安泰寺

A N T A I J I

正しい坐り方 5「忍辱の婆羅蜜としての坐禅」

(大人の修行 その25)


 どこで坐禅しようが、忍辱の婆羅蜜(苦しみを受け入れること、俗で言う「辛抱」に当たる)としての坐禅をする機会はいくらでもあります。3年前、私が安泰寺の住職になったとき、これといって以前と大きく変えた事はありませんでした。変えた事の一つと言えば新しく建てた禅堂で坐禅をしなくなった事です。というのも本堂で坐禅するのと比べて、不都合がたくさんありすぎたからです。確かに冬の間、ストーブで部屋を暖めるのは本堂の壁にひびがたくさんあるために新しく建てた禅堂の方が簡単だったのですが、禅堂は図書館の2階に位置しているために早朝は零下になるほど寒く、建物に吹き付ける風でせっかく焚いたストーブの熱も逃げてしまうのです。ところがひとたびお日様が顔を出せば、見る見る気温は上昇し、暑すぎるからといって、今度は寒い冬でさえ窓を開ける人が出る始末です。今のところ、私たちは1月から3月までの冬の間は広間で坐っています。というのも広間は外部と接触する壁がなく、夜間もさほど冷え込むことも少なくかつ日中は部屋を暖めやすく、そして風や天候に左右されずに気温を保つことも出来るからです。それから、禅堂は冬の間に屋根に積もる1メートル以上の雪のことは考慮されずに建てられたために、日中ストーブを焚くと屋根の乗った雪は徐々に下方に滑りますが、夜間の冷え込みで落ちずに再び凍ってしまうのです。こうして斜めに固まった雪がやがて屋根から滑り落ちてきたときは、2階の窓ガラスを割ってしまう危険性もあります。大変な時間と労力を要するものですし、危険もはらんでいたのですが、雲水は雪を下ろすために屋根の上に登らなければならなかったのです。冬の間、この建物でストーブさえ焚かなければ、その必要もなくなりました。

 新しい禅堂では夏の間は、頭上と足下にある窓を開けることが出来ましたが、これは風が吹かなければ「さわやかな風」を取り入れることなど話にもならない状態で、サウナのようになることもしばしばでした。というのも窓に直射日光が当たらなくても、本堂や庫裡の屋根の熱の跳ね返りが2階にある禅堂を直撃するのです。また、風がそよそよと吹いていても障子の代わりの白いカーテンがうるさく音を立てて、その上、風でカーテンがなびくと顔に直射日光が当たるのです。

 これはまだ序の口の話で、春や秋はもっとひどかったです。というのも、2階にある禅堂は接心の早朝4時には5℃以下の気温が晴天の日にはほんの数時間で25℃にまで上がるのです。経行の時にいちいち服を着替えるわけにもいかず結局は朝にはぶるぶる震え寒い思いをしながら、昼過ぎには今度汗びっしょりになるのです。その上、日が暮れればじっとりと湿った下着で再び寒い夜を迎えるのです。サーイーアークーサーイー!こういった事態を引き起こすのも、禅堂が風や日差しにさらされているからであり、屋外で坐った方が気温の寒暖差があまりないといった状況なのです。当時、四苦八苦していた私たちの修行というのものは、茶道の千利休の言葉を思い起こさせたものでした。

「寒熱の地獄に通う茶柄杓も、心無ければ苦しみもなし」

 問題は、どうやって「無心」になれるか、ということでしょう。  ある雲水が師に尋ねた。  「夏の暑さや冬の寒さをさけるためには、どうしたらよろしいでしょうか」  「夏は暑くない所へ、冬は寒くない所へいけば?」  「その都合のいい所、一体どこにあるのでしょうか」  「暑いときは暑いまま、寒いときは寒いまま、そのままになりきればよい」  といった公案があります。つまり、「静けさ」と同様、「暖かさ・静けさ」とは何も外的なものではなく、私たちの心持ち次第です。夏の暑さでは汗をかき、冬の寒さには凍えればいいと言っています。ただそれだけです。無心というものは、現実そのものから足しても引いてもいないということです。

 それ故、いわゆる忍辱の婆羅蜜というものは我慢して歯を食いしばるよりは、ありのままに受け入れるということです。がしかし、いくら受け入れることが肝心だと言っても以前使っていた本堂が新しい禅堂よりも坐禅に適しているのであれば一体どうして本堂ではなく、新しい禅堂で坐禅を続けなければならないのかということが疑問になりました。 本堂もやはり冬は寒く夏は暑いのですが日中の気温はさほど変化がなく、坐禅人の身体は自然に気候に慣れてしまいます。内部の明かりも薄暗いのですが、本を読むわけでもないので、坐禅に適していると言えます。坐蒲の上で居眠りするにしても新しい禅堂でも相変わらずたくさん居眠りしていたことからも明かりではなく、他の理由があるはずです。新しい禅堂は明るすぎで、まばゆいばかりの直射日光が窓から差し込み、本堂ではまさか居眠りなんかしなかった雲水も明るすぎて目を閉じそのまま居眠りしてしまう有様でした。夜には蛍光灯が異常に明るく感じられました。元々の電球は充分明るく、暖かみのある光が坐蒲の上で落ち着かせます。冷たく、ちかちかちかちかするのはさておき、蛍光灯は風が吹いたり鳥が鳴くと、ほとんど聞き取れないくらいのずずずーという音がしますが、夜の静寂の中では耳障りな音でしかありません。3年前、本堂に電球の明かりを調節できるスイッチを取り付け、自由に明かりを調節することも出来るようになりました。坐禅の経験から言えばやや暗い方が眠くなるよりもはっとします。とはいっても限界があり、暗すぎても決していけないのですが。

 では、新禅堂建設の経験から私たちは何を学習したのでしょう。各自の坐禅の取り組み方こそ大切ではあるけれども、坐禅する環境も多大な影響力があるということがわかりました。しかしながら私たちが最も理想とする環境下ではかならず坐れるとは限らないものです。いつも雑音は耳に入り、同じ環境でも暑いと思う人があれば一方で寒いと思う人もあり、明るすぎると思う人があればちょっと薄暗いと感じる人もいるために、私たちは坐禅にその時、最も適した選択肢をみてみる必要があります。集団で坐禅をするときにはもちろん、そこの決まりを受け入れ、自分の好みを人に押しつけてはなりません。ですから新しい禅堂は坐禅に全くといっても適したものではないと思いながらも、堂頭になるまではそのことを心の中の小箱にそっとしまっておきました。また、この禅堂を建設中には私は別の僧堂へ逃げておりましたので、私やその他の雲水がこの禅堂に不満をもっても、ハナをほじほじしながら「てゆうかー、僕ちんたちはーこの禅堂で一年中、坐禅をやってるけどぉー、てゆぅかー、前の方がよくない?」ということなんて到底言える立場ではなかったのです。今は、卓球場となっているのですが…

 新しい禅堂を敢えて忍辱の婆羅蜜の実践の場と思って何年も過ごしてきました。さてさて、来月はどこで坐るべきなのかということを考察し、身体の準備というところへ向かっていきたいと思います。 (続く・堂頭)

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