっかり抜いてしまふ」はずなのに、どうして「腰の力をゆるめぬやうにして意志を緊張しておくこと」なのでしょうか。これこそ「何処かに無理がある」と言わざるを得ません。  西洋人がとくにそう感じるのは、そもそも彼ら(私も含めて)が緊張型だからです。ですから、西洋人を相手に坐禅を説明した場合、もちろんアゴを引くことや腰を入れることの大切さも教えますが(この2点には道元禅師が「普勧坐禅儀」や「正法眼蔵 坐禅儀」の中ではなぜか触れていません)、むしろ「体も心も緊張させない」、「いっさいを手放す」、「痛さを堪えるのではなく、痛いという感覚をも受け入れ、痛さの中でリラックスする」ことを強調します。頭も体も固い、私のような西洋人の坐禅における第一の問題は、いかに凝り固まりをほぐすか、いかにこの姿勢のままでリラックスできるか、いかに足腰の痛みを受け入れるかということです。

 しかし、日本人は西洋人と比べれば、柔軟です。柔軟がゆえに、西洋人ほど無理もしないのです。よく言えば柔軟ですが、場合によっては「真剣さにかけている」というふうにもいえます。そうした日本人の坐禅の一番の問題は、緊張し過ぎではなく、「イネムリ」です。どうしてあんな窮屈な姿勢でイネムリなどできるのだろうか、外人には不可解ですが、外からの刺激がなくなった状態で居眠りに落ちるのは、日本人ならごく普通のことのようです。外国人が初めて日本にきて驚く、あの電車の中の居眠りの風景もそのせいかと思います。対人関係において自分の気を絶えず外に向けて緊張させなければ、意識がついなくなってしまうという型の人種なのでしょうか・・・。狩猟民族の西洋人はいつも「ファイト・モード」に入っていますので、お互いによく「テーク・イット・イージー」「リラックス」などと呼び合っているのに対し、日本人はデレーッとしているからこそ逆に「頑張れ!」「我慢しろ!」を挨拶代わりに使うのかもしれません。そうならば、沢木老師のいう「だらりと睡たさうな顔をするではないぞ、綿屑みたいな疲れた顔をしているのはみっともない」も頷けます。坐禅中に自分の顔などを意識する外国人は先ずいないでしょうが、日本人の場合はそうしなければ、張り合いがなさすぎて眠ってしまう人も少なくないでしょう。そこで老婆心ながらの老師の注意が施されるわけです。  それにしても、「下腹に無理に力を入れるのもよくない。自然に内臓をゆったりと下腹に載せるやうにするのがよい。内臓を無理すると病気になる」と言われるように、下腹だけではなく、体も心も、どこにも無理せず、自然にゆったりと調えなければなりません。坐禅は決して罰ゲームではなく、「手放し」の修行です。この工夫こそ「大人の修行」であり、いちいち「みっともない」「叩いてもらえ」と注意されなければならないようでは、子供です。

 今回引用いたしました「坐禅の仕方」はたまたま安泰寺の図書室で見つけた1枚のコピーです。これとはべつの「正しい坐禅の仕方」というのが沢木老師の「禅談」の付録の中にあります。そしてもう一つは「禅宗要典」にありますが、これは「禅談」のものを再編集し微妙に変えたものです。これらの「坐禅の仕方」はまた来月検討したいと思います。   (続く・堂頭)

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