安泰寺

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正しい坐り方14「坐所の整え方」

(大人の修行 その34)


 「禅談」の附録「正しい坐禪の仕方」では、「衣服の整へ方」に続いて「坐所の整え方」と「坐禪の身構え」という項目があります。澤木老師がこう説明しています。

 坐所の整え方
 イ)坐る所には敬虔な心を持って臨まねばならぬ。
 ロ)坐る所は坐褥(普通の角蒲團でよい)を敷いて、その上に更に蒲團を置く。此の蒲團は直徑一尺六寸の圓いもので、中にパンヤが入れてある。若し此の蒲團のない時には普通の坐蒲團を二つ折り又は四つ折りにして代用すればよい。
 ハ)壁や椅子其の他のものに倚りかゝることは禁物である。
 ニ)姿勢の正邪は蒲團の高さ、敷き方によつて左右されることが多い。


 「坐禪の身構え」  一)道場に入った時には先ず正面の佛象なり掛軸なりに對し合掌して禮し、自分の席に歩を進めて、更に此の席にも合掌して座に就くのである。正式に設けられた道場或は僧堂にあつては係の者の指揮を受けるがよい。多勢で坐る時には向き合って坐る對坐と、背中合わせになつて坐る面壁とあるが、初心の時は面壁がよい。


 これらは今まで坐禅指導を受けたことのない在家修行者のための言葉でしす。曹洞宗で坐禅を長く続けるのであれば、自分の体に合った坐蒲を自分で持った方がいいでしょう。  澤木老師は壁やイスによりかからないようにと言っていますが、とくに西洋人の間では、坐蒲の上で足が組めない、正座もできないという人は多くいます。日本でもイスで坐るしか仕方がない人がいると思います。しかし、イスで坐禅した場合でも、背もたれを使わない方がいいですから、最初から背もたれのないイスを使うべきです。また、例えイスの上で坐ったとしても、長時間坐禅を続けると、どっちみち痛いということくらいは覚悟すべきです。坐禅してもしなくても、生きることは苦しみを伴っています。  澤木老師は「面壁」も「対坐」も述べていますが、初心者やベテランを問わず、曹洞宗は面壁です。それの対し、日本の臨済宗は今、対坐が主流となっています。それぞれの道場の家風に従わなければならないのは、言うまでもないことです。  自分の「席にも合掌して座に就く」と澤木老師は言っていますが、普段は自分の席に合掌低頭した後、時計回りして反対側の方面にも合掌低頭します。その後、座につきます。また、隣の人はその合掌低頭に対して、自分も合掌します。ですから、お堂に入ってから坐禅が始まるまで、少なくとも三、四回合掌低頭をしなければなりません。


われわれ西洋人がよく疑問に思うのは、こういった問いです。「一体全体、何のためにいつも合掌したり、ぺこぺこと頭を下げたりしなければならない」と。どうしてあの仏像(偶像?)の前で礼拝しなければならないのか?どうして座蒲の前で合掌低頭しなければならないのか?どうしてトイレや風呂に入る前ですら、合掌低頭したり礼拝したりするのか?

若い時に読んでいた本にこう書いてありました。「禅僧が自分の座蒲団に向かってお辞儀をするのは、いずれその座蒲団の上で悟りを開くからです。当時、私はなるほどと思いました。悟りを手に入れるために、道具としての座蒲団も必要ですから、そな座蒲団を大事にしなければならないと。「悟りが欲しから合掌低頭」、その理屈を今から考えるとまさに肉が欲しくてしっぽを振っている犬のようです。

 去年の四月号で奥村正博老師の言葉を引用しました。  「華を献じ、ロウソクに明かりを点し、線香を立てるのは、静寂な雰囲気を作るためです。なぜならば、坐禅しているとき、その空間は私たちと一緒に坐禅しているからです。坐禅と坐禅の道場を切り離すことは出来ません。そして人生についても、私たちの生きている環境についても、同じことはいえます。」

 ここは礼拝や合掌低頭の言葉は出てきませんが、空間の大事さが説明されています。われわれは空間の中で生きていると言うよりも、「空間を生きている」のです。行によって、空間を表しているのです。そのため、空間を敬い、座蒲にまで合掌低頭をするのです。そして元祖の釈尊にはもとより、仏法そのものや修行の仲間達である叢林にも当然礼拝し頭を下げています。それは、われわれの日常の行の空間を提供してくださっているからです。トイレにしてもお風呂にしても台所にしても、同じことです。


 それにしても、ちょっとぺこぺこしすぎではないか、という人はいるかもしれません。いちいち頭を下げなくても、合掌しなくても、心の中で静かに感謝の気持ちを浮かべれば良いではないか、と。  これに対して、逆に言えます。「ではなぜ、そんなに頭を下げるのがいやなのか?なぜたかが合掌をきちんとしないのか?」  過去において、中国の皇帝の前で跪くのがいやだといって、処刑された外国人もいます。どうしてひざまずいたり、頭下げたりするのがいやかというと、その意味をあまりにもよく知りすぎているからです。礼拝をするということは、自分を投げ出すと言うことです。とくに自己主張の強いわれわれ西洋人はこれがいやなんです。

 澤木老師の言葉の中には、こう言うのがあります。  「合掌して夫婦喧嘩するのは難しい。合掌する処にごく澄んだ気持ちが、自分にも他人にも現れてくる。」  「この頭を上げようと思えばこそ、金も欲しい、大臣にもなりたい。ところが宗教において、この頭を下げると言うこと、合掌低頭することが本当に生きるということである。」  「形というものは面白いものである。私はこの形というものが素晴らしいものだということを信ずる。この合掌というようなこと、礼拝というようなこと、坐禅というようなこと、こういう形を七佛相伝と信ずるのである。」  「仏さんと継ぎ目なしになるにはどうするかというたら、坐禅する、合掌礼拝する。」  「私は腹が立ったら合掌する。合掌するとノボセが下がる。痙攣がおさまる。」

 合掌という形は、エゴのしっぽを振らないということです。 


 また、合掌低頭にどんな意味があるのか時に、1月号でも書きましたように「何をするにしても、それが意味を持つか持たないかは、行動している本人次第だ」ということを忘れてはなりません。確かに、無意味な合掌低頭の仕方もあると思います。正しい合掌の仕方を澤木老師はこう教えています。  「合掌の仕方は両手五本の指の下節をピッタリ合わせて各五指を伸ばし、つけて揃え、腕を胸に近づけず、肘を腋から離して、指頭が鼻端に対するほどの高さに保って真っ直ぐ上に向ける。このとき指頭と鼻端の間にひと拳の距離が開いている。指頭が身に迫って鼻の穴を突くようになっているのや、前の方に傾き人を狙っているようなのはよろしくない。また肘を張らずに、身に付け過ぎているのも寒そうである。 」  「いちいち合掌したりしなくてもいいじゃないか」というと、いつの間に鼻くそをほじるような合掌の仕方になってしまいます。そんな合掌はいうまでもなく、しない方がよろしいでしょう。どうせ合掌をするのであれば、合掌と一枚になり、合掌になりきらなければなりません。そうしてはじめて、自分にも他人にも合掌の心が現れてき、合掌低頭することが本当に生きるという道理がハッキリしてきます。  合掌と自分が一枚になった時、合掌はもう早坐禅への準備ではなく、合掌そのものが坐禅そのものになります。 (続く・堂頭)

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