安泰寺

A N T A I J I

正しい坐り方 12「窮屈袋に礙(さまた)げられて」

(大人の修行 その32)


 澤木老師の「正しい坐禪の仕方」の「身體の整へ方」の次は、「衣服の整へ方」です。

 イ)しわになったり汚れたりすることが氣になる様な着物や、特に美しい着物或は垢がついてヒヤリとする様な着物、或は厚着、薄着を避けること。  ロ)衣服はキチンと着けて帯はなるべく寛く結ぶがよい。襟元が押さへつけられる様だったり、腹が窮屈だったりしてはいけない。足袋ははかない。

 なるほど、ピチピチのジーパンで坐禅しても、タダでさえ痛い足はますます痛くなるばかりです。衣やハカマ、スカートやゆったりとした作務衣は坐禅に最適と言えます。欧米の多くの坐禅道場では在家の方も必ず黒い服を着ていますが、これは人の気を引かないためです。安泰寺では雲水でなければ、黒い服にはこだわりませんが、あまりにも目立つような服、あるいは経行中に音のするものは避けた方がいいでしょう。また、どんなに寒くても帽子や靴下は履きません。

 道元禅師の【普勸坐禪儀】のなかにも

 寛く衣帯を繋けて、齊整ならしむべし。

 という注意が施されていますが、同じ道元禅師の【坐禪儀】では

 坐禪のとき、袈裟をかくべし。

 という言葉が付け加えられています。澤木老師もよく「お袈裟を掛けてタダ坐れば、それでお仕舞い」と言われていました。  曹洞宗では朝の暁天坐禅を除いて、お袈裟を着けて坐禅をするのが常識です。お袈裟の下には衣、その下には着物、その下には襦袢、その下にはTシャツとパンツを身につけます。安泰寺の雲水も、夏の一番暑い時期を除いてこの格好です。あたりまえといえばあたりまえの格好です。  がしかし、こんな疑問を持つ人もいるかもしれません。「一体全体、なぜお袈裟を掛けていなければダメなのか、なぜゆったりした格好でタダ坐るだけではダメなのか?」と。他でもなく、私自身もそうでした。10数年前に得度式を受けた際、当時の「帰命」(安泰寺の寺報)に出家得度の感想を書きましたが、今日の私が読み返してみますと、こんな恥ずかしい文章は他にありません。

 「得度というのは出家のことですが、生きていたまま生まれ変わるとでもいえましょう。しかし・・・どうせ、誰でも1時間の内に何回も生まれ変わってしまいます。得度というのはこの絶えない変化を表しているタダの儀式に過ぎないと思いましたが、以前と思ったより大きな変化がありました。それはお坊さんの着ている着物や衣や袈裟です。あんなに坐りにくい服で坐禅させられると『ヤッパリ得度しなければよかったかな』と思うほどです・・・」

 一人の人間が仏道に巡りあい、発心し、師匠に恵まれ、得度を受けますと、まず感謝の気持ちがあるはずです。それから将来に向かって、仏・菩薩と共に仏道を歩みたい、一切衆生の救済に役立ちたいという大きな誓願もあるはずなのですが、私の得度当時の文章を見ますと、そういった表現はどこにもありません。「衣と袈裟で坐禅がしにくい」というボヤキしかないのです。また当時、こんなことも考えました。「朝の暁天坐禅の時、本堂はまだ寒いのに、袈裟は着けない。夜坐の時はだいぶ暖かくなっているのに、今度は袈裟を着けなければならない。これって、逆にした方がいいじゃないの?」と。つまり、お袈裟を自分の都合で考え、自分の都合に合わせようとしていたのです。

 このホームページでもご覧になれます、安泰寺の「参禅者心得」では次のような文章が載っています。

 「いちばん大事なことは自分の方へ仏道を引き寄せるのではなく、自分の身も思いをも仏道の方へ投げ入れることだ。」

 これはつまり仏道を自分の都合に合わせるのではなく、自分を忘れて仏道に従うという姿勢です。そして、私が初めてお袈裟を身につけて考えていたことは、全くの逆の例です。「お袈裟と仏道とは違うではないか」と、当時の私だったら反論していたに違いありません。「お袈裟はただ身につけるものであって、大事なのは肝心要の仏法ではないか」と。しかし、そうではないのです。「衣法一如」という、どう考えても非常識な教えを、澤木老師は支持しています。「仏法は大事だけど、お袈裟はどうでもいい」と我見を張っていれば、お袈裟をバカにしているばかりではなく、仏法までバカにしていることになります。それは「肝心要の仏法」を自分の眼鏡を通して眺めているからなのです。しかし、仏法とは自分の眼鏡に映った世界でもなければ、自分の枠内の出来事でもなく、その「思枠」を越えた世界こそが仏法のはずです。自分の身も思いをも仏道の方へ投げ入れようとするものならば、お袈裟をまず有り難く頂戴するはずです。しかし、若かった私には、その準備がまだできていませんでした。どう考えても、「お袈裟は縫い合わせた布でしょう?仏法そのものと違うでしょう?」という疑問が取れなかったのです。

 事実上、お袈裟は縫い合わせた布からできています。がしかし、澤木老師は「禅談」の中の「お袈裟の話」において

 「衣即ちお袈裟を傳へるとは佛法の極意を傳へることである。」  「頭を剃って御袈裟を搭けて坐禅する。それが最後の頂點、それより行く所がない・・・」

 と言っています。澤木老師は十代の終わり頃からよくお袈裟について考えていましたが、お袈裟のことに詳しい師匠にはなかなか巡り会えなかったと書いています。10年以上経って、ようやく「方服歌讃儀」や「法服図儀」といった、お袈裟のことが書いてあるお経に出会ったようです。そこから澤木老師の袈裟の研究が始まりました。しかし、澤木老師のようなお袈裟の熱心な信者よりも、私のような不真面目な態度の持ち主は当時からウヨウヨいたようです。

 「或る地方に行くと、坊主の癖にお袈裟を窮屈袋と云ってゐる。なんで窮屈袋と云うのか知らんが、憐れむべき考へ違ひである。・・・窮屈袋と言へば窮屈袋だが、ここがお袈裟の抜き差しならん尊い所である。」

 「窮屈袋」とはまさに若かった私の考え方です。ではそれがなぜお袈裟の「尊い所」なのでしょうか。【普勸坐禪儀】のなかに

 「唯打坐を務めて、兀地に礙えらる。」

 とありますが、「私」という凡夫は「坐」に礙げられる(邪魔される)というのです。つまり、「私」が坐禅に包まれるから、凡夫から見れば非常に不自由、なるほど窮屈ですが、仏の方から見れば凡夫の手の届かない自由自在な世界、尊い世界がそこに広がります。

  お袈裟の意味について、そしてお袈裟の信仰のいくつかの問題点についてはまた来月書きたいと思います。 (続く・堂頭)

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